夏のある昼、ストーンヘイヴンの広間に人だかりができていた。親子連れを主として集まる彼らの視線の先、設けられた壇の上に、愛らしい「ミノタウロス」の着ぐるみ一体と兵士たちの姿がある。魔物の斧はしっかり鉄で作られ、どこかキュートな丸みのあるボディ部分と裏腹になかなかの臨場感が滲み出ていた。
後ろの横断幕には「おやこあんぜん教室」と書かれている。
騎士団が定期的に主催している子供向けの注意喚起のイベントだ。壇の真ん中に立っているフルプレートアーマーの男が、やや高めの親しみある声色で群衆へ語りかけている……
「最近は、外で悪い魔物に襲われた、なんて話はあんまり聞かなくなりました。それでも万が一、魔物と出くわしてしまった時、どうしたらいいかを教えるからしっかり見ていてくださいね」
「「「はーい!」」」
「よーしみんな良い子だ。今回、悪い魔物役としてこちら――ミノタウロスくんに来てもらっています。よろしくね、ミノタウロスくん……」
兵士が親しげに近付いていくと、被っていた鋼鉄のヘルムに鉄の斧がコツンと軽く落とされた。会場が笑いに包まれる。
「……えー、そうです、不用意に話しかけようものならこうなってしまう危険性があります。だから、よくわからない魔物に出くわした時はまず、近付かないで距離を取ってくださいね」
「「「はーい!」」」
「じゃあ実際に、どういう風にしたらいいか実演しましょう。セッティング係の皆さん、そしてミノタウロスくん、準備をお願いします――」
――それからしばらく経って「おやこあんぜん教室」は無事に終了した。
観客の子供たちがいなくなった後、舞台の裏手に入った「ミノタウロスくん」は周りをキョロキョロ見回し、関係者以外の人が見えないことを確認してから頭部に手を掛けて外す。
すると、綺麗に伸びた白髪が中からさらりと飛び出してきた。
凜とした顔立ちと翡翠のような瞳、カトリーナは顔を覆っていたものから解放されると、首を左右に振って髪の毛を流してからようやく一息ついた。傍に来ていた別の兵士が着ぐるみを脱ぐのを手伝い始める。
「お疲れ様でした、団長。子供たちはみんなお利口さんでしたよ」
「うむ。だがやはり……“ゴブリンくん”の方がもっと良かったのでは?」
「それは私もそう思います。ですが団長は背が高いので、そのままではゴブリンというよりオークに見えてしまうのではないかと」
「確かにそうだな。ううん、実に残念……」
「次までに良い案がないか、こちらからアリアさんに手紙を書いてみます。ところで団長は、この仕事が終わった後、しばらくお休みでは?」
「む……?」
その言葉を聞いて、カトリーナは自分が休暇というものを取っていた……と言うより、
◆ ◆ ◆
ストーンヘイヴン騎士団を束ねるカトリーナは、普段は部下の騎士たちを指導する立場にありながら、時には組織の顔としての仕事も求められていた。何らかのメッセージを送ったり、客人を出迎えたり、市民たちとの交流を図ったり……通常の兵士より仕事量が多い日常を彼女は文句一つこぼさず受け入れていたが、その結果が何十連勤という不健康極まりない数字に表れていた。
ある日の朝、普段通りに訓練の監督をしようとしていたら、カトリーナの元に部下たちが集まってきて……
『団長、我々のことは大丈夫ですから、たまにはお休みください』
『団長のことですから信頼はしていますが、それでも不安になってしまいます』
『仕事は、私たちが分担して行いますので……』
そこまで言われてしまっては「いいや、その必要はない」と答える訳にもいかなかった。結果、今日この日からしばらくの
(とは言え)
(……困った、何もすることがない)
休みがあったことさえも忘れていたのだ。こんな時に何をするかなどすっかり思考の外で、軽装姿で道の真ん中に立ったまま青空をぼんやり見上げていた。
まだ夏の暑さが完全に消えたわけでもなく、先程着ぐるみに入っていたせいもあってか身体の表面が妙に熱っぽさを帯びている。カトリーナは騎士団寮の自室に一旦戻ると、着替えを持ってから公衆浴場へ向かっていった。
ストーンヘイヴンに設けられた大浴場。特にこの四方を壁に囲んだ露天風呂は時に市民たちの疲れを癒やす場として、時に交流の場として魔王時代から愛されてきた場所だ。
そこへ更衣室からカトリーナが入ってきた時、男女を問わず、どちらの視線も一緒になって彼女の元へ引き寄せられていった。
長い白髪は頭の後ろで一本に結ばれ、綺麗なポニーテールとなって人々の興味を掻きたてんばかりに振れる。日頃の鍛錬で引き締められた身体は入浴用タオルをぴったりと巻いて隠されていたが、わずかなシトラスの香りと彼女の女性的な魅力はそうもいかなかったようだ。
すらりと伸びた長い脚。先に木桶で身体に湯をかけてから足先で水面を割り、そのまま身を沈めて安堵の息を吐く。どこか物憂げな佇まいの女性一人が入っただけで、辺りには女神の泉の如き神々しさが漂うようだった。
「ふう……」
(普段は仕事のことを考えていたが、いまは何をしよう?)
(皆はうまくやっているだろうか。信頼の置ける者たちではあるが……)
開けた上方を仰げば、そこには遙か遠くまで続くような
手で湯をすくって肩へ流せば、三手に分かたれた水が白く美しい胸元と肘腕、筋肉の浮いた広い背中へそれぞれ流れ落ちていった。鎧を纏えば
「ん……」
(とても気持ちいいひとときだ)
(これが終わったら、そうだな。何か食べに行くか)
(その後は、昼間から酒を飲みに行くのもいい――)
カトリーナは指を絡ませ、腕を伸ばしながら心地よさに任せて唸る。
やがて湯船の縁に寄りかかったまま、ようやく心に余裕ができたような様子で仄かな笑みを浮かべて目を閉じた。休みの日の過ごし方は詳しくないが、かつて教えてくれた人との記憶を思い返しながら一人時間をじっくりと堪能する。
周りの喧噪も、これまでの疲労も、すべてが湯に溶けて消えていく……
◆ ◆ ◆
公衆浴場を出たカトリーナは持ってきたもう一着の軽装に着替えると、いったん寮に戻って荷物を置いてから、そのまま旧市街の方へ出てきた。
近くにはサンドイッチの屋台が出ている。そこで一人分の軽食を手に入れた後は日陰のベンチに腰掛ける。百年以上前から残る城壁を見上げれば、ところどころ崩れたところを足場に街の自由猫たちが好き勝手に占拠していた。
(ベーコン、レタス、トマト。ソースにはマスタードを練り込んでいるか)
(うむ、夏らしい味だ。これが一番良い……)
涼しい風が頬を撫でれば、先程の入浴で上気した肌が冷えて心地よくなる。
ここは街の中でも静かな場所だ。永い時間の流れを感じながら、猫たちと共に贅沢な午後の味を噛みしめる。ゆったりしているとカトリーナの存在が受け入れられ始めたのか、最初遠くにいた猫たちが徐々に近付いてきていた。
しかし、ある程度の距離までやって来ると彼らは立ち止まった。カトリーナの周囲に奇妙な円模様が作られ、猫の数が増えるほどにハッキリしていった。
(む……まだ警戒されているのか?)
どこかの魔女のように、膝の上にやって来た猫を撫でては甘やかす……なんてことは今はできそうにない。そのことに寂しさを覚えながらも、サンドイッチを食べ終えた後は席を立ち、ひとまずの最終目的地へ向かう。
休日を過ごす最後の場所として選んだのは、ストーンヘイヴンにパラパラ点在している酒場の一つ。カトリーナ行きつけのこの場所は、まだ外が明るいこともあってか他の客の姿は見られない。
バーカウンターの向かいには青白いフードを被った背の高い女性がいる。目を閉じていた彼女は来客に気付くとごく微かに瞼を開いて反応し、ジョッキの準備をしながら、か細くも美しい透き通った声色で語りかける。
「いらっしゃい」
「メリュジーヌ、いつものを頼む」
「今日は随分と早いのね。サボり?」
「午後休を取っていた。明日明後日も休みだ……部下に頼まれて仕方なくな」
それからは早業だった。待ち時間をほとんど要することもなく、カトリーナの手元にビールがなみなみ注がれたジョッキが置かれる。その一口目を喉へ流している間に付け合わせの皿が出され、そこには薄切りのローストビーフとチーズの手頃なブロックが用意されていた。
店の外からは未だ忙しなく動き回る人々の音が聞こえてくる。
これを肴に昼間から飲むのだ……カトリーナは無言で喉を鳴らし続けていた。
「ぷはぁ。メリュジーヌ、もう一杯」
「はい、ただいま」
「ここはいいところだ。昼間っから飲んで、あとは、終わり」
「せっかくのお休みなんだから、他のことをしても良かったのに」
「知らないんだ、何も……だから、最初休めって言われた時、どうしたらいいか分からなくなって……」
二杯目のジョッキが渡される。ぐいっと一気に飲み干される。
騎士団長だった女性の声は、徐々にふにゃふにゃに蕩けていく……
「う……」
「少しはペースを抑えて」
「うう……うぅぅ……」
カウンターテーブルに伏したカトリーナは、指先で天板を叩きながらハッキリしない声でもにょもにょ呟き始めた。
「もし私が、騎士団を引退せざるを得なくなったら、こんな風に毎日飲んで、それで、一人は嫌だって、寂しい寂しいってなって……」
「大丈夫よきっと。ほら、噂の魔女様とはどうなの?」
「たぶん、仲良くなった、はず」
「魔女の友達ってなかなか凄いことだと思うんだけど」
「友達……友達かぁ。でも、友達ならいつか……ああああ」
「カトリーナ、水を飲みなさい。ほら、飲まないなら頭から掛けるから……」
グラスを受け取った彼女はすぐに中の水を飲み干すと急に静かになって、机の縁に額を預けながら夢と現実の境でまどろむ。メリュジーヌが「ゴブリンくん」と同種のぬいぐるみをどこからともなく差し出せば、カトリーナはそれを両腕でぎゅっと抱きしめたまま、たまに唸りながらも寝息を立て始めた。
まだ外では日が高い。酒場が本格的に営業を始めるまで時間はある。
それまでの間、一足先に早く潰れたカトリーナはカウンターの隅で丸まって、心の底に溜まっていた毒を寝言で延々吐き続けていたのだった。