白くぼんやりとした月が見える、ある晩のこと。
眠っていたラヴェンナは、どこか懐かしくも不思議な夢を見ていた……
◆ ◆ ◆
霧のかかった暗い夜、森の開けた場所で焚き火がパチパチと燃えている。
石で囲まれた円の中、なだらかな窪みに立てかけられた薪が弾けていく様子を二人の女性がなんとなく見守っていた。
一人は夢の主であるラヴェンナ。そしてもう一人は、長く美しい金髪と宝石のように青い瞳を持った行商――セレスティアだ。
黒魔女はいつも通りのローブと三角帽子で身を包んでいたが、一方の彼女は動きやすさ重視のパンツスタイルで
「ねえラヴェンナ」
「何?」
「本当に、魔王のところへ行くの?」
どこからともなく聞こえる虫の鳴き声がリンリンと広がっている。
「他に行ける人が居ないもの。仕方ないわ」
「勇者は見つかった?」
「……それらしいのはいたけれど、それだけよ」
「そうなの。じゃあ、このベーコンをあげるから、食べて」
セレスティアはベーコンブロックを取り出すと、手に持っていたナイフを器用に使って何枚かのスライスに下ろした。焚き火の周りの石にぺたりと貼れば、熱が伝わるにつれて表面の油がじわじわ蕩けていく。
霧の向こうで、輪郭のぼやけた月が淡く光っている。ラヴェンナもセレスティアも寛いでこそいたが、同時に森の各所から聞こえるかもしれない魔物たちの音へ備えていた。しかしそれでもここは安全な部類に入るのである。
「……近くの木にヒラタケを見たわ。朝は簡単なスープを作りましょう」
「わあ、慣れてるのね」
「森での暮らしは長かったから。ところで貴女は、最近しっかり休めてるの? その様子だとここ数日ちゃんと眠れていないようじゃない」
セレスティアは膝を抱えた姿勢のまま、もう少しだけ丸くなった。
「それは……そう。でも、私が物を届けるのを待っている人たちがいるの。最近は手を貸してくれる行商だって増えたから、私が、みんなにお手本を……」
「根詰めすぎると死ぬわよ。この時勢なら尚更。適度に気を抜きなさい」
「……そうね。ラヴェンナの言う通り」
「魔物の数はどう?」
「以前よりは減ったわ。ストーンヘイヴンの騎士たちが掃討活動をしたみたい」
どこからともなくトポポポと湯を注ぐ音が聞こえる。
気が付けば、ラヴェンナの元に一杯の紅茶があった。
「魔王がいなくなって、魔物たちの動きも収まったらいつか、お日様の下で甘い物を食べながらゆっくりしたいわ。綺麗なドレスを着て、綺麗なお庭に座って、なんでもないことを話しながら平和に過ごすの。その時は仕事のことも、責任のことも全部忘れて……」
「……できるわよ」
「そう?」
ラヴェンナは静かに微笑んで、口元を懸命に動かしながら言葉を紡ぐ。
「クレープを焼いて、オレンジのソースを絡めて、とっておきの紅茶と食べる。私と貴女、ロクサーヌの、三人で……」
「ええ、ロクサーヌって……あの“氷撃の魔女"の?」
きょとんとするセレスティア。
するとそこへ一人の騎士が近付いてきた。焚き火の光に照らされた顔はなんとカトリーナその人のもの。彼女はラヴェンナの隣へ腰掛けてから交代を告げる。
「時間だ、私は少し休ませてもらう」
「何か居た?」
「いいや、魔物一匹いやしない。だけど用心するんだ」
「ええ。じゃあ私が行ってくるわね」
「頼んだぞ……」
ラヴェンナは立ち上がり、焚き火から離れるように歩いて行った。
……リンリンと鳴く虫の音に気を引かれていると森の小道に出た。丁度荷馬車が通れそうな程の道幅だ。しかし、魔物がこれを獣道代わりにすることもある。
「あの」
「?」
道へ出てしばらくすると、ふと視界の外から声を掛けられた。そちらを向けばそこには子供を連れた母親が立っていた。その顔はアイリスのものだ。子供の方はアレンに見える。
「どうしたの?」
「ああ、魔女様でしたか。お疲れ様です」
「こんなところにいたら危ないわ。いったい何をしているのよ」
「実を、拾っているのです」
アイリスは手に籠を持っていた。中には小さなどんぐりが何個も入っている。
「これを砕いて、すり潰して、クッキーにします」
「どうして……」
「もうすぐ祭りがあります。子供を飢えさせるわけにはいきませんから」
「僕も、お手伝いしてる」
少年は地面に落ちていた栗を拾って彼女へ見せる。小さな穴が空いていた。
「ママ、栗があったよ」
「まあ、良い物を見つけましたね。えらいえらい……」
「んんっ、くすぐったい……」
「さあアレン君、この辺りで戻りましょうか。帰り道にもどんぐりは沢山落ちていますから。魔女様も、どうかお気を付けて」
「ええ」
二人は下を向いたまま暗い夜の道を歩いて行った。
足元を見てみれば確かにどんぐりが落ちている。屈んで指でつまみ上げると、小道の真ん中に一軒のボロ小屋が浮かび上がった。窓が黄色く光っている。
それは、ラヴェンナが気付いた瞬間、中からドンドンと叩くような音を発し始めた。思わず窓際へ向かえば、内側にかかっていたカーテンが開いて住人が顔を出してくる。
なんと、ロクサーヌがそこに居た。
彼女は窓を開けると、いつもと同じようにラヴェンナへ恭しく挨拶する。
「ラヴェンナ様、どうされたのですか?」
「ええと……なんでもないわ」
「夜は冷えます、どうぞ中へ」
開けっぱなしの窓を残してロクサーヌは姿を消す。後に続くようにラヴェンナがそこから入れば、中は、雪と氷で作られた巨大な城となっていた。
頬の周りがひんやりと冷える。
しっかりと固められた雪レンガとつるりとした氷。赤いカーペットが敷かれている中でラヴェンナは主の姿を探す。寒さに身を震わせながら歩いているうち、丁度バルコニーになっているところに白魔女の後ろ姿を見た。
真っ白い針葉樹林と氷原を見下ろす場所で、彼女はラヴェンナが来たことにも関心がない様子で立ち続けている……
「ロクサーヌ」
「……どうして来たのですか? こんな極限の地までわざわざ」
「決まってるじゃない、貴女に用事があったからよ」
「?」
“氷撃の魔女”はラヴェンナの言葉を聞いて怪訝な顔へ変わる。
「じきに、魔王の時代は終わりを告げる。平和が訪れ、人々はもっと良い場所で暮らせるようになる。そうなったら……私と一緒に、どこか別のところを探して一緒に生活しない?」
「くだらない。大層な夢物語ですね。どうぞお引き取りください」
「これからその夢を現実にするのよ」
「……正気で言っているのですか?」
「朝には鶏が鳴いて、犬と猫がじゃれあって、牛がいるのもいいわね。ゆっくりと庭の世話でもしながら、太陽の下で穏やかな日々を過ごすの……そこに貴女も居てほしい。魔女一人だと、それこそいつか正気を失ってしまうでしょうから」
「……」
ロクサーヌは僅かに俯いたまま、何も言わなかった。
◆ ◆ ◆
ラヴェンナは、ベッドの上で静かな覚醒を迎えていた。
窓の外はまだ暗い。どうやら中途半端に目が覚めてしまったようだ。
「…………」
一言も喋らず、天井を見上げて考え事に耽る。それから僅かに肌寒さを覚えると、足で蹴飛ばしていた布団を引っ張ってからかけ直し、寝返りを打って横向きに変わった。
夜空にぼんやりとした月が光っている。あの時と同じ虫の音が聞こえる。