某日の昼。ラヴェンナは「ミノタウロスくん」に何か鎧でも着せてあげようかと考えながら気晴らしに街を訪れていた。そのついでに、修道院のアイリスと会った際の出来事である。
「えっ、アレンが朝から帰ってきてない?」
「はい。手芸用品店はご存じですか? 今日は早くからそこへお手伝いに行ったのですが……昼前には戻ると言っていたのに、まだ彼の姿が見えなくて」
「寄り道でもしているんじゃないの」
「だったらいいんですが。もしお時間がありましたら、代わりに見てきてくださいませんか? 私はこれから昼ご飯を作らなければいけなくて……」
「仕方ないわねぇ。あとで彼をこちらへ寄越しなさい。マッサージを頼むわ」
「でしたら、修道院で造ったワインも」
「ごめんなさい、ワインはいま、間に合ってて……」
元々その店に行くつもりだったラヴェンナは了承。件の建物の前に立った。
以前、カトリーナと出会ったこの店は今や、ぬいぐるみブームの火付け役として街の住人たちに広く知られるようになっていた。しかし何度来てもやはり、日向を避けるように建っているここはどこか薄暗い気配を覚えてしまう。
とはいえ、それはまだ前座の前座に過ぎない。
深呼吸をした後、軋む扉をゆっくりと開け、隙間から中へ滑り込んだ。
(ったく、相変わらず暗いわね、この店は)
胸の内でこっそり悪態をつく。
手芸用品店は、あらかじめそうと言われなければ開店していると分からない程に薄暗かった。窓から差してくる光でなんとか普通に歩き回れはするも、不気味さはやはり拭えないところがある。
客として入れる場所は探ってみたが尋ね人の姿はない。
あとは店の奥……カウンターの向かいから続くエリアが残るだけだ。しかし肝心のその場所には厚手の黒いカーテンが落とされ、商品とお金のやり取りができる部分をごく僅かに空けただけ。店主の正体を窺い知ることは叶わない。
「……もし?」
呼びかけてからしばらく経つと、軽い足音がいくつも聞こえてきた。カーテンの向こうに現れた“彼女”は恐る恐る、やや早口な調子で返す。
「ど、どちら様? なに、私が何か悪いことでもした……?」
「ここに男の子が来なかった?」
「あっ……」
「……何か知ってるのね?」
「し、知らない……知らない、知らない、そんなこと知らない!」
カツカツカツカツカツカツカツカツ……足音は、逃げるように去ってしまった。
しかし、これで“何か”があったのはハッキリした。ラヴェンナはさっきの店主がやけに怯えている様を思い返した後、アイリスからの頼まれ事を頭で反芻しては、カウンター台に手をかけてそのまま乗り越えていった。
◆ ◆ ◆
カーテンの奥は、先程までの店内と打って変わって妙に空気が乾いていた。建物の形に従って廊下が延びる中、本来そこへ入ってくるはずの光は木材によって遮られてしまっている。暗闇に目が慣れるまで待てば、窓に沢山の部材が釘で打ち付けられているのが分かった。ここの店主は余程光が嫌いだと見える。
建物自体は広くはない。探索だけなら一時間もしないうちに終わるだろうが……考えなければならないのは、どこかに「彼女」も潜んでいることだ。
(暗いし、埃っぽいし、蜘蛛の巣だらけじゃない……)
(さあて、何が出てくることやら)
一歩一歩慎重に進みながら他の区画を覗いてみる。しかし多くは布類や糸が保管された倉庫となっているだけで猟奇的なものは何一つさえ見当たらない。そのまま最奥の部屋――おそらく一番広く造られているだろう場所に迫れば、誰かのすすり泣く声が聞こえてくる。
先程の女店主だ。
ラヴェンナはゆっくりとドアを開け……彼女の様子を隙間から窺った。
「うっ……ううっ……もう終わりよぉ。折角ここまでうまくやってきたのに!」
細やかな装飾の施された黒いドレスを纏った女性が背中を向けて泣いている。
長い銀髪を編み下ろしにした彼女は膝を折って座り込みながら、両手で顔を覆ってシクシクと悲しみに浸っていた。
「どうしよう、どうしよう、どうしよう! やっぱりお手伝いなんて雇うべきじゃなかった! この子供さえ居なくなれば……でも、そんなことしたら私は……」
「んー! んー!」
(?)
声が聞こえる。ごく僅かに射し込む光を頼りに目を凝らす。すると部屋の隅で、人の形をしたものが身体をよじらせているのが分かった。
アレンだ。口から下が白い糸でグルグル巻きにされ、身動きが取れていない。
ラヴェンナはドアをゆっくりと開き、静かに一歩を踏み出す。だが、足元に張られていた蜘蛛の糸がヒールのつま先に踏みつけられた瞬間、悲劇のヒロインとして振舞っていた女性がハッと顔を上げた。
「!」
「あ……」
彼女は振り返る。白肌と銀髪を靡かせながら、横に長い瞳を強い不安で揺らす。
「み……見たのね……見ちゃった、のね……」
かさり、と地面から擦れる音がすると共に女性の身体が持ち上がった。
すると、ドレスの下に隠れていたものが露わになる。「蜘蛛の脚」だ! 彼女の下半身は通常の人間のそれではない、大きな腹部と細く細い八つの脚で構成されている。立ち上がった女は小屋の天井に届きかねない背丈でラヴェンナを見下ろしながら、それでいてひどく恐れている様子だった――
「こっ……この姿を見られたからには……いいい、いきて、帰さないっ……!」
「ちょっと! 私はまだ何も――」
「うるさい! うるさいうるさい、うるさぁい!」
半狂乱となった蜘蛛女は地面をカサカサ擦りながら突進を仕掛けてきた!
反応が遅れたラヴェンナは固まったまま、彼女の毒牙に文字通り――
――かかることはなかった。
寸前のところで黒魔女の身体がふわりと霧のように消えると、勢い余った巨体はターゲットを見失ったことで判断が遅れ、立ち止まれずに壁へ激突してしまう。
その衝撃で窓を覆っていた部材の一つが剥がれ、光が射し込んできた。
糸でグルグル巻きにされていたアレンの傍にはいつの間にかラヴェンナが屈んでいる。炎魔法を宿らせた魔女の指先が糸の拘束を焼き切った。
「大丈夫? 怪我はない?」
「ま、魔女様……」
「いやぁ! お願い、彼を連れて行かないで! 私の秘密をバラさないで……!」
「待って! 一回落ち着きなさい!」
転んでいた女性はすぐに立ち上がると引き返してくるが、今度は自分が作っていた蜘蛛の巣に足を取られて動けなくなってしまう。八つの足を絡ませ泣き叫びながら床に転がるうち、自身の糸に絡まって藻掻く醜態を晒してしまった。
ラヴェンナとアレンは目をぱちくりとさせる。
この女性は必要以上に怖がりな性格。ただ、それだけなのだ……
「ぐす……ぐすっ……なんで、どうして……!」
「大丈夫よ、すぐには帰らないから。ほら、糸を切ってあげるから」
「ぼ、僕も手伝うよ。何があったか、説明しなきゃだし……」
◆ ◆ ◆
アレン曰く、どちらかと言えば自分の方に非があるらしい。
修道院の「社会勉強」として手芸用品店を訪れた彼は、そこで女店主――アリアという名前の女性から店内掃除を頼まれていた。言われた通りに客が入るスペースを問題なく綺麗にして……それまでは良かったが、いざ仕事が終わった報告をしようとしても店主の姿がない。声を上げるが反応があったかも分からない。
真面目な性格に育ったものだから、勝手に帰る選択肢はなかった。
後で怒られることも覚悟して店の奥に入ったら……こうなったという訳だ。
「それは、貴方は悪くないんじゃないかしら……ねえアリア、大丈夫?」
「うん……落ち着いた、かも」
「彼はこう言ってるけど、貴女はその時何をしていたのよ」
「わたしは……これ、作ってた……」
彼女が部屋の隅から持ってきたのは、例のフェルト生地で作られたぬいぐるみ。しかも新作のようだ。魔物ではなくごくありふれた人間の少年に見える。
「私は、ただ、一人で静かにしていたいだけだった。だけどぬいぐるみを作ったら知らないニンゲンがいっぱい来るようになって……」
「貴女、もしかして……あれを全部手作業で?」
「観察だけは、得意だった。一個一個手作りしてたら、忙しくなって、店の掃除ができなくなって……アレンに来てもらった。あの時わたしは、作業に集中してて、分からなくて……」
そこまで言うと、アリアはまた両手で顔を覆って悲痛な声を上げてしまう。
「でももうおしまいなの! 私の姿を前に、彼の全身が固まったのを見てしまったのよ! これで返してしまったら、あの店には恐ろしい化け物が居る、ニンゲンを捕まえて食ってしまう悪い魔物がいる、そう言われて終わり……!」
「うーん……」
「きっと明日にも騎士団が来て、私は悪しき蜘蛛女として討伐されてその生涯を終えるの。ええ、こんな日陰者の私にはぴったりな孤独で悲しい末路……」
不安の根源はなんとか把握したものの、聞いている限りかなり根が深そうな問題ではあった。ラヴェンナが頭に手を当てて考え込んでいると、きょとんとした様子のアレンがアリアの前に立つ。
まだ小柄な少年と大きな蜘蛛女ではあまりにも体格差が大きかった。
しかし彼は怖じ気付くことなく、勇気を振り絞って言葉を紡いでみせた。
「あの!」
「ひいっ!」
「僕があの時固まっちゃったのは、その……」
これ以上聞きたくない、と言わんばかりにアリアは耳を塞ぐ。ラヴェンナは無理にでも腕を引っ張ってそれを引き剥がし――
「アリアさんが……とっても、綺麗だったからです!」
「!」
静寂。
アレンはしばらく経って、自分の言葉を思い返したのか、恥ずかしさに耐えきれずラヴェンナへすがりついて声を上げ始めた。肝心の蜘蛛女はと言うと、先程聞いた台詞が信じられない様子で両手をわなわな震わせている。
「わ、私が……綺麗? そんな! だって私は、蜘蛛なのよ……!」
「うーっ、うーっ!」
「あぁぁぁ、まったく……折角彼が伝えてくれたんだから、とりあえず素直に受け取っておきなさい。他のことは、私がうまく話をつけておくから」
「でも……」
「私はラヴェンナ、ウィンデル集落に住む“幻想の大魔女”……何かあったら手紙を書いて寄越しなさい。いいわね?」
「幻想の大魔女……分かった。今のところは、貴女と彼の言葉を、信じる」
なんとかこの場はまとまった。
ラヴェンナはアレンを連れて店を出て、修道院のアイリスに引き渡す。アリアのことについてはボカし、仕事が膨らんで帰りが遅れたと言い訳した。
(しかしまあ、あの少年も不思議な縁が続くわね)
(同じ人間の女の子が不憫でならないわ。折角のイケメンに育ちそうなのに……)
箒に乗って午後の空を飛ぶ。そうしてウィンデルまで帰った後に初めて、彼女は自分が何も買ってきていないことに気が付いて声を上げたのだった。