「アレン君、忘れ物はありませんか?」
「大丈夫です。それじゃあ、行ってきます!」
「気をつけてくださいね。お二人に迷惑を掛けてはいけませんよ」
綺麗に晴れた夏色の朝、サン・ブライト修道院からリュックサックを背負った少年が飛び出していった。シスター・アイリスから見送られながら彼はストーンヘイヴンの街を駆け、とある種苗店の前で立ち止まる。
入り口からは花の良い香りが漂っていた。深呼吸して息を整えてから、アレンはドアを開けて店内へ入る。
するとたちまち、顔中をむわりと包むような蜜の香りが漂ってきた――
「おっ、おはよう、ございます」
「待ってたわ~! さっそくお仕事お願い!」
「ハァーイ、アレン君。今日はよろしく」
出迎えたのはアルラウネの姉妹、グロリアとリリィだ。以前にその姿を見た時と比べれば身体から生えた葉っぱが多いようにうかがえる。それもそのはず……彼女たちにとって夏は最も元気になる時期なのだ。ライラの魔物図鑑にはそんなことが書いてあったとアレンは思い出す。
「今日は葉っぱがたくさんですね」
「そーなの! これからその手入れをお願いしようかな~って思って。リリィ、先にやってもらって」
「へぇ、じゃあお願いしちゃおうかしら。店番よろしくね、姉さん」
「がってん!」
「えっと、僕なんかで大丈夫でしょうか?」
「今はあなたしか頼れる相手がいないのよ。それに、難しくないからすぐに覚えられるわ。じゃあアレン君、お姉さんと一緒にお店の裏に来ましょう……?」
「あわわわ……」
言われるがまま、店の裏にある空きスペースまでやって来るアレン。
リリィは腰元を自身のツタで探ると、その身体が生えていた植木鉢と車椅子の拘束を解き、広くなったところの真ん中にゆっくりと降りる。そうして、近くに置いてあった剪定用の小さな鉈を持った。
「ほら見て、ここは分かりやすいところだから私が自分でやってみせるけれど、ツタのあちこちから細い新芽が伸びてきているでしょう? ここに刃を置いて、そっと横に滑らせるようにして、プチッと……」
「痛くないんですか?」
「これくらいなら全然大丈夫よ。でも尖ったところで刺されたら流石に痛いわ。だからこの鉈も先が丸くなっているでしょ? わざと潰してもらったの」
太いツタに添えるように置き、その鋭い部分で細かな芽の根元を刈り取る。
もう彼女たちは何年何十年とやってきているのだろう。その手仕事は危なげなく淡々と丁寧に行われ、患部はかつてと同じつるりとした緑肌に戻っていた。
「地元にいた時はね、近くに咲いていた仲間に見てもらいながらやっていたわ。みんなでやれば早く終わるんだけどね」
「お二人の地元って……」
「ここよりもずーっと暖かい場所。冬も寒くなくて、色んな魔物や植物が育つ、本当に賑やかな森だったわ。でも私は外の世界を見たくて、ある日、行商の人に頼んで運んでもらったの。それで来たのがここだった」
昔を懐かしむように語った後、リリィは鉈の持ち手を向けてアレンに渡す。
「さて、話は程々にして……お手並み拝見と行こうかしら、少年くん」
「がんばりますっ」
「リラックスよ、リラックス」
アレンはリリィにも見える部分のツタを手に取り、やり方を確認するように、ゆっくりと丁寧に刃を扱っていく。それがあまりに怯えているようで、リリィは思わずクスクスと笑ってしまっていた。
一本、二本……生えていた余分な新芽を削っていく。彼女がすぐに覚えられると言っていた通り、彼の手捌きは徐々に洗練されてスピードも上がっていく。
「じゃあ今度は付け根の辺りをお願い。その辺は私だと届かないから」
「わかりました、やってみます」
しゅるしゅると伸びる蔦は腰元から始まっていた。その付近に手を差し入れて一本ずつ分けながら、他を傷つけないよう鉈を差し込んで新芽を削る。
その最中、アルラウネの肢体から甘くてフローラルな香りが漂ってきた。
思わず目がトロンとしかけるのを堪える。作業中にうとうとしてはいけない、そう自分に言い聞かせ、アレンはあまり息をしないよう気を張って手を動かす。
(なんだかすごく良い匂いだ。そうだよね、アルラウネだもんね)
(でも、ずっと嗅いでたら変な気持ちになっちゃいそう)
(ううっ、早く終わらせなきゃ……)
せっせと鉈を動かし、ひたすら無心を保つことしばらく。ようやく一段落したところで顔を上げると、丁度こちらへ振り返ってくる彼女と目が合った。
少年よりも大人びた体つきのアルラウネは、人間のものではない獰猛な衝動を瞳の奥にたたえているようで……その上でも何もせず、ただじっと、彼のことを不敵な笑みと共に見下ろし続けていた。思わずアレンは鳥肌が立ち、慌てて視線を逸らしてしまう。
「お、終わりましたっ」
「良い子ね。ちゃーんと真面目にやってくれて嬉しいわ。このお仕事は不真面目な子には到底任せられないものだったから……」
「そう、ですか……」
「じゃあ、姉さんと店番を交代してくるから。待ってなさい」
夏のせいだろうか。リリィはいつになく大人な雰囲気と香りを振り撒きながら車椅子に「乗り直し」、そのまま店の中へと戻っていった。
足元に落ちた新芽をアレンが近くにあった箒で掃いていると、今度は代わりにグロリアが赤い花弁とツタを揺らしながら現れた。なんとなくではあるが、全身からフローラルな香りが一層押し寄せて来ているような気がする……
「おつかれさま~! リリィのことを手伝ってくれてありがとうね。次は私の方もおねがい!」
「はい、わかりました」
「うふ~ん、あんまり変なところ見ちゃダメだからね? よいしょっと」
車椅子から「降りた」グロリアは腰に両手を当ててエッヘンと胸を張る。その周りでアレンは、太いツタの一本一本を確認しながら余計な芽を削っていく。
しかし……本当に良い香りがする。
やましいことは考えないよう気を張ってもどこかで緩んでしまいそうだ!
(ぐ……だ、だめだ、変なことしたら、怒られちゃう!)
(最悪、アイリスさんにバレたらまたお尻ぺんぺんされる……)
「そーだ! ねえねえアレン君、タオル持ってきたから、これで腰回り拭いてくれない? なんだか、ちょっと蒸れちゃってるみたいなの」
「へっ? ああ、はい、わかりました、やりますっ」
いつの間にか持っていたタオルを手渡された少年は、言われるがままに腰元の辺りを手で探ってみる。なるほど確かに湿り気を帯びたところがあった。そこへタオルを当て、水とも蜜とも言いがたい香り汁を吸っていく。
「アレン君って、将来の夢はある?」
「えっと……今は、魔物学者が興味あって。ライラさんの図鑑を読んでます」
「わーっ、すごく良い! じゃあ今のこれも研究の一つ?」
「そうなると思います。うぶっ、すごい香り……」
「あぁ、あんまり無理しちゃダメ! 休憩を挟んでもいいから」
湿気が取り除かれれば肌面はサラサラに戻る。作業再開だ。花畑へ迷い込んだような匂いに包まれながら鉈を滑らせ、ツタを綺麗にメンテナンスして……ようやくグロリアの分も終わる。
ほっと力が抜けたのも束の間――アレンは殆ど無意識のまま、グロリアの背中にぴったりと顔を寄せてしまっていた。わぁっ、と声が上がると、少年は慌てて飛び退くように彼女から距離を置く。
「あっ――」
「アレン君、どうしたの? もしかして疲れちゃった?」
「あ、あぁっ、なんでもありません、なんでも」
「ふ~ん。ひとまずおつかれさま! 少し休んでて良いからね」
グロリアはまた車椅子に乗り直し、そのまま店の中へ戻ろうとする。
その時に一瞬だけ振り返り――アレンへ歯を見せて微笑みかけた。
「……!」
普段の彼女からはあまり想像できない、相手を視線で釘付けにせんとする、野性的な眼差しがあった。そして、それ以上に無言のメッセージを伝えられた気がしたアレンは、ただの一言も発せないまま店裏で棒立ちしかできない。
ドアが閉まり、少年は一人だけになる。
彼女たち二人は人間ではなく「魔物」である――未だ残る蠱惑的な香りに思考を蝕まれながら、緊張と同時に好奇心が首をもたげようとしていた。
◆ ◆ ◆
店の裏で座って休んでいたアレンは、そろそろ戻ろうと思って種苗店の裏口から入り直す。するとさっきまで忘れていた花と蜜の香りが一気に押し寄せてきて目を閉じてしまった。
何やら、匂いが強くなっているような気がする。
あの魔物図鑑に書いてあったことを思い出す。アルラウネは暖かい地域の出身だから、夏になると活動が活発になる――でも、それはいったいなんの活動?
「おかえり~、アレン君」
「……」
「ただいま……。あれ、リリィさんは?」
カウンターの奥に居たリリィは緑色のビーンズクッションを抱きしめたまま、ただの一言も話さずアレンの方へじっと視線を向け続けていた。その前方にいたグロリアは妙に静かに立っている。
今日初めて店に入ってきた時から感じていた、いつもと違うような違和感……その根源はどうも、今日の彼女たちが放っている「香り」にあるようだ。夏場のアルラウネは元気になると言うが、もしかしたらそれだけではない、もっと別の事情があったのかもしれない。
「あのっ。二人とも、今日はどうしたんですか」
「どうしたって、どうしたの?」
「えーっと……なんだか様子がいつもと違う、って言うか……」
「そう? いつもとおんなじだけど~?」
しかしその割には、グロリアはニヤニヤと微笑みを向け続けている。
アレンはなんだかこの場に居づらくなってしまった。何かずっとここにいたら良からぬ出来事が起こるような、そんな直感が働いて、つい店の出入口へ歩いてしまう。
その時だった。背後から伸びた蔦が、アレンの身体に優しく巻きついた。
「え――」
「まだお仕事のお手伝いは終わってないよ! 勝手に帰っちゃダメ!」
「待ってくださいっ、えっと、すいません、分かりましたから!」
「は~い捕まえたっ。こうやって持ち上げるのも久しぶりかも? ほら、こっちまでいらっしゃ~い♪」
「わぁぁぁぁ!」
つるりとしたツタに身体を持ち上げられたアレン。足をバタバタ動かしても、そのつま先が地面を擦ることはなかった。そのままグロリアの真正面まで持っていかれた彼は、いつになく色めいて見えるグロリアを前に赤面してしまう。
間違いない――強い確信があった。
図鑑には載ってなかったけど、アルラウネは夏になると、きっと……!
「お仕事終わるまで一緒に店番しましょうねぇ」
「あばばばば、待って、グロリアさんっ! リリィさん、たすけて!」
「……」
「ダメだよ、リリィだって我慢してるんだから。ほーら、アレン君、おとなしくしなさい。私と同じ鉢に入って? 図鑑に書いてないことを教えてあげる……」
「アーーーーッ!」
もうダメだ、このまま狭い鉢の中でどうにかなってしまうんだ……
アレンが全てを諦めようとしたその直前だった。
頭の上に、ひんやりとした塊が乗せられた。
「っ!?」
「きゃーっ! なにこれ、つめた~い!」
「あぁー!」
一瞬で我に返った三人。ツタから解放されたアレンが慌てて店内を見回すと、開いていたドアの向こうに背の高い女性が立っていた。
白い三角帽子に白いローブ。“氷撃の魔女”ロクサーヌ・フロストだ……彼女は三人の方へ手をかざし、手頃な大きさの氷塊を頭上に生成していたのだった。
「……何をされているんですか?」
「ロクサーヌ、いきなり氷はやめて! 寒いの苦手なんだから~!」
「急に冷えたから、なんだか、具合が……」
「え、えっと、これは」
「二人とも、まだ彼は子供なんですよ。それに、貴方も断らないとダメでしょ。アイリス様に知られたらおかんむりですよ」
「ひぃぃ……」
ぐうの音も出ない正論。
三人はカウンター越しに並べられ、ロクサーヌの「氷嚢」を頭に乗せたままでしばらく反省させられたのだった……
「うわ~ん、ごめんなさ~い!」
「反省します……」
「ううっ、どうしてこんなことに」
「まったくもう……」
店の外ではセミがけたたましく鳴いている。