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第44話「ラベンダーの香り」

 風が吹いて心地よい午前の時間。ラヴェンナは蔵の中にあった金属製の大きな器具を家の前まで出し、屈んだ姿勢のまま、細かな埃を落としては拭き掃除していた。

 そこへ、修道院の方角からアレン少年が現れる。

 今日はラヴェンナの魔女小屋で「職場体験」が行われる日だった。


「おはようございます、ラヴェンナさん。今日もよろしくお願いします」

「あらおはよう。ちょうど良いタイミングだったわね」


 ラヴェンナは両膝を折ったままアレンへ視線を向ける。

 その時……いかにも男の子らしく半袖から出されていた腕に、赤くぽつぽつとした点状の小さな腫れを見つけた。この時期だから虫に食われたのだろうか。


「大分刺されてるじゃないの」

「あぁ……最近は外に出ることが多いので」

「しょうがないわね。外は日が照って暑いから、続きはこっちで話しましょうか」


 掃除していた器具も一緒に、二人は魔女小屋の中でひとやすみする。ラヴェンナは作り置きしていたハーブの軟膏を取り出し、人差し指を使ってアレンの腫れていたところへ優しく塗っていった。


「今日は魔女らしいことをしましょうか」

「何をするんですか?」

「さっき塗った薬があるでしょ? それの元になる“精油”を作ろうと思うの」

「精油……」


 あまりピンと来ていない様子のアレン。ラヴェンナは少年に大きく広いザルを渡すと、自分も同じものを持って見せつける。


「ハーブには、ほんの少しだけどオイルのようなものが含まれているの。それをこの装置で抽出して集めるわ。でも、本当に少ししか取れないから、外に出たらいっぱいお花を摘んでこなきゃダメよ」

「わ、わかりました……!」

「今日はラベンダーにしましょう。もう時期も終わりだからすぐにやっちゃうわ」


 話を済ませた後、さっそく二人は魔女小屋裏のハーブ園を訪れる。

 よく晴れた空の下、そこには様々な種類のハーブが咲き誇っていたが……その中に紫色の花をつけたかたまりがある。いくつも見える植物ではとびきり分かりやすい形をしていて、とびきり分かりやすい香りを立ち上らせていた。

 柔らかい茎のあたりをプチリと千切り、先端の花弁ごと回収してザルに乗せる。夏の盛りを控えた中、ラベンダーの木は涼しげな見た目に変わっていった。


 すると。

 作業中、どこからともなく現れたウシがハーブ園の近くまで迫ってきた。


「ラヴェンナさん、牛が」

「ああ、あれは放っておいて良いわよ。気にすることはないわ」

「でも……」


 それはのそのそと歩いてくると、植わっているラベンダーの隅っこに首を伸ばしてむしゃりと一口。せっせとつまみ食いを始めたではないか!


「ラヴェンナさん!」


 アレンがもう一度叫んだ頃、既にラヴェンナは肩をいからせながら畜生のもとまで歩んで頭にゲンコツを落としていた。ウシはまんざらでもなさそうに鳴いている。



◆ ◆ ◆



 平たいザルへ山を作るようにラベンダーを積んで魔女小屋へ戻ってきた。

 ラヴェンナは用意していた装置――蒸留器の蓋を開けて、その中へラベンダーをみちみちに詰めるよう命じた。アレンは言われるがまま、金属状の筒に紫色の花を隙間なくぎゅうぎゅうに押し込んでいく。

 容器の下には小さな穴が空いていた。水を熱して水蒸気を作り、ハーブの全体を蒸し上げるのだ。上部からは蒸した後の空気を集めて冷やす管が伸びている。


「今摘んだ花の中にオイルが混ざっているの。だけど、本当に少ししか入ってないから、最初はめいっぱいに蒸して水ごと水蒸気にしちゃうわ。あとからそれを集めて、別の容器で冷やして液体に戻すの」

「あれ、そうしたら……水と一緒になっちゃいません?」

「ええ。でも、油は水よりも軽いでしょ? だからその上澄みのところを……」

「わあ、なるほど……すっごい……」


 ラベンダーを詰め込んで準備が整った。装置の規模はなかなかのものだが、それでもまだ全部のハーブを処理できたわけではない。ザルの上には次の出番を待っている紫色の山がたくさん残っている。

 早速ラヴェンナは装置下部で火を熾して中の水を湧かせ始める。しばらく経ったら白い湯気が立ち上り、ラベンダーの花ががじっくりと蒸されていく。


 一部ガラスになっている箇所から覗いてみれば、僅かに白く曇った中でみちみちに入ったハーブが水を帯びていた。ただし、それでも実際に精油入りの水が滴ってくるのはもう少しだけ先になりそうだ。


「まだしばらくは何も起こらないから、今のうちにサンドイッチでも作って食べましょうか。アレンは裏の井戸に行って、冷たい地下水を汲んできて頂戴」

「はい!」


 魔女小屋の中で装置を動かしながら、各々は空いた時間にそれぞれの仕事をこなしていった……時折、蒸し上げたハーブ水を冷やすために冷却水を取り替えなければならなかったが、やる気に満ちたアレンはそれも率先して行ってくれていた。

 椅子に座り、夏野菜とベーコンのサンドイッチをかじりながら蒸留の様子を観察し続けていると、抽出口から最初の一滴目がこぼれ落ちて小瓶へ収められた。


「あっ!」

「あら、ようやく始まったのね」

「本当にちょっとずつなんですね……」


 抽出された液体は下の容器に溜められ、特殊な機構を経て、その上澄みとなった油面のみが小瓶へ開けられて取り出される。

 アレンは貴重な一滴一滴が垂れ落ちて集められていく様子を前に目を輝かせると、瞼を閉じてから鼻をスンスンと使って匂いを探っていた。彼はもう大人の仲間入りしても良い頃ではあるが、こうして見ればまだまだ年相応の子供だった。


「アレンは、何か好きな香りはあるの?」

「えっ? ええっと……」


 魔女が意地悪な質問を投げかけてみれば、アレン少年はすっと視線を逸らして口ごもってしまう。そんな彼に背を向けて棚を漁って、透明な滴の入った小瓶を一つ出してみせた。瓶の蓋には薔薇の文様が刻まれていた。


「これは薔薇の花から取った精油よ。ラベンダーよりもあまり取れないからその分だけ貴重なのだけど……欲しい?」

「っ! で、でも、貰ってもどうしたらいいか」

「別に大したことをしなくても良いのよ。たまに蓋を開けてちょっと匂いを嗅ぐだけでもいいの」

「わっ、ありがとうございます。ラヴェンナさん、良い匂いするなって思ってて」

「フフフ……」


 彼の言葉を聞いたラヴェンナはニッコリと微笑みながら、その小さな頭を手のひらで優しく撫で回してから身を屈める。身体とローブの間から、鼻の奥がじんわりと痺れていくような甘い香りが広がる。


「ありがとう、アレン。でも、魔女の匂いを褒めるのはあまり感心しないわね」

「へっ?」

「知らなかったかもしれないけれど――魔女は、それぞれ特有の“匂い”を持っているの。香水なんかじゃない、身体そのものから香ってくるマナの匂い。それを他人から“良い匂い”なんて褒められちゃったら……ね?」


 アレンはようやく何かに気が付いたようだ。顔をポンと赤くする彼の耳元で、ラヴェンナは秘密でも共有するかのような微かな声で囁きかける――


「貴方はとっても賢い子だから分かると思うけれど、あまり、魔女を本気にさせてはいけないわよ」

「!」

「魔女は、貴方が想像しているよりもずっと賢くて、狡くて、執念深い生き物なの。その辺の女の子とはワケが違うわ。何十年も生きてるような人なら尚更――おっと、アレン、そろそろ冷却水を入れ替えなさい」

「はっ……はい……!」


 慌てて元の仕事に戻っていく少年。

 ラヴェンナはニヤニヤ笑いながらその小さな後ろ姿を見守っていた。



◆ ◆ ◆



 それからは、摘んできたラベンダーの花を適宜補充しながら精油の精製を続けて、小瓶数本分の成果を得ることができた。今日の仕事は大成功だ。

 空では日が傾き始めている。ラヴェンナはアレンに薔薇の香りがする小瓶と、作業の副産物であるラベンダーウォーターの入った大瓶をお土産で持たせた。


「今日は魔女らしい何かができたんじゃないかしら」

「はい!」

「あと……そうだ。ちょっと腕を出して」


 アレンが首を傾けながらも言われるままにすると、ラヴェンナは先程作ったばかりの精油を一滴だけ手のひらへ乗せ、それを優しく塗り込むように、彼の虫刺され跡を両手でそっと撫で回していく……


「え、えっと……ありがとうございます」

「その大瓶はアイリスにでも渡しなさい。良い匂いがするわよ」

「はいっ、わかりました。……えっと、また、来ます!」

「ええ。またいらっしゃい、アレン」


 一通りの用事が終わった後、少年は元来た道を戻って修道院へ帰っていった。


 小さくなっていく背中を見送っていたラヴェンナは――その視界に、今はもうここにいない教え子たちの懐かしい後ろ姿が重なるのを幻視する。かつては、魔女見習いと呼ばれる人を何人もこうして送り出していたのだった。


「……ふあぁぁ」


 大魔女は口元に手を当てながら長い欠伸をすると、一休みでもしようかとベッドへ倒れ込んだ。部屋にはまだ、ラベンダーの香りが若干だけ残っている。

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