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第58話「やあ、ドラゴンだよ」

 なんということもない夏のある朝。ラヴェンナは、普段とは違う賑やかな喧噪を耳にしながら目を覚ましていた。

 聞こえてくる声の大きさを聞くに、小屋から少しばかり離れたところで人々が集まっている様子だ。外で何かがあったのだろうか。


「んん……?」


 薄手のブランケットを身体に巻きながら怠惰にベッドの上で芋虫のように身をよじらせていると玄関の扉がノックの後で僅かに開き、ロクサーヌが顔を出してきた。ラヴェンナが仕方なしに首だけ向けて応対すると、白魔女は珍しく慌てているような顔をしていた。


「ラヴェンナ、様」

「どうしたのよ」

「外に……ドラゴンが、います」

「――は?」


 まるで冗談でも聞かされたようにラヴェンナは怪訝な顔を作るが、ロクサーヌが顔色を変えることは無かった。こういう時の彼女は嘘をついていない。

 しかし、もしそれが本当だったらとんでもない大事件になる……

 眠気でぼんやりしていた魔女の頭はジワジワと覚醒し始めていた。すぐに寝台から立ち上がり、手を借りながら身支度を手早く終わらせて外へ出る。


「げえぇ、本当にいるじゃないの」


 果たしてそこには、立派な巨体のドラゴンが座っていた。

 ウィンデル集落のなんでもない空き地の真ん中でゆっくりとしている、緑色のつるりとした肌を持つ伝説上の生物……全体的に丸々と小太りで、格好良いよりは呑気な印象を受ける。その周りには集落の人々をはじめとして多くの見物客が集い、ストーンヘイヴンから派遣された兵士たちが整理にあたっていた。


 ラヴェンナとロクサーヌが近くまで駆け寄ると、それは僅かに首を動かし二人を向いた。そして、非常に馴染み深い態度で人の言葉を使い始めたのだった。


「やあ、ドラゴンだよ」

「……見れば分かるわよ」

「ウィンデルはいつ来ても素敵な場所だ。休憩するのに丁度良いところにある。それに、ここの魔女はいつもヒマしていそうだからな」

「え、ああ、それはどうも……」

「何か食べていかれますか?」

「いただけるなら、なんでも。ぼくは肉も野菜も食べる」


 ロクサーヌが急いで自宅へ戻っていった後、ラヴェンナは思わぬ来客と一人でやりとりを続けることになった。

 初対面ではない。その昔よくしてもらった過去もあるが、なんせ向こうは時間の流れが人間のそれとは格段に異なる。通常のヒトより長命な魔女だったとしても、彼らが遙かに長い時を生きる「大先輩」である事実は変わらないのだ。


「それで……アリアス? ヴァネッサ?」

「ラヴェンナ」

「ああラヴェンナだ、申し訳ない。あれから何事も無かったか」

「この通り、ピンピンしてるわよ。でも去年か一昨年ぶり……? あなたにしては随分とまめに来てくれたのね」

「言われたんだ。こんな風に……“人の世が好きなら、我ら竜と同じ感覚は捨てなければならぬ。奴らは目を離した隙にまるで別人の如く変わる”って」


 きっと別種のドラゴンがそうアドバイスしてくれたのだろう。その言葉の意味するところは、最近のラヴェンナも徐々に分かるようになってきていた。


「うーん、ウィンデルは前より幾分か賑やかになったかな」

「そうね、今はその通りかもしれないわ」

「子供たちの声が聞こえてくるのはいいことだ。……うん?」


 そんな話をしていると丁度、集落の男の子と女の子たちがひとかたまりになってラヴェンナたちのところへ近づいてくる。そして一人が期待に満ちた眼差しでこんなことを頼み込んできた。


「あ、あの……ぼくたち、ドラゴンの背中に乗ってみたいです!」

「背中に乗りたいって、そんな気楽に――」

「いいとも」

「えっ、いいの!? やったー!」

「いいんだ!」

「まあ、よいではないか、よいではないか……」


 背の低い子でも登りやすいよう、地面に伏せる姿勢で寝転がったドラゴン。

 子供たちはその身体のあちこちを足場に上り、跨がってから歓声を上げた……さながらドラゴンライダー見習いだ。ラヴェンナが目を細めながら彼らの喜ぶ姿を見上げていると、視界の端で、ストーンヘイヴンの方角から勢いよく走ってくる小さな影が目に入る。

 あれだけの脚力で走れる人なんてそうそういない。ライラだ!

 彼女はすぐさまドラゴンの目の前に到着すると、まずどの言葉から話したら良いかも分からない様子で――


「ど、ドラゴンだ……本物……!」

「うむ、いかにも」


 非常に貫禄のある言葉だ。

 その間も、背中の上では子供たちがぷにぷにした肉感を楽しんでいる。


「お願いだ。あなたのことをスケッチさせてくれ!」

「いいとも、いいとも。好きなところを好きなだけ、かっこよく描くが良い」

「うおおおお! 街からすっ飛んできて正解だーっ!」


 熱心な魔物学者は許しの言葉を得るや否や、すぐさまリュックから紙と鉛筆を取り出して竜のふくよかな体躯を記録に残し始めたのだった。


(……)

(今日は忙しくなりそうねぇ)


 空を仰いで一人物思いに耽っていると、ロクサーヌが家の中からベーコンエッグを何人分か作って出してきた。ドラゴンはそれらを一つ一つ丁寧に味わいながら、ただひたすらに「うまい」「うまい」と料理の腕を褒め称えていた。




 子供たちがドラゴンと交流しているのを眺めていると、街の方角から馬に乗った白髪の女騎士が駆けてきた。騎士団長のカトリーナだ。彼女は近くまで来ると馬から下り、ロクサーヌに馬を預けてから、ドラゴンの前で片膝をつきこうべを垂れて挨拶する。


「失礼致します。私はストーンヘイヴン騎士団、団長のカトリーナ。滅多にない機会と見てご挨拶に参りました」

「よいよい、顔を上げたまえ。ここまでご苦労であった」

「はっ」

「しかしその匂いは――ああなるほど、理解した。これからもよろしく」


 緑のふくよかなドラゴンは長く息を吐く。子供が角にぺたぺた触れている。

 ひとまずの挨拶を済ませたカトリーナは改めて竜の巨体を確認する……両目を大きく開けては、その現実離れした身体の大きさに驚くばかりだ。


「仕事柄、派遣された兵士が各所で竜を目撃する事例は聞いていたが、それでもこのような場所で、これほどヒトに対して寛容なのは……」

「あまりないでしょうね。彼は変わり者なのよ」

「ラヴェンナ、知り合いなのか?」

「知り合いと言うか、まあ、そういう理解で良いわ」

「うむ。詳しく話すにしても、どこから始めれば良いか分からぬからな」


 ところで、ウィンデルには変わらず平和な空気が流れ続けている。突如やってきたドラゴンとその身体で遊ぶ子供たち、集まってきた人々と、念のためにやって来た兵士たち。共通して、皆がこの夏の珍事件を好意的に捉えていた。

 青々とした空を見上げながら、ラヴェンナは目を細めてゆったりとした時間をささやかな瞑想の中で過ごす。記憶の底にあった光景を撫でていく……


「しかし、今日はよい日だ。しばし昼寝をしてから発つとしよう」

「はいはい、好きにしていきなさい」

「うむ。人々の心も穏やかであるなぁ」

「本当に寝るつもりだ……」

「今は良い時代よ。魔女にとっても、ドラゴンにとっても……」


 竜はウィンデルの適当な場所に寝そべったまますやすやと眠りにつく。

 ラヴェンナはロクサーヌの家の厨房へ向かい、人々へ振舞うクッキーを焼こうとしている彼女を横で手伝い始めた。魔女小屋から煙がモクモクと上がる。



◆ ◆ ◆



 それから数日間……集落には珍しいもの見たさで多くの人々が訪れたが、危惧されるような事態は何一つ起こらなかった。市民たちの知的好奇心が満たされたあたりで彼も姿を消し、まるで何事もなかったように日常が戻ったのだった。


 夏も間もなく終わり、残暑の時期に入ろうという朝。

 すっかり静かになった庭で、日よけの下のガーデンチェアに腰掛けながら二人の魔女が朝食の時間を送っている。今日のメニューはトマト、チーズ、バジルのブルスケッタだ。オリーブオイルの風味も相まって、あの日に砂浜で食べた物の記憶もほんのりと一緒に蘇った。


「今日もなんにもないわねぇ」

「過ごしやすくはあるでしょう。この時期になれば、暑さも大分引きます」

「ええ。ずっとこんな感じだったら良いのに……」


 熟れたトマトを口の中で転がし、冷たいハーブティーのカップを持ったまま、ラヴェンナは背もたれに寄りかかってリラックスできる体勢をとる。本当に良い時代になったと噛みしめる……


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