日暮れ頃、集落に暮らす魔女二人は庭で慌ただしそうに動き回っていた。
「ラヴェンナ様、そちらを持って下さい。せーのっ」
「よいしょ……」
普段食事をしているガーデンテーブル、ガーデンチェア、日よけは撤去されて蔵の中へしまわれ、魔女小屋の周りに放置されていた日用品の類いも全て屋内に避難させられる。ふと遠くの空を見上げてみれば、どす黒く分厚い雲がこちらへちょっとずつ近付いてきているのが見えた。
「こんなところかしら」
「ラヴェンナ様、食べ物は大丈夫ですか?」
「野菜が少し無いわ。貰ってもいい?」
「はい。ところで、もしベーコンが余っていれば少々……」
「いいわ、今持ってくる。薪は足りてる?」
「先程確認しました、大丈夫です」
お互いの蓄えを確認し、共有できる物を共有した後……井戸から数日分の水を汲んで、魔女たちはそれぞれの家へと戻った。
ラヴェンナは家の裏にあるトイレで用を済ませた後、ようやく落ち着けると言った様子で魔女小屋に入って揺れ椅子へ腰掛ける。窓からは青々と晴れた空が見えていたが、そこへ良くない気配を纏う漆黒の塊が確かに侵食し始めていた。
(……降ってきたかしら?)
屋根からパラパラと雨の叩きつける音が響く。外からの光も暗くなっている。
カーテンを閉めて夜の支度をしていると……玄関の方から、ニャアと猫の鳴き声が聞こえてきた。ラヴェンナは慌てて戸を開けに行く。
果たして、軒先にはあの黒猫が座っていた。
もう空は黒い。すぐにでも土砂降りが迫ってくる!
「ちょっと、何してるのよ! 早く入りなさい……!」
他の動物たちは既にどこかへ隠れているようだ。ラヴェンナは猫を屋内へ招き入れて扉を閉める。
それからしばらくも経たないうちに風がごうごうと強くなった。
暗い夏の午後、魔女小屋の外壁に雨風が容赦なく打ち付けてくる。骨組みも微かにがたがたと揺れ始め、忍耐の時間が訪れる。――ウィンデルに、嵐が来た。
◆ ◆ ◆
黒猫は時にラヴェンナへちょっかいを出してくるやんちゃさんだったが、今日この日は雨風に濡れたせいでプルプルと震え、いつになく大人しくなっていた。仕方なしに暖炉へ薪をくべて火を強くしてあげれば、猫はその近くに寄っていくと丸くなって暖を取ろうとする。
ラヴェンナは適当な乾いたタオルを持ってくると猫の身体を包み込んで、その体表に残っていた水を拭き取り始めた。小さな鳴き声が中から聞こえた。
「まったく、どうして雨が降る前に隠れなかったのよ。あなただって賢いんだから、これから凄いのが来そうだって分かるものでしょ? ほら、こんなに濡れて……」
にゃ……とくぐもった返事がひとつ。
「こらっ、あんまり動かないで、じっとしてなさい……本当に手が掛かって嫌になるわね。はい、全身を拭いたから、あとはこの辺りで休んで――」
水滴から解放された黒猫は、濡れて縮こまった身体を乾かすように暖炉の傍でじっと黙り始める。突然の来客の世話をようやく終えたラヴェンナは立ち上がると、本を一冊棚から取りだしてロッキングチェアに腰掛けた。テーブルの上でランタンをつけて、その灯りで文字を照らす。
遠くの空からゴロゴロと小さな雷鳴が聞こえてくる。突風の塊が幾重の波となって魔女小屋の窓をグラグラと揺らす。騒がしい外とは対称的に、屋内は過ごしやすく、眠ってしまいそうな程の静寂と安らぎに包まれていた。
「……」
ラヴェンナが静かに読書の時間を堪能している間……彼女の背後にある棚の上で、魔物を象ったぬいぐるみ「ミノタウロスくん」の頭が僅かに動く。彼のつぶらな瞳の先で、黒猫がじっとこちらを見上げていたからだ。
暖炉の傍で身体を乾かした猫は元気になったのか、またいつものようなキラキラとした瞳を向け続けている。ぬいぐるみはじっと動かなかったが……ピョンとジャンプした猫が同じ段まで上ってくるとそうしてもいられなくなった。
黒猫は、あの精巧に作られた骨付き肉のぬいぐるみをじっと見つめている。それに気付いたミノタウロスくんは仕方なしに動き、大切な宝物を守るために身体の後ろへ隠してみせた。
しかし、次はネコのギラギラとした目が近付いてくる。
フェルトで作られた小さな魔物は震えながらも両腕を懸命に広げて防衛を試みる。窓の外で雷が鳴り、向き合う両者の姿が白い稲光ではっきりと照らされた。
「今の音、近かったわね……」
一方の家主はと言うと、姿勢を変えることなく独り言をぽつり。彼女の関せぬところで小さな小さな争いが幕を開けていた。
棚の上で、黒猫は隙を見計らって前足を伸ばして秘蔵の骨付き肉を狙う! ミノタウロスくんはフェルト製の手斧を振りかざし、獣畜生の顔面をポカポカ叩き続けた。外の荒天で微かな物音が全てかき消される中、両者の一歩の譲らない争いが繰り広げられる……
「――! ――――!」
仁義なき戦いの果て、黒猫の出した一撃が骨付き肉へついに届いた!
しかしミノタウロスくんのガードした甲斐もあって狙いは僅かに逸れ、ぶつけられたそれは棚の上からぽろりと落っこちてしまう。ミノタウロスくんはギリギリのところで手を伸ばしてキャッチしたが、一緒に棚の下へ落ちてしまった――
ぽてん、と音を立てて床に転がるぬいぐるみ。
ラヴェンナがそれに気付くと、棚の上で毛繕いしている黒猫を睨んで叱りつける。
「こらっ、家の中を荒らさないの。あまりひどかったら追い出すから」
にゃーん。
反省しているのかどうかよく分からない返事を聞きながら、黒魔女は、落ちていたミノタウロスくんとちいさな骨付き肉を回収。椅子に座り直し、膝の上に置いたまま再び物語の世界へと戻っていった……フェルトの魔物はようやく一息つけた様子で、宝物を抱きしめながらまったりとくつろいでいた。
やがて、夜も深まってきた頃――
ラヴェンナは大きな欠伸をすると本をしまって、ベッドに腰掛けてからランタンの明かりを落とした。暖炉の火だけが物の在処を教えてくれる中、ミノタウロスくんを胸に抱いて眠りにつく。
黒猫も最初は毛布の中で丸まっていたが……外でひときわ大きな雷が鳴ると、その場でギャッと飛び跳ねて慌ててラヴェンナのもとへ駆けてきた。布団の隅から頭を突っ込んでは、皆と同じ場所でブルブル震えながら長い夜を過ごし始める。
長い雨と風の音がいまも聞こえ続けている。
遠くから聞こえる、薪のパチパチ燃える音だけが心を穏やかにしてくれる……
◆ ◆ ◆
翌日。
やっとの思いで身体を起こしたラヴェンナは、カーテンを開いて外の様子を見る。まだ雨がしとしと降り続いているが、昨晩の強風は収まっていた。これならそう遠くないうちにまた晴れ間が見えるだろう。
「ふあぁ……」
大きく欠伸をしながらベッドを抜け出して化粧台の前に腰掛ける。
両手を使って長い黒髪を手入れしていると、足元で黒猫がにゃあと鳴いた。
「ん……そう言えばいたわね。いいわよ、朝ご飯くらいは何とかしてあげる……」
髪の毛をなんとかした後、今日はかなり色々な工程を省略して簡素に身なりを整えてから、早々に台所へ立って朝ご飯の準備を始めた。この雨だ、きっとロクサーヌも自分で支度していることだろう。
調理場の隅には水に漬けられていた干し肉があった。昨晩、ラヴェンナがこっそりと用意していたものだ。ベーコンと野菜で適当なサンドイッチを作った後、柔らかくなっていた肉を刻んでから炒め直し、皿に載せてテーブルに置いた。
魔女が朝食の時間を過ごしていると黒猫も天板に飛び乗り、用意されたご飯を食べ始める。一人と一匹で口を動かしていると、窓に黄金色の光が感じられる……
「あら……」
腹ごしらえを済ませたラヴェンナは早速外へ晴れ間を見に行った。
ベッドの上では、薔薇の匂いが染みついた布団でぬいぐるみが丸くなっている。