ある朝、暖炉の横のあたりで、屈んでいた黒魔女が背中を丸めながら、ついにこの時が来たと言うようなトーンの唸り声を上げていた。
「うーん……」
視線の先にあったのは薪置き場だ。そこには目で容易に数えられる程度の本数しか残っていなかった。まだ寒い時期ではないためそこまでの消費量ではないものの、今のうちから手を打っておかないと後で痛い目を見るという教訓は、長い生涯の中で幾度となく刻み込まれたもので……
お隣さんまで足を運んでみる。彼女は畑で草取りに耽っていた。
未だ日差しが強い日もある、しばらくはこの光景も見ることになるだろう。
「ロクサーヌ、薪って足りてる?」
「あまり無かったような気がします」
「こっちの備蓄がそろそろなくなりそうだから、せっかくだし二人分を揃えてくるわ。森の方に行ってくる」
「お気をつけ下さいね。サンドイッチもあるので、持っていってください」
「じゃあ、ありがたく貰っていくわ……」
今日はどうやら木こりの日になりそうだ。
蔵から慣れ親しんだ斧を取りだし、集落にある共用の荷車を借りて近場の森へ足を運ぶ。木々が近付くにつれて日差しは弱まり、涼しさと同時にどこか鬱蒼とした暗がりがラヴェンナを包み込む……
ウィンデルやストーンヘイヴンの周りには森が点在しており、それが他の地域との緩衝地帯としての役割も果たしている。交易路を除いて人が立ち入ることはほとんどなく、その奥まったところともなれば尚更だった。
ラヴェンナはいつも通りのやり方で道から外れ、森の中に作られたごく簡素な脇道のようなもの――何度か立ち入ったことで徐々に整備されてきた長年の努力の賜物――を荷車と共に行く。木々の葉が擦れる音、鳥のさえずりが降ってくる下をゆっくりと向かう。
(森の中は落ち着くわね……この辺りでいいかしら)
(丁度良さそうな場所があるから、今日はここで始めましょう)
大木と大木の間にまだ若い木がいくつも生えている。
これは放っておけば無秩序に伸びて面倒な存在になってしまうのだ。こうしてラヴェンナが活動しやすい場所にするためにも、薪にする上では優先的な目標になりうる。さっそく、斧を使って根元に切れ込みを入れ始める。
カンッ、カンッ、カンッ――
ラヴェンナが腰を使う度、心地よい音が森の中に響いていく。
(いち、にっ。いち、にっ……)
(よし、これはこんなものにして、それっ)
ある程度切り込みを入れた後、若木に手を掛けてへし折れば――お見事、一本の長い原木が手に入る。太さはまだ心許ないが薪として使うには十分だ。
今度はそれを手頃な長さに揃えなければならない。物によってはまだ「丸太」と呼べる太さのものも存在するため、こういったものは半分に割って扱いやすくする。しかしこれは、齢200を超えたラヴェンナにとってなかなかの重労働だ。
(何も考えない、何も考えない……)
(いっぽん、にほん、さんぼん、よんほん……)
若木の幹をへし折り、使いやすい大きさに裁断し、荷車に乗せていく。
しばらく無心を貫いて、ようやく一人分の薪が完成した。しかしロクサーヌの分もこれから用意しなければならない。貰ったサンドイッチ分の働きはしたいところだが……などと思い至ったところで、少し休憩でもしようと近場の泉へやってくる。
(ここは、変わってないわね)
(誰も来てないのかしら。まあ、森の奥だし)
森の中にたたずむ泉は、天から差し込んでくる日差しもあって神々しい美しさを放っていた。ここには以前、ラヴェンナが座るために用意した丸太があり……今回もまだ残っていた。
ロクサーヌからの頂き物を半分食べて、斧の調子を確かめていた頃。
ふと、黒魔女は何かの気配を感じた。振り返ればそこには、シカが一匹――
「わぁーっ!」
突然のことに素っ頓狂な声を上げたラヴェンナは、つい、手に持っていた斧をあらぬ方向に吹っ飛ばしてしまった。シカは「ヘッ」と笑った後に軽やかな歩調で木々の間へ消えていく。
そうして気付いた。手から離れていった斧が……泉の中にポチャリ!
「あっ」
なんということだ!
ラヴェンナが呆然とする中……泉の底からブクブクと泡が立ち始める。
『アーッ、ちょっと待ってて、今支度するから。えっと、外に出るための服は、確かこのあたりだっけ……』
水の中から女性の声が聞こえてくる。
それも、ものすごく怠惰な感じの……
『あー、あったあった、これ着て……よし』
すると突如、水面がパァーっと黄金色の光を放ち始める!
その中心からせり上がるように現れたのは、長い水色の髪を伸ばした背の高い女性だった。身体には“いかにも”な装いである白のキトンが纏われており、何も知らない状態で見れば、なんと美しい人だと惚れ惚れすることだろう。
「私は女神エレオラ……げ、ラヴェンナか、気合い入れて損した。こほん」
「……」
「あなたが落としたのはこの――」
「もう色々と台無しよ」
なんとも言えない間が流れた。近くで鳥が呑気にさえずっている。
「……もう一回やってもいい?」
「そういうことじゃないのよ。ほら、普通の斧! 落としたのは普通の斧!」
「せっかちなのはよくないよ、ラヴェンナ。早死にしちゃう」
「いちいちそっちの時間感覚に合わせたら干からびちゃうでしょうね!」
「ふわぁぁ……」
「欠伸しないの!」
「注文が多い魔女だなぁ。まったく」
ざぶん。エレオラは泉の中に潜ると、今度は何かをもって現れ直した。
その手に抱えられていたのは……金色に輝いているミノタウロスくんだ!
「正直者なあなたには、この金のミノタウロスくん人形を――」
「あのね、これがあっても薪は作れないのよ」
「なめてもらっちゃ困る……けど、その前に」
女神のお腹から、グルルルと低い音が鳴った……
「まだご飯を食べてないかも」
「……」
「そんな目で見ない!」
「はぁぁぁ。いいわよもう」
ラヴェンナはロクサーヌからもらった昼食を仕方なく分け与える。
エレオラがサンドイッチをもぐもぐ食べると、泉から放たれている光がさらに強くなって……彼女が持っていたぬいぐるみもキラキラと輝き始める!
「う~ん、とってもおいしい! 久しぶりに話ができて嬉しかったわ。あと秋の収穫祭も楽しみにしてるからね……」
「あ、ちょっと!」
「じゃあ、がんばってね~」
その言葉を最後に女神は去っていった。
泉のほとりに残されたのは金のミノタウロスくん……ラヴェンナがこの後どうしようか思案していると、なんとそれはひとりでに立ち上がる! そして何かを探している様子であたりをキョロキョロ見回し始めた。
「あら」
「――、――――」
「……もしかして手伝ってくれるの? あっちよ」
「!」
場所を指差して示すと、それを見た金色のぬいぐるみはペタペタと地面を蹴って走り出す。そして若木が沢山生えている地帯まで来ると金の斧を持ち、目にも留まらぬ速さで木こりを始めた!
ポコポコポコポコ……聞いてて気持ちよい音が森の中に響いていく。
そうしてあっという間に薪の山が作り出された。まさに神の業だ――
「――!」
金のミノタウロスくんは最後、挨拶をするように斧を掲げて……ポン、と煙を吐いて消える。するとそこに、先程までラヴェンナが使っていた普通の斧が残されていた。
なんだかんだでエレオラは望む物を与えてくれていたようだ。黒魔女はそれも合わせて荷台に載せ、沢山の薪で重くなった荷車を引いて帰りの道に入る。
(うーん)
(別にぬいぐるみのままでも良かったのだけど、まあいいわ)
(今度来る時はちょっと多めに食事を用意しないと。忘れないように……)
轍を作りながら、不思議な森を一人行く。こういう日もある。