朝、秋晴れの清々しい空を、二人の魔女がそれぞれ箒に乗ってまっすぐ飛んでいた。過ごしやすい陽気の中を行く彼女たちが向かう先には、よく慣れ親しんだストーンヘイヴンの街並みが小さな点のようにそびえている。
談笑しながら飛んでいると、マリーの跨っていた「喋る箒」がまたこんなことを言い始めた。長く使っているのか、ラヴェンナがお試しで使ったものよりも、幾分か知性がついたような声色だ。
『マリー様、もう少しでストーンヘイヴンに到着します。今日のご飯は決められましたか?』
「あーん、決めてなかったかも……」
「部屋に荷物を入れたら、外で昼ご飯にしましょ」
「そうする!」
見知った光景が徐々に徐々に近付いてきて、ようやく帰ってきたような心地があった。しかしまだやるべきことは残っている。二人は開けた場所で降りると、朝の人混みに混ざりながらマリーの新居を探す。
するとそこは、まさに彼女が務めるパン屋のすぐ近くだった。もらった部屋は二階にあるため、階段を上ってから先に部屋の様子を窺ってみる。やはり家具のひとつもないカラの状態だ。
木の壁と床、窓から射してくる柔らかな午前の光。
マリーはちょうど真ん中の位置に腰を下ろし、両腕を目いっぱいに伸ばしては今だけの広さを全身で味わっていた。
「う~ん、すごくいいところでしょ、ママ!」
「ええ。日差しもあって、仕事場も近い、悪くないと思うわ」
「他にもいくつか見て回ったんだけど、ここが一番良くて……これからはたまにウィンデルにも遊びに行けるから、その時はまたママのお手伝いするね」
「はいはい。何かあったらいつでも来なさい」
「やったー!」
床に寝そべりながら両手両足をバタバタさせて水泳の真似事を始めるマリー。
その横で足を崩していたラヴェンナが箒の長旅から大きな欠伸をしていると、部屋の外からガラガラと重い荷馬車の音が聞こえてくる。
「来た!」
表の道に出直せば、昨日荷物を頼んだあの馬車が新居の前まで到達していた。
早速二人は魔法を使いながら木箱の山を部屋へ移し、ベッドや棚といった大型家具を置きながら内装を整えていく。
「ベッドはどの辺が良い?」
「こっちだと西日が当たって眠れないから、ここ! 本棚はこっち」
「そこだと日に焼けちゃわない?」
「あっ、そうだった……この辺りかなぁ」
荷造りの時と違って、場所さえ決めてしまえばあとは早かった。
雑多な物はまだ木箱の中に入れたままだが、それらは一旦隅に置いて……引っ越しが無事に完了した二人は丁度昼間のストーンヘイヴンへ繰り出す。そろそろ、お昼ご飯を考えても良い頃合いだ。
「ふぃぃ……」
「おつかれさま。近くの喫茶で何か食べましょ」
近くにはパン屋を始めとした様々な店が通っており、その中に一つ良さそうなカフェレストランがあった。天気も良いので二人で外のテラス席を貰い、こんなお昼に相応しいサンドイッチのランチを頬張る。
あれだけ眩しかった日差しも優しくなり、このまま外でぼんやり過ごしていたくなるようなゆったりとした時間が流れる中……ラヴェンナは通りを歩く女騎士の姿に気付く。
揺れる滑らかな白髪、凜とした翠眼。騎士団長のカトリーナだ。彼女は昼食中の魔女二人に気付くと、片手で挨拶をしながら歩み寄ってくる。
「あらカトリーナ、精が出るわね。仕事中?」
「ああ、猫探しを頼まれてて」
「ねこ!?」
「……その子は?」
「数年前の教え子よ。今日ここに帰ってきたばかりなの」
「こんにちは、マリーです! 王都でパン修行してました!」
初対面の相手にも爛漫な様子で自己紹介するマリー。カトリーナは一瞬遅れたあとに笑みを浮かべて握手するも、自分より一回りも小さな姉弟子を前にどうしたらいいか分からないような顔をしていた。……ラヴェンナにはその様子がよく見えていた。
「カトリーナだ。ストーンヘイヴン騎士団の、騎士団長を務めている」
「すごい、団長さんだ! 今日からよろしくお願いします。そういえば、さっき猫の話をしてましたけど、迷子ちゃんがいるんですか?」
「旧市街の方で餌やりしている人がいてな。その人がしばらく姿を見なかったと言って相談しに来たんだ。まだ若い猫だし、どこかにいるようなんだが……」
話を聞いていたマリーは顎に手を当ててフンフンと大げさに頷いてみせた後、自慢げに胸を張りながら堂々とした様子で提案する。
「まかせてください。こう見えても、猫探しは大の得意なんですよ」
「そうか、手を貸してくれるならありがたいが」
「マリーの自信は本物よ。昔から猫と戯れてばっかで」
「ママ、今はそんなこといいでしょー! ご飯食べたらすぐ行かなきゃ!」
「はいはい」
「ママ……?」
聞き慣れない言葉にカトリーナが緊迫した顔を浮かべる。
「ママ!」
「育ての親って意味よ。この子が勝手に言ってるだけ」
「ママはママだも~ん」
「あんまり彼女を困らせないの。ほら、猫のことは聞かなくていいの?」
「はっ、そうでした。猫ちゃんのことについてもっと聞かせてください!」
「ああ、それはな……」
楽しいことを見つけたマリーはすぐに昼ご飯を食べ終わった後、カトリーナに問題の猫について色々と聞き始めた。ラヴェンナも少し急いで食べ終わり、三人で旧市街の方へ歩いて行く。
◆ ◆ ◆
歴史ある城壁の残った街区、午後の穏やかな日の下。ラヴェンナとカトリーナは少し離れたところに立って、路地の奥を覗き込む小さな魔女を眺めていた。
「彼女は一体何を?」
「まあ、見ててあげなさい」
マリーはまるで探し物をするように身体を上下に伸ばしていたが、やがて何かを見つけると、視線を奥へ向けたまま動きをぴたりと止めて――
にゃー、にゃーにゃーにゃー。
まるで“本物”と聞き違えそうになるような渾身の鳴き真似を始めた! 二人が固唾を呑んで見守っていると、なんということだ、どこからともなく何匹もの猫たちが集まって来るではないか……
たちまち彼女の周りは猫でいっぱいになる。屈んだマリーが猫語で喋っている姿を前に、カトリーナは俄に信じがたい様子で目を大きくしていた。
「にゃーにゃ……にゃ? にゃにゃ、にゃーにゃー」
「凄いな。あれも魔法なのか」
「いや、あれは彼女の趣味なのよ……」
「え?」
「にゃんにゃん、にゃ……にゃ? にゃにゃ!」
しばらく経って。やりとりを済ませたマリーがニコニコと笑顔で戻ってきた。背景で猫たちがそれぞれの場所へ散っていく中、自慢げに成果を喋り出す。
「なんとかなりそうかもです!」
「はいはい、おつかれさま」
「マリーは……猫の言葉が分かるのか?」
「なんとなく! 大事なのは心だから」
ふふんと鼻を鳴らして胸を張るマリー。
しばらくすると、遠くから別の兵士が慌てて走ってきた。その両腕には、まさに先程カトリーナが説明していたような猫が抱えられていた……
「団長!」
「その猫は説明された通りの……どこにいた?」
「さっき、猫たちが走ってきたと思ったら、横道から突然出てきて……」
どうやらお尋ね者は見つかったようだった。
マリーがまた胸を張っている。彼女も、猫の情報網も侮れるものではない……
◆ ◆ ◆
それから騎士団の仕事が終わるのを見送った後、カトリーナとも別れてから、マリーは赤色に染まりつつある西の空を眺めて溜め息をついていた。
「なんだかあっという間でしたね……ふああぁ」
「明日は早いの?」
「あと数日は仕事ないんですけど、でも、そろそろ合わせなきゃなって。ママも付き合ってくれてありがとね」
ストーンヘイヴンの見慣れた街並みに立つマリーは、寂しげにそう呟いた後、最後にもう一回とラヴェンナのもとへ飛び込んできた。連日、色々な姿を見せてくれた小さな魔女は名残惜しそうに「ママ」の身体の感触を確かめる。
パン修行もあって成長したように見えた少女だが、その根っこの部分は黒魔女がよく知る頃から変わっていないようだった。
「また会いに来るわよ。今度はお客さんとしても来るから」
「はい、楽しみにしてます! それじゃあ……また!」
マリーは離れた後、手を振りながら夕方の街へ消えていった。
一人だけに戻ったラヴェンナは目を閉じ、誰も話しかけてこない静かな喧噪をしばらく聞いて――箒に跨ってから空へ舞い上がった。
(長旅だったわね……)
(帰ったらしばらく寝て過ごそうかしら)
(明日はなんにもしないわ。決めた、ゴロゴロする……)
ストーンヘイヴンを抜けてしばらく飛べば、あの閑静なウィンデル集落が見えてくる。そして見覚えしかない魔女小屋に降り立ち、奇妙な懐かしさと心地よさを楽しみながら、そのドアを開いて中へ入っていった。