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第30話「なんでもない一日」

 陽が高く昇り始めてきた昼前の頃、以前よりも若干強くなったような日差しが差し込んできて、窓際のベッドで眠るラヴェンナの顔を仄かにあたためていた。


「ん……」


 昨晩遅くまで起きていた彼女はまだ眠り足りない様子で、大きな欠伸をした後にゴロゴロと左右へ転がっては朝の時間をまどろみながら過ごしている。しかしこんなナリでも、その顔面の良さだけで一応は様になっていたのだった。

 美しい魔女は、頭が半分目覚め始めたところでようやく身体を起こす。今日は何の予定も入っていない素晴らしい一日だ。全身に残っていた凝りを解してから立ち上がり、日光を全身で浴びるために玄関の扉を開く。

 すると、軒下で黒猫がちょこんと座って家主の出現を待ち構えていた。魔女は何時ぞやの朝を思い出すと、顔をしかめた後に上からじっと睨み下ろす。


「む……」


 黒猫はラヴェンナの目を見ながら瞳をキラキラと輝かせていた。経験則としてこういう日は何か突飛な事件が起こりうるものである……ラヴェンナはそう言い聞かせてつつ、しばらく猫とにらみ合いの時間を続ける。

 しかし。起きて早々の出来事なともあって、つい欠伸が出てしまった。

 口をわなわなと震わせながら大きくひとつ。すると瞼を開いた直後に猫が勢いよく飛び上がり、全身で抱きつくように顔面へ張り付いた!


「ぬわーっ!」


 たちまち姿勢を崩したラヴェンナは後ろへ倒れ込む。パニック! 猫に視界の全てを奪われた魔女は状況をすぐに理解できず、ただ両手両足をバタバタと動かしながら悶えるだけとなってしまった。

 モゴモゴ、モゴモゴ。

 魔女小屋にくぐもった声が響く中、軒先で小鳥たちがさえずっている。



◆ ◆ ◆



 化粧台の鏡に、納得のいかない表情を浮かべるラヴェンナが映っている。

 黒猫がテーブルの下で身体を丸めて寛いでいる間、黒魔女はひとまず外に出る支度をするために顔を綺麗にしていた。汲んできた井戸水で拭いたあと、ローズウォーターで香り付けと保湿を同時に行う。薔薇の香りはラヴェンナの香り……彼女を魔女たらしめる重要な要素の一つだ。

 それからは寝癖だらけの髪を櫛で梳かす。絡まった毛がプチプチ千切れるのを我慢しながら悪戦苦闘した後、ハーブを漬けていたヘアオイルを塗って全体的にケアを行っていく。ようやく「大魔女」らしいシルエットになった。


(さて……)

(今日は寝坊しちゃったわね。ロクサーヌには後で一言伝えないと)


 外に出ると、普段彼女と一緒に朝食を食べているガーデンテーブルに鳥避けの鉄蓋クローシュが被せられている。取っ手を掴んで開いてみると、お手製のサンドイッチが皿に並べられていた。マスタードを塗ったパンでベーコン、レタスがサンドされた黒魔女も好む味つけだった。

 ラヴェンナは早速その一つを摘まむとモグモグ口を動かし、空を見上げながら午後の過ごし方を考える。実によく晴れた、ウィンデルらしい清々しい一日だ。


(そうだ……)


 何かを思いついた彼女は蔵へ入り、目当てのものを担いでから戻ってくる。

 魔女の肩に乗せられていたのは長い釣り竿だった。反対からはランチボックスが提げられて、空いた手には木桶が握られている。そのままガーデンテーブルにあったサンドイッチをいくらか拝借した後、ラヴェンナは適当な川べりを探しに陽気の中を歩いて行った。後ろを黒猫がどこか期待した様子で付いていく。


 ウィンデル集落の中を流れる小川にやってきたラヴェンナは手頃な場所を見定めると、荷物を置いてから適当な草場の上へ腰掛けた。近くに小さな橋が架かり水草や岩場など魚を感じる場所も多く見える。ランチボックスにはロクサーヌが作ってくれたサンドイッチの他に、家の隅で固くなっていた古めのパンも放り込まれていた。

 その欠片を摘まんで引き千切り、釣り糸の先につけた針へしっかりと差し込んで固定する。これで川魚を狙えば食べ物の無駄もない、という寸法だ。


「よし。今日はあの辺が良いかしら……それっ」


 釣り餌の準備を済ませたラヴェンナは小川全体の流れを見通してからここだという場所に向かって竿を大きく振った。その後は「待ち」の時間に入る。青々とした空が広がる下で、特に何をする訳でもなくぼうっと座り続ける。

 遠くの水草に白い小動物のお尻を見た。アヒルでもいるのだろうか?


「……」


 小鳥たちがチュンチュンと鳴くのに紛れて、どこかから子供たちの遊んでいる声が聞こえ始める。ちょうどよく風も出てきたところで竿の先端がしなって魚の存在を知らせてくれた。

 タイミングを見極めて引っ張ると――綺麗な釣り針が水面から現れて濡れ水を日の光にきらめかせた。ラヴェンナはむくれっ面でキラキラを睨み付ける。


「むう……」


 まあよくあることである。

 気を取り直してもう一度餌を用意して投げ込む。待ち時間でサンドイッチをつまんでいると、遠くにあった子供たちの声がこちらへ近付いてきた。その一人が魔女帽子を見つけると、面白そうなものを目にした様子ではしゃぎながら小川の上にかかった橋を渡って駆け寄った。


「あー、魔女様だ!」

「ほんとだ!」

「魔女様!」


 集落の子供たちは皆が顔見知りである。いちいち名前を覚えている訳でもないが、きっと彼らの親がまだ大人で無かった頃もラヴェンナは同じことをしていただろう。そしてこのタイミングで丁度良く竿先が曲がり始める。

 挨拶の前にラヴェンナは眉を動かし、ここだと言う瞬間に竿を引き上げた。

 お見事。良い感じの大きさのマスが空中でピチピチと泳いでいる。黒魔女の手よりも少し短いくらいで、食べるにはこれくらいで問題ない。


「うわー、釣れた!」

「すっげー!」

「おっきい!」

「こんにちは。今日も良い天気ね」


 水を張った木桶にマスを入れ、古いパンをもう一度針に掛けてから次の獲物を狙う。その後は子供たちと川べりに座りながら魚がかかるのをのんびりと待つ。


「餌にしてるのって何?」

「家にあったパンよ。硬くなるとあんまり美味しくないでしょ? だから釣り餌にしてお魚さんに変えちゃうの」

「すごい、まほうみたい……」

「ウフフ……」

「魔女様、魚ってどの辺りに居るの?」

「どの辺り……そうね、居そうなところかしらねぇ」


 また時間が経つと、子供たちは今度は水草の中に潜んでいる白い水鳥に関心を示して、あれを見に行くと言って全員がそちらへ駆けだしていった。また一人に戻った黒魔女は釣り糸を垂らしながら初夏の風に吹かれて目を細める。

 何もなく、こうやって無為に過ごすのも悪くないものだ……そんな風に思っていると二匹目がかかった。今回は一撃で合わせることに成功し、もう一匹マスを手に入れられた。これならロクサーヌとの昼ご飯にできそうだと思っていたら、川べりを散歩していた黒猫が近付いてきて、物欲しそうな目でラヴェンナの顔を見つめてくる……朝にあんなことをしておいて、なんて図太いヤツだ!


「ダメよ。今からもう一匹釣るから、それまで我慢してなさい」


 にゃー、と返事をした猫はまたどこかへ去っていった。

 続けて三匹目を狙っていると、今度は遠くからウシの鳴き声が聞こえてくる。


 ウィンデル集落を好きに彷徨っていたウシはラヴェンナの魔女帽子を見つけたようで、挨拶でもするようにノシノシと歩いて川べりまでやって来る。黒魔女の行いに理解はあるようで、彼女の背後まで近付くと脚を折り曲げてから横向きにのんびりし始める。

 ちょうどよくウシの身体が背もたれになっていた。ぼんやりした温かさを背に水辺と向き合っていると竿がしなり、ちょっと小さめの魚が上がる。もしかしたらコイの仲間かもしれないが、今のラヴェンナには同定する術がない。


「うーん、三匹……もう少しだけ粘ってみようかしら」


 針を投げて待っている間、遠く離れたところで真っ白いアヒルがクルクル回りながら気ままに流されている。対岸では先程の子供たちがそれを追いかけようと懸命に走っていた。



◆ ◆ ◆



 昼頃。川べりから戻ったラヴェンナは早速お隣さんの扉を叩いて今日の釣果を報告した。ロクサーヌは水桶の中で泳ぐ魚たちを見るとにっこりと微笑む。


「いい大きさのマスですね。これなら、お昼ご飯は二匹あれば十分でしょう」

「ふふん……」

「実に見事な竿捌きです。では早速調理の方を始めてしまいましょうか」


 白魔女はすぐにまな板の準備を済ませると、まだ生きているマスを寝かせてから指の先を頭へ乗せてトンと叩いた。すると魚全体の身体がビクリと震えた後、今度はまったく物言わない魚肉へと変わる。

 ラヴェンナは顎に手を当てながら彼女の慣れた手捌きを後ろから見ては、感心したようにウンウンと頷いていた。前に一度聞いた話によれば、ごく一点のみに氷魔法を放つことで魚を一瞬で「締める」のだとか。こうすると美味いらしい。


「ラヴェンナ様、今日は香草焼きにするので、粉の方を準備してもらえますか」

「いいわよ。材料はいつものところにあるかしら」

「はい、その辺りで……」


 几帳面なロクサーヌは日頃の食事の準備で発生していたパンくずを別で取ってこういう時に使うのだ。ラヴェンナもこの手伝いは初めてでないため、パンくずをボウルに移してから刻みハーブと黒胡椒、オイルを少量加えてよく混ぜる。

 ロクサーヌは包丁の背を擦らせるように使って川魚の鱗を二匹とも器用に落としてみせる。それからそれぞれのマスの腹を割き、中へハーブの葉を詰め込む。


「粉できたわよ」

「ではこちらに」

「相変わらず、魚を扱うのは早いわね……」

「故郷ではよく食べてましたので」


 下処理の済んだマスは、ラヴェンナが作った衣を纏った後、鉄板に乗せられてから暖炉の中へと入れられていった。既にこの段階から良い匂いが漂ってくる、ような気がする……


 庭のガーデンテーブルを拭いて待っていると、出来上がった皿をロクサーヌが持ってきてくれた。昼ご飯の時間だ。

 ナイフとフォークを使ってこんがり焼けた魚の表面を触れば、衣の張り付いた白身はふんわりとほどけて広がっていく。食欲をそそる香りが上れば魔女たちの瞳もきらりと輝く。


「凄く良くできてるわ。火の通り方も完璧」

「ありがとうございます。こちらこそ、魚を釣っていただいて感謝です」

「いいのよ別に、今日はそういう気分だっただけなんだから」


 カチャカチャと音を立てながら川の恵みをいただく二人。そこから少し離れたところでは、生魚を与えられた黒猫が夢中になってチャムチャムと食べていた。


「午後は何をしようかしらね」

「私も今日は何も予定がありませんが……」

「うーん」


 二百年も生きていれば、大抵の物事は既に経験したこととなる。暇を潰すのに困る場面も少なくはなかった。

 ラヴェンナは思案する。このままゴロゴロしているのも悪くはないが、今日はロクサーヌも一緒に居てくれそうだから、せっかくの機会に何かしたい気持ちもあって……しかし具体的に何をやるかまでは思いつけなかった。


「何しようかしら。色々あるとは思うけれど」

「では考えてる間にお皿を片付けてきます。一度戻られても大丈夫ですよ」




 とりあえず家に戻ったラヴェンナは手慰みになりそうな物を求めて部屋の棚の前に立った。そこには出自様々な遊び道具が並んでいる。


「んーっ」


 続きが気になって買ったはいいけどまだ読めてない小説本。たまに新弾を買い続けているバロットウィズのカードゲーム。いつ見てもキュートなミノタウロスくんに、まだ一回しか使っていないクレープ焼き器。近くの壁を見ればいつぞや必死で組み上げたパズルが絵画代わりに飾られている。どれもこれも、黒魔女の過ごしてきた日々がそう悪い物ではないと教えてくれる証人だった。


「そうね……」


 ラヴェンナはしばらく考えた末に、そのうちの一つへゆっくり手を伸ばす。

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