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第33話「もしかして太った?」

 夏が来たら海に行きたい……そんな話がされていたのを思い出したラヴェンナはクローゼットの扉を開け、ごちゃごちゃになっていた中へ手を突っ込みながらお目当ての物を探していた。過去の無頓着な自分と戦ってしばらくして、何とか一つの袋を引っ張り出すことに成功する。


「あったあった、これよ。さて、カーテンを閉めて……」


 辺りをキョロキョロと見回し、誰からも見られないのを確認したラヴェンナは袋から「畳まれた水着」を取り出した。客人が来てしまう前にローブを脱いで、いそいそと着替え始める。


 その後――

 いつになく肌を晒した格好の黒魔女は姿見の前で腰をひねっていた。


「うーん……」


 ラヴェンナの肢体を覆っていたのは黒いワンショルダータイプのビキニだ――胸の谷間とお尻は見えないものの、薄い布地にハッキリと浮いた柔らかな膨らみは、フリルの陰から大人感に満ちた妖艶な魔女の色香を振り撒いている。砂浜へ一人で行こうものなら数多の男性の視線を奪い、少年たちの憧れになること間違いなし……そのはずだったが。


 身体を捻りながら唸っているラヴェンナ。その視線の先、鏡の中に写る女性の腋にプニッとした肉の膨らみを見つけていた。胸元のお肉も少し横へ引っ張られており、その影響でせっかくの麗しボディがややだらしなく見えてしまう。


(……もしかして太った?)

(なんですって……そんな、思い当たる節なんて……)


 目を閉じてこれまでの生活を振り返ってみる。

 ベッドでゴロゴロしている姿。ロクサーヌの畑仕事の手伝いを面倒くさがっている姿。お酒を飲んでご馳走に舌鼓を打っている姿。ずっと家の中に籠もって作業をし続けている姿。おいしいものを食べてから昼寝している姿……


(思い当たる節しかないわ……!)

(せっかく海に行こうって話だったのに、こんな身体じゃ……)


 なんてことだ、黒魔女はこれまで禄に運動をしてこなかったのだ! あわれ、このままでは「おばさん魔女」と指をさされても甘んじて受け入れるしかない。

 齢200を超えたラヴェンナだが、周りから少しでも若々しく見られたい願望は今も消えずに残っている。このような事態はなんとも看過しがたい!


(うう、水着姿は諦めるしかないかしら……待って、まだ時間はあるわよね?)

(すぐに行くって話じゃなかったし、今から頑張れば、まだ、少しは……)


 気になるところは他にもある。お腹のちょっとしたたるみだったり、やや下へ垂れ下がったお尻だったり。いずれも「ラヴェンナおばさん」の構成要素だ。

 魔女は現状を打破するため、やけに真面目になって頭を回して……やがてある人物に頼ることを決めると羊皮紙を引っ張り出して一筆したためたのだった。



◆ ◆ ◆



 後日。昼のストーンヘイヴン、騎士団寮。箒に跨った黒魔女が空からゆっくり降り立つと鎧姿のカトリーナが現れ、白髪を風に靡かせながら挨拶をした。


「ラヴェンナ、来たか。話は手紙の通りだな?」

「私個人の問題なんだけど、自分だけだと続かなさそうで……」

「一人より二人の方が良い場合もある。さっそく中で具体的な話をしよう」

「よろしく頼むわ」


 極めてスムーズにことは進み……普段、騎士たちが訓練している部屋の一つを貸し切りにしてラヴェンナとカトリーナは向き合っていた。近くの棚には重りを始めとしたトレーニング機材がずらりと並び、その一角には、以前女騎士へ買い与えたぬいぐるみ「ゴブリンくん」の姿もある。


「しかし、魔女も体力作りが必要になるとは。力仕事が多いのか?」

「ええ……まあ、そんなところね」


 ラヴェンナは深入りされないように言葉を濁す。

 体型が気になってて……なんてことは結局口にできなかった。


「とにかく、カトリーナなら何か知っているんじゃないかって思ったの」

「わかった。貴女には大きな借りがある、私も出来る限りを教えよう」

「ありがとう。トレーニングって言うと、ああいうのを使ったりするのかしら」

「ああ、あれか……」


 棚に並んでいる大小様々な重りの数々。そのまま鈍器としても十分使えるようなそれは、兵士たちの身体作りの為に最適化された無駄のないフォルムで何個も鎮座している。

 しかし、カトリーナはそれらに視線を向けても、手を伸ばしはしなかった。


「今はまだ使わない」

「あら、そうなの?」

「いつでもどこでも、身体一つでできるものがある。まずはそのやり方を覚えてから、必要に応じて細かいやり方も教えるつもりだ。始めよう……」


 カトリーナはまず、肩幅に足を開いてから身体の前で手を軽く組み、そのまま上体を落としていくようにゆっくりとお尻を下げていった――やがて、ぴたりと止めてから再度お尻を上げ、緩慢な動きで繰り返していく。

 トレーニングに詳しくないラヴェンナでも、これが見た目以上にキツいということは一目見て理解できた。しかもカトリーナは騎士たちが普段身に纏っている鋼鉄の鎧を着た状態でこなしている。


「うわぁ」

「……よし。ラヴェンナ、次は貴女の番だ」

「くぅぅ。なるように、なれぇ……」


 ラヴェンナはカトリーナの真似をするように、両腕を前へ出しながらゆっくりと膝を曲げて身体を落とし始める。しかしその姿はなんとも不格好なもので……ローブ越しの弛んだお尻を後ろへ突き出しながら、奇妙な呻き声を上げて足腰を震わせる謎の生き物となってしまっていた。


「ラヴェンナ、背中が丸まっているぞ。背筋は伸ばしたまま……」

「ふんんんっ……ふんぬぬぬぬぬ……!」

「膝は――そうだ、つま先より前に出ないように……」

「んんんんぁぁあああああああ!!!!!」


 普段通りの暮らしを続けていたら百年生きてても出ないような、今にでも絶命するのかと思わせる程の野太い声が上がる。カトリーナはラヴェンナの横で腕を組みながら静かに微笑み、淡々とした口調で数字を数えていった。

 その間、運動不足気味の魔女の尻は、突き出されたままガタガタと震えて……


「5……6……7……8……」

「――! ――――!!!」

「9……10! そこまで! 休んでいいぞ」

「はああぁぁあぁぁぁぁあぁぁ」


 ラヴェンナの身体が崩れ落ちて床に延びる。酷使した足腰をだらりと投げ出した彼女は、まるで踏みつけられたカエルのように情けない姿で転がっていた。

 下半身がピクリとも動かない。前に出していた両腕もジンジンと痛む――


「あ……脚と、コシ、がっ……」

「最初は誰だってそうだ。さあ、次のトレーニングだぞ」


 ドスンと音を立てて、ラヴェンナの顔のすぐ近くへ水筒が落とされる。

 中は水でいっぱいだが、その蓋は蝋でガッチリと固定されている――


「ひっ……!」

「次は脇腹のトレーニングサイドベントだ……身体のラインを引き締める。それが終わったら腕を鍛えて、またさっきのスクワットで脚を鍛えるぞ。取っ替え引っ替えに色々な場所の筋肉を虐めていくんだ」

「待って、カトリーナ、もう少しお手柔らかに」

「はは、心配は要らない。辛いのは最初だけだ……」


 なんとか身体を起こした黒魔女が見上げた先では、カトリーナが両目を大きく開けてじっと見下ろしていた。腕組みしながら立つ彼女の口元には心からの笑みが浮かび……


「じきに、その痛みが、快楽に変わる」


 ラヴェンナの顎がわなわなと震えながら開いていく。

 絶句――今にも潰れてしまいそうな魔女は、汗じゃないものまで流しながら、久しぶりに心からの悲鳴を上げたのだった……



◆ ◆ ◆



 夕方の空、フラフラとした軌道を描く何かがウィンデルの方へ飛んでいった。




 ……夕食の準備をしていたロクサーヌは、いつの間にか帰ってきていたラヴェンナが、ガーデンチェアに深々と腰掛けながら口をぽかんと開けて空を仰いでいるのを見つけて驚きの声を上げてしまった。普段ならメインディッシュを楽しみにしているだろう彼女が、生きているかも死んでいるかも分からない様子で夢と現の間を彷徨っている――


「ラヴェンナ様……どうか、されたのですか?」

「なんでも、ないわ。大丈夫よ」

「え、えっと……今すぐに夕食を持ってきますね」


 庭でグロッキーになっているラヴェンナ。ロクサーヌはすぐに家へ戻り、夕食としてハンバーグを出してくれた。脇にはポテトとニンジンも添えられている。


 黒魔女は震える手腕でナイフとフォークを使って、一口……

 旨味たっぷりの肉汁が口いっぱいに広がり、やがて喉を通って身体の中へ降りていくと……彼女の開いた瞳の端から、ボロボロと大粒の涙が零れ出す!


「うっ……うあああ……」

「ラヴェンナ様!? もしかして、お口に合いませんでしたか?」

「美味しいわ……こんなに美味しい夜ご飯、生まれて初めてかもぉっ……!」


 もはや半狂乱となったラヴェンナは、身体が求めているがままに食事を次々と平らげていって、その度、むせび泣くかのように「美味しい! 美味しい! 美味しい! 美味しい! 美味しい!」と心からの言葉を零していた。

 その真正面、状況が理解できないロクサーヌはただキョトンとするばかり。


「はあ」

「ありがとうロクサーヌ……大好き……愛してるわ……」

「……気に入っていただけたのなら、良かったのですが」

「今度、畑仕事を手伝うわね。やっぱり、日頃から運動をしないと」

「ラヴェンナ様、その、いったい街で何があったんですか? 何か悪い物でも食べたんですか……? ああ、もしや、誰かから呪いの類いでも!」

「生きてるって最高! 今日この一日に、乾杯っ……!」


 あははは、あははは、とラヴェンナの笑い声が宵の空へ上っていく。




 その後。

 夕食を済ませた彼女はベッドに入るや否や潰れ、泥のように眠ったのだった。

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