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第65話「とてもよくある秋の一日」

 蝉の鳴き声も随分と弱まって、数少ない生き残りがジージーと慎ましく身体を震わせているような心地よい朝。ベッドで両脚をだらしなく広げながら寝転がっていたラヴェンナは、半開きにした口の端から涎を垂らし、その顔を緩ませては気持ち良いひとときをこれでもかと堪能している。

 薄手の肌着で身体をゆったりと包み、いつものようにお腹の肉を隙間からはみ出させて……口を大きく開け、低く震わせながら大きな欠伸を一つ。


「……」


 目の端に浮いた涙を手の甲で拭い、まどろみの中で思考を揺蕩わせる。

 最近は忙しかったような気もするが、今日は何にも予定が無い日だ――そんな素晴らしい時間を贅沢に使いながら、寝汗で僅かに湿り気を帯びたお尻の付け根に指先をこすりつけてズリズリと掻く。

 すると、仄かな痒みは治まっていった。

 やがて、瞼を微かに開いた黒魔女は棚の方へ人差し指を振って……置いていた「ミノタウロスくん」のぬいぐるみを魔法の力で引き寄せる。それを両腕で抱きしめながら再び目を閉じ、夢と現の境へ戻っていった。


「くかぁ……」


 遠くからはウシの伸び伸びとした鳴き声が聞こえてくる。小鳥たちのさえずりと集落の住民たちの営みも耳で確かめていると、魔女小屋の玄関が丁寧な音間隔でノックされた。

 家主が寝転がって無反応な中、ドアが僅かに開いて、お隣さんのロクサーヌが顔を覗かせてくる。彼女はまだ着替えてすらもいない有様を前に苦笑いを浮かべると、サンドイッチの載っていた平皿をテーブルの上、水の入ったコップをベッド横に置いていった。


「ラヴェンナ様、朝ご飯を置いておきます。水もお飲みくださいね」

「んん……」


 むずむず、むずむず。言葉も仕草もはっきりとしていない返事だ。

 白魔女は仕方なしに微笑むと、あまり物音を立てないように魔女小屋から去っていった。中には再びラヴェンナ一人だけとなり、安らかな寝息だけが響く。


 それからしばらくが経って。

 どこかの集落で薪割りの音が響き始めた頃……ぐうたら魔女はようやく睡眠に満足した様子で目を開けた。ミノタウロスくんを抱きしめ、掛け布団を被り直してからぼんやり天井を見つめて物思いに耽り始める。


(薪……まだあったかしら。そろそろなくなりそうかも)

(ご飯は、ええと、さっきロクサーヌが持ってきてくれたかしら。さっきって、どれくらい前かは分からないけど……)


 横向きに寝返りを打って、テーブルの上のサンドイッチを確認。

 上半身を起こし、ベッド横に置かれた水を一口飲んでからまた布団に戻った。やがて緩慢な一日のスタートを切る――その前に、最後の一休みと言わんばかりのゴロ寝を再開。集落のどこかから鶏がコケーッと鳴く声が聞こえる。


(……寝ているのも飽きたわね)

(今日は、何をして暇を潰そうかしら)


 半ば諦めの情と共にベッドを出て、マットレスの凹んだところにミノタウロスくんを置いてから布団を被せる。それから椅子に引っかけていたローブを被り、化粧台の前に座って鏡で身なりを整え始めた。

 王都に出向いていた時と違って誰に会うわけでもないから、ごくごく最小限に済ませて七割くらいの顔を作る。それでもローズウォーターを使った保湿と香り付けは念入りに行って……いつもと同じ黒魔女姿になって、窓の外でも見ながらサンドイッチをつまむ。夏野菜はそろそろ減り始める時期だが、もう少し経ったら良いレタスが食べられるようになるだろう。


(しっかし天気が良いわねぇ。家の中に居ると損した気分になっちゃうわ)

(でも、こういう日を家で過ごすのも、それはそれで贅沢かも)

(また釣りでもしようかしらねぇ。だけど、せっかく秋なんだし……うーん)


 昼からの過ごし方を悩んでいた時――

 魔女小屋の扉がゴンゴンとノックされた。先程と違い、妙に低い音がする……


「どうぞ」

「魔女様、すまねえが開けてくれないか。手が塞がってて!」

「ライラ?」


 言われた通り扉を開けてみると、そこではライラが木箱を両手に持って立っていた。フタがされていて中身は窺えないが、結構な量があるのだろうか?


「どうしたのよ。というか、足で扉を叩かないでちょうだい」

「ハハッ、そんなことしてねえよ。ちょいと使ったんだ」

「え?」

「大事なのはこの中身だ。そら、開けるぞ……」


 ライラはどさりと地面へ箱を置き、その中にあったものを見せてきた。

 そこには森を感じさせる物がたくさん詰まっていたが……ひと際存在感を強く放っているのが、なんとも特徴的な形をした太いキノコ。傘の幅も広くて貫禄があり、何より、香りが濃厚でとても良い雰囲気だ。黒魔女はこのキノコのことをよく知っていた……


「ポルチーニ茸じゃないの。もうそんな時期なのね」

「たぶん初物だぜ……さっき森の方で猟師の手伝いをしてきたら、副産物で色々見つけてな。問題ない範囲でこっちも貰ってきた」

「ああ、成程。この干し肉は?」

「こいつは手伝いのお礼で頂いた物だ。なんでも、前に狩ったイノシシで作ったらしいが……魔女様、要るか? 正直あたし一人だと生肉の消化で手一杯でな」


 これは思わぬ贈り物だ。

 断る理由もないため、ラヴェンナは快く受け取ることにした。


「せっかくだし貰うわ」

「二人分置いていくから、あとは好きに使ってくれ」

「悪いわねぇ。今度何かお返しできないか考えておかないと」

「残りはどうすっかなぁ。ま、沢山あって困ることは無いか。んじゃあまた!」


 ライラは少し軽くなった木箱を手にテントの方角へ帰っていった。

 ラヴェンナは頂き物のポルチーニ茸とイノシシのベーコンをまな板に載せて、お隣ロクサーヌの魔女小屋を訪れてみる。畑の中で屈んでいた彼女は育てた花を植木鉢へ移し替えていた。あとで街の市場に送り出すつもりだろう。


「ロクサーヌ!」

「どうしましたか? ん、それは――」

「さっきライラがお裾分けしてくれたの。森で手伝いをしてたらしいわ」

「まあ、良い大きさと形ですね。それなら夕食はクリームパスタにしますか」

「いい考えね、楽しみにしてるわ」


 適当なところに置いて帰ろうとした時、ロクサーヌが遅れて声を上げる。


「あ……」

「どうしたの?」

「牛乳がないかもしれません。なんとかできるでしょうか」

「それなら、ええと……」


 家の中にあった物を思い出してみる。しかしこちらも牛乳のストックはない。

 頭と口は既にクリームパスタの気分だ。なんとかしなければ……


「仕方ないわね、奴を探してくるわ」

「お願いします。適当な入れ物を持っていっていいので」

「じゃあ一つ借りるわね。さて、どこをほっつき回ってるのか……」


 ロクサーヌの家にあった木の入れ物を借りたラヴェンナは午後のウィンデルを散策し始める。目当ては……集落をあてどなく彷徨っているあのウシだ。いつもは向こうの方から来てくれているが、今日はこちらから見つけないといけない。

 川の方へ行ってみたり、広場のあたりで見回してみたり。

 だが、こういう時に限って見つからない。どこかにいるのは間違いないが。


(……?)

(入れ違いになってる気がするわね)

(だったら、空から探してやりましょうか。手間を掛けさせてくれるわ)


 いったん自宅へ戻り、箒に跨って地面を蹴る。

 そうしてウィンデルを一周してみれば、集落の端にあるテントの横で頭を垂れて、のんきに道草を食べている白黒模様があった。なんと、丁度さっき出会ったライラが寝泊まりしている場所の真横だ。近くには焚き火が作られ、そこで串に刺された肉とキノコが丸焼きにされている。


「ライラ!」

「んお、また会ったな。忘れ物か?」

「挨拶しただけよ。今度の用事はこっちにあるの」

「こっちって……ほお」


 ラヴェンナがそれを指さすと、ライラは木の入れ物と交互に見て事情を察したようだ。お目当ての「奴」が食事を終えてリラックスしているところで頭を撫でて機嫌を取り、横を取るように屈む。

 入れ物の蓋を開けて、お乳の出るところを合わせた後――お腹周りの膨らみを手でマッサージする。むにむに、むにむに……こうすると出が良くなるのだ。


「さっき色々貰ったじゃない、ロクサーヌが今晩、あれでパスタを作るの」

「良いアイデアだな! その感じだと、クリームパスタか」

「その通りよ。っと、そろそろいい頃合いかしら。じっとしてなさいね……」


 なんとなく張りが良さそうに見えるそれに手を掛けて、握るように絞ってみれば……ピューっと真っ直ぐな線を作るように生乳が降りていった。ウシはのんびりとした顔で、近くにある草をもっしゃもっしゃとゆっくり噛み続けていた。



◆ ◆ ◆



 夏用に設置されていた日よけは既に取り払われ、ガーデンテーブルとチェアの上には夕方の空が広がっている。そこでラヴェンナが腰掛けて頬杖をついていると、料理の載った皿を二枚持ったロクサーヌが魔女小屋から出てきた。

 一仕事を終えた黒魔女の前に置かれたのは皿いっぱいのクリームパスタだ。

 そこには具材としてポルチーニとベーコンが混ぜ込まれ、アクセントのパセリもあって色合いも良い。香りも、脂と香ばしさの混ざった素敵なものであった。


「う~ん、いいわねぇ。秋が来たって感じがするわ」

「今日は過ごしやすいですし、このまま外で星を見ましょうか」

「それがいいかしら。後でランタンを持ってきましょう」


 フォークで麺を巻いて口へ入れる。濃厚なミルクのまろやかさ、チーズと肉とキノコの旨味が口いっぱいに広がって突き抜けるような美味しさだ! 魔女二人は頬を緩ませたまま、ニコニコ笑顔で穏やかな時間を過ごす。


 それからは、二人でガーデンチェアに身体を預けたまま、秋の夜空を言葉もなしに眺めていた。なんてことない一日、こんな過ごし方も悪くない。

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