窓を開けっぱなしにして寝ていた翌日。目を覚ましたラヴェンナは、顔の上に羊皮紙の入った封筒が一通乗っていることに気付いて顔をしかめていた。
「何よ、これ……ん、ふああぁ」
マットに転がったまま大きな欠伸を一つ。身体をぐっと伸ばした後、蝉の声を聞きながら目を擦る。
視界がハッキリしてきた。すると……足元に見慣れない小さな影が見える。
ベッドの隅に立つ支柱で、フクロウが一匹止まって眠りについていた。
「……」
封筒の中に入っていたものを出し、そこに書かれていた内容に目を通す。
見たことのある筆跡だった。ラヴェンナは緩んだ口元で柔らかな笑みを浮かべると、早速立ち上がって活動前の身支度を済ませる。いつもの薄いローブへ着替えて、乱れた髪の毛の手入れを行い、肌の保湿と化粧に取りかかる……
テーブルに置かれた手紙の最後には、差出人として「マリー」の名があった。
そして一緒に、四つ葉のクローバーがひとつ挟み込まれていた。
手紙を読んだラヴェンナは軽い朝食を摂った後、そのまま箒に跨ってストーンヘイヴンの街へ飛んでいく。
動き始めた街の往来は沢山の人が行き来しており、門の前で着地した黒魔女もその中に混ざって歩く。目的地は、いつも用があれば訪れているパン屋だった。
大通りに面したこの店は主食たるパンを求める人で常に賑わいを見せている。カゴの中にいくつも刺さったバゲット、トレイの上に並べられている円パンに、肉や野菜といったものを挟んだ惣菜パンの類いも並んでいた。しかしラヴェンナが今日訪れたのはそのどれが理由でもない。
「マリー!」
カウンターの向こうに声を飛ばすと、奥の部屋から一人の少女がひょっこりと顔を覗かせる。
二つ結びになった茶髪を揺らす少女が、黒の瞳をキラキラと輝かせていた。
深緑色のエプロン、赤と白のギンガムチェックのバンダナを身につけた彼女はラヴェンナの姿を見るやすぐさま駆けだして、カウンターの外へ飛び出ると強く抱きついてくる! 黒魔女は慌てて自分より少しだけ低い背丈を受け止めた。
「ママ! ずっとずっと会いたかった……!」
「……あのねぇ。私はママじゃないって、いつも言ってるじゃないの」
「ううん。ママは私のママだもん。――ただいま!」
◆ ◆ ◆
二人の物語は何年も前まで遡る。
当時、まだ一桁歳だったマリーは「孤児」としてサン・ブライト修道院に拾われ、修道女になりたてのアイリスたちに育てられた。修道院生活をしている間にマリーはなんと魔女の力に目覚め、そのことについて、「幻想の大魔女」であるラヴェンナに相談が持ちかけられたのだった。
『大魔女様、マリーちゃんについてはどう思われますか?』
『典型的な先天性の魔女ね。直感がよく働いて、自然との繋がりも深い』
『あのっ、大魔女様』
ラヴェンナの持つ記憶は年月と共に風化していくものだったが――
その次の言葉は、今もはっきりと覚えていた。
『わたしのことを、弟子にしてください! 家のことを手伝います。魔法の勉強もがんばります。だから……』
『……』
すぐに返事ができない状況でラヴェンナがじっと考え込んでいると、マリーは不安に耐えきれなくなったのだろう、大きな声で泣いてしまった。
その後、ひとまず返事を保留したラヴェンナはロクサーヌにも意見を貰って、マリーを定期的に何日間か寝泊まりさせる形で「魔女修行」させることに了承したのだった。
よく泣いて、よく笑って、よく食べる。
のんびりした田舎暮らしでは煩いことこの上なかったが……
(……そんな子が、もう随分と立派になったのね)
大通りに立ち、立派なパン屋の看板を見上げながら物思いに耽る。
かつてマリーはここの店で働くことを夢に見て、遠い王都へパン修行に出た。そしてそこでしっかりと技術を会得して、約束通りにここへ戻ってきたのだ……そんな風に感慨に耽っていると、店の中から「普段着」姿のマリーが現れる。
店で着ていたエプロンの上にベージュ色の薄い上着を簡単に羽織っていた。
頭には、同じ色でやや小さめの魔女帽子がちょこんと乗っている。
「終わりました!」
「お店の方はどうなの?」
「なんともありませんでした! 住むお家も手配してくれたので、秋ぐらいにお引っ越しする予定です。ほんとは私もウィンデルが良かったんですけど、パン屋は日が上る前からお仕事があるので……」
「ああ……。大丈夫よ、そこは私もお世話になってるから、度々顔を出すわ」
「やったー! あっそうだ、立ち話もなんですし、お風呂に行きましょう!」
「本当にお風呂が好きねぇ」
ストーンヘイヴンの公衆浴場へ向かって歩く二人。
魔女二人が並んで歩く光景の珍しさは周りの視線を引きつけるが、この二人の関係を知っていた者は彼女たちの姿を見てにっこりと微笑み、邪魔をしないように流れていった。
ラヴェンナの表情は、まるでマリーにあてられたかのように普段よりも緩んで柔らかくなっている。夏の日差しを受けた街並みが、キラキラと輝いて映る。
「そう言えば、ロクサーヌさんは元気ですか?」
「全く変わってないわよ。この間、ノルドヴィクに送る瓶詰めを作ったわ」
「わ~っ、お元気そうで何よりです」
「王都はどう?」
「人がたくさんいて、お店もたくさんあって……でもパン修行で忙しかったからあんまり遊べていません。あっでも、王立の魔女学校で、魔女見習いの皆さんにパンを売りに行ったことがありました。どこで魔法の勉強をしたんだ、って聞かれてママの話をしたら、大人も子供もみんなビックリしてました!」
「ふふん、そりゃあそうでしょうよ」
「ママって本当にすごいんだなぁって……はっ、もう着きます!」
二人がやってきたのはストーンヘイヴンにある公衆浴場だ。
石造りの風情を感じさせる建物に入れば、男女に分かれた先に着替えるためのスペースがある。そこで髪を縛り、入浴用の布を身体に巻いてから大きく広々とした浴場へやってきた。
魔王時代より存在するストーンヘイヴンにあるこの場所は歴史が長く、今でも風呂場は男女共用だった。よく晴れた昼下がり、市民たちは広い湯船のあちこちでコミュニティを作りながらそれぞれの時間を過ごしていた。
「あの辺が空いてるわね」
「わーい、ママと一緒にお風呂ーっ」
「はぁ……もう突っ込まないわよ」
ちゃぷん。魔女二人で並んで身体を湯に浸からせる。
マリーはラヴェンナの肩にもたれかかると口元を緩ませてにへにへ笑う。
「はああぁ……」
「久しぶりに会えるって聞いて来たけど、昔と変わってなくて安心したわ」
「なつかしいですねー。ウィンデルで入ったお風呂もステキでした。確かあの時は、夜にランタンの明かりで周りを照らしながら……」
「また一緒に入れるわよ。前よりは狭く感じるでしょうけど」
「あっ! そう言えば、お酒も飲めるようになったんですよ」
「へぇ。飲める方なの?」
「意外と大丈夫でした! 朝が早いせいで飲む機会は少ないですが……」
本当の親子のような仲睦まじい様子が繰り広げられる中、マリーはラヴェンナの身体に腕を回してギュッと最接近。あんなところやこんなところがやわらかく接してぴったりとくっついた。
「ちょっと――」
「えへへ、ママの身体やわらかーい♪」
「これでも最近は運動してるのよ。ロクサーヌと、海に行こうって話なの」
「ねぇねぇ、私もここまで大きくなれる?」
「知らないわよ、血が繋がってる訳じゃないんだから……」
教え子に抱きつかれながら、ラヴェンナはたいそう面倒くさそうに目を細めては、なすがままになって湯船の波に揺られていた――
◆ ◆ ◆
それからしばらくの時を過ごした後。公衆浴場の前で、マリーはラヴェンナと別れて街にある宿屋に戻ることとなった。まだ新しい箒を手にしていた彼女は、名残惜しそうにしながらも精一杯の笑顔で挨拶する。
「またね、ママー!」
「はいはい。またね」
「今度、またウィンデルのお家で寝泊まりさせてください!」
「勿論いいわよ。でもちゃんとお店の人に相談してからね」
「はーい!」
一度はくるりと背を向けて離れようとしたラヴェンナ。しかしちらと振り返ってみれば、マリーは手に持っている箒と言い争いをしている――
「マリー様、王都に戻られるのですか?」
「王都はまだ! 今日はストーンヘイヴンのお宿って言ってるでしょ!」
あの喋る箒を買った人が思ったより近い場所にいる……
ラヴェンナは静かに微笑みながら箒に跨り、地面を蹴って空へ上っていった。
――夕方。
ウィンデルに戻ったラヴェンナは、ロクサーヌの作ったジェノベーゼパスタを口に運びながらどこか機嫌良さそうに眉を上げている。料理が美味しいのは勿論ながら、長年の隣人にはそれだけでもないことがよく分かっていた。
「ラヴェンナ様、マリー様はどうでしたか?」
「なんにも変わってないわよ。甘えん坊で、私のことをママ呼ばわりして」
「ふふっ、そうですか」
ロクサーヌはニコニコと微笑みながらパスタをフォークに巻く。
いつになく物静かな様子にラヴェンナは面白くなさそうな顔をする。
「なによ」
「いえ、なんでも。ところで、マリー様はまたこちらに来られるのですか?」
「あの子はストーンヘイヴンに住むって言ってたわ。パン屋だからって」
「そうですか。では私も、あとでお店に顔を出さないといけませんね」
「まあ、たまに遊びに来る分にはいいんじゃないかしら。一緒に寝るなんて言い出されたら、あのベッドじゃ狭くてイヤになっちゃうだろうけど」
「うふふ、そうですね」
「まったく、いい加減あの子も大人なんだから……」
ぶつぶつと呟きながらパスタを巻き続けるラヴェンナ。
黒魔女はそれから「困った弟子の話」を延々と喋り倒していたのだった。