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第14話「魔女ラヴェンナのやさしい魔法学レッスン」

 青々と晴れたある朝。眠ってしまいそうな陽気に誘われたラヴェンナは、窓際のロッキングチェアに深く寄りかかると心地よさに任せるように口を開けてまどろんでいた。時折、椅子の脚部が床とゆるやかに擦れる音の他にはとても静かで、外でさえずる小鳥たちの声と遠くのウシの声、隣の家の畑で鍬を使っているのが微かに聞こえてくるだけだ。

 黒魔女が文句の付けようもない午前を堪能していると、誰かがドアの前に来たことを悟って瞼を開く。だが、それよりも先に鼻がすんすんと動いて、あの爽やかなシトラスの香りを仄かに捉えていた。


 ノックの音。返事をしてみれば、長い白髪の女騎士が入ってくる。しかし今日は重厚な鎧を纏っておらず、革と布を主とした軽装で立っていた。女騎士と分かったのは、胸元以外がすらりとした身体の腰元に、普通の市民ならば持ち得ない細身のレイピアが携帯されていたからだった。


「いらっしゃい、カトリーナ。今日はお休みの日?」

「ああ、たまのいとまだ……手土産も持ってきてる」

「あらあら、悪いわねぇ。しかも私の好きな物ばっかりじゃないの」


 渡された手提げ袋を覗いてみれば、そこには赤ワインの瓶と紙に包まれたベーコンブロック、ソースの小壺とチーズが入っている……どれもラヴェンナがよく好むものだ。以前ここを訪れた際に家の様子をしっかり見ていたのだろう。


「それで、今日はどんな用事で来たの?」

「それがな、ちょっと、気が早すぎるかもしれないのだが……」


 カトリーナは腕を組むと視線を逸らし、やや気恥ずかしそうな調子で呟いた。


「……私に、魔法の扱い方を教えて欲しいんだ」



◆ ◆ ◆



 テーブルの上を整理した後、二人は対面するように椅子へ座って腰を落ち着けていた。ちょうど真ん中の位置では綺麗な水晶玉が小さなクッションと共に置かれ、その横には香炉もある。まだ何の香料も使っていないが、既に屋内はラヴェンナに由来する魔女の匂い――薔薇の匂いにぼんやりと覆われていた。


「確かに魔法の感覚を知っておくのは大事ね。特に貴女の場合は人前で暴発させる訳にはいかない事情もあるでしょうし……」

「そういうことだ。だが、何から始めれば良い?」

「まずは……そうね。水晶を使った、ごく簡単なトレーニングからやりましょう。私がサポートするわ」

「ああ。貴女が居てくれて良かった……」


 カトリーナに課せられた最初のお題は、マナの感覚に慣れることだった。

 魔女はマナを通して「世界」と接続する。水晶玉は特にその影響を反映しやすい物質で、素質ある者が手をかざせば何かしらの反応は起こるものだった。だからこれを光らせること自体は何も難しくはないのだが……


「足の裏をしっかり地面に付けて、座り姿勢を安定させて。手はそのまま、あまり余計なことを考えないように、意識を真っ直ぐにして……」

「む……」

「……うん、反応はあるわね。魔女の素質は十分といったところかしら」


 女騎士に感化されたマナは水晶玉を内側から白くぼんやり光らせるが……それは時間経過に従って明滅して安定しない。途中までうまくできていても、何か余計なものが彼女の集中を妨げているようだった。


「光が、どうにも不安定だ」

「最初は誰だってそうよ。ここからは“チューニング”をしていきましょう」


 ラヴェンナは優しい声色で告げた後にカトリーナの上へ手を被せる。そこへ流れているマナの流れを手のひらから読み取り始める……


「不安や雑念が交ざっているといい集中は作れないわ。それらはいくつもの事象が絡み合ってできたもの。絡まった糸を解くように、一つずつしっかり取り出して、想像して……それが無くなっていくイメージをする。悪い感覚は、足の裏から逃がしてあげましょう」

「ん……」

「ゆっくりやって大丈夫よ、時間ならまだ沢山あるから」


 魔女の修行は極めて主観的な事象を取り扱うため、最後はどうしても本人がその結果を認められるかという問題になりやすい。故に、ラヴェンナは新人魔女の心の動きをマナの揺れ方から探り、雑味の混ざったそれをかつての純粋な姿へ戻すサポートに徹し、カトリーナの心の安定を重視するのだ。

 集中が深まる旅に、二人の意識から周りの物事が消え去って静かになる。

 目には見えない、しかし強固な精神的つながりが確かに築かれつつあった。


「頭から感情を抜いて、中立ニュートラルのまま維持しましょう……良い調子よ」

「うん……うん……」

「マナの流れがすっきりしてきたわ。さあ、ここからが本番――そのまま、自分の心に従って。あなたの奥底にあるものを、あるがままに観察して……」


 水晶玉の放つ光がはっきりと鮮明に、そして仄かに色づき始めた。赤い光から始まったそれは徐々に青みを帯びるように遷移し、やがて穏やかな緑色で落ち着く。

 そして、深い集中のさなかで一つの明確な像が結ばれた。

 ラヴェンナはカトリーナの手に触れ、そのイメージを拡大させる――


『……!』


 長く引き延ばされたごくごく一瞬の間。二人は、広い草原の中に立っていた。


(ようやく視えたわ)

(これが、彼女の精神世界……)


 膝上まで伸びた草を穏やかな風が揺らす。景色はどこまでも果てしなく続いて、透き通るような空が広がっていた。もしウィンデルを離れることになったとしたら次はこのような場所で暮らしたいと心から思えるだろう。


(彼女の第一印象と同じ、綺麗で、透き通った場所)

(だけど……)


 だけど、それだけだった。

 カトリーナの奥底へ隠れた世界には、他に、誰の姿も見当たらなかった。



◆ ◆ ◆



 水晶玉を用いた実験を終えた後、少しの休憩を挟んでから次の練習エクササイズが始まった。ラヴェンナはテーブルの上を綺麗に戻すと、今度はコルクでフタのされた瓶を置く。中には木で作られた鳥のコースターが斜めに入っていた。


「これは?」

「即席で組んだ練習装置よ。さっき見た雰囲気で決めたけど、貴女の場合は風魔法から始めた方がいいと思ったの。見て、こんな感じにするの……」


 黒魔女は先に瓶を両手でそっと挟み込むと、神妙な顔になって呼吸を整える。

 すると……中にあったコースターがフワリと持ち上がり、カラカラと音を立てて揺れ始める。ラヴェンナからの影響を受けて小さな風が生まれたのだ。


「ふむ……」

「これは今日持ち帰ってもらって構わないわ。そうしたら向こうに一人で居る時も練習できるでしょう。規模も小さいから、他の人にも悟られずに済む」

「わかった、やってみる」


 カトリーナは瓶を受け取ると、先程見せられたのと同じように試してみる。風を起こそうと意識を向けてみると――鳥のコースターは、ごく僅かにカタカタと音を立てる。しかし先程の手本のように高く舞い上がることはなかった。


 それからは何とも地味な絵面が続く。

 彼女は騎士団長なだけあって基礎練習への耐性は高かったようだ。ラヴェンナは新しい教え子が真面目に取り組む様子を見ながら、これまで自分から魔法を学んで巣立っていた“後輩魔女”たちの姿を思い返し、静かに目を細めていた。


「……ひとつ、聞いても良いか」

「ええ、どうぞ」

「これはかなり難しい。本当に、できるようになるのか?」

「最初は誰だってそんなものよ。それに……貴女がもし魔女として何十年と生きていくと決めた場合、始めで数年かけたくらい何ともないわ」

「それは……そうだが」


 カトリーナの返事は薄暗く濁っている。

 彼女に潜んでいた不安は、それだけではないようだ――


「魔女として長生きをするということは……自分の知っている人が、周りからいなくなってしまう。そうではないか?」

「その通りよ」

「寂しくは、ないのか」

「勿論寂しいわよ。私だって……」


 ラヴェンナは視線を落とし、大切な思い出の箱を開けるように過去を思い返す。

 諦念と後悔、それに何年も耐え忍んだ結果生まれたような渋い表情だった。


「――かつての友人、かつての夫。顔も、声も、記憶も、時間と共に忘れ去ってしまうものよ。貴女だって既に多くの物事を忘れてきたでしょう? だから、どうしても忘れたくない人は日記に残したり、思い出の物を残したりする」

「……すまない。もしかしたら嫌な気持ちにさせてしまったか」

「大丈夫よ。慣れたから。でももし貴女がその現実に苦しむなら……それを少し共有しても構わないわ。その時は、私の分も少し負担してもらうけれど」

「ラヴェンナ……」

「ひとりで寂しい時なんてごまんとあるの。だからこそ長い付き合いのある友達が大切よ。もし、貴女もその一人になってくれるのだとしたら――」


 言いかけたところで扉がノックされる。

 ロクサーヌがハーブティーを淹れて持ってきてくれたようだった。


「お二方、紅茶ができました。無理をなさらぬように」

「あら、良いところに来てくれたわね。そうだ、ロクサーヌ……」


 白魔女は紅茶を置いた後、ラヴェンナと何気ない日常会話に入り始める。調子はどうか、魔法の特性はどうか、良い練習法のアイデアはないか……専門のやりとりが繰り広げられる中、カトリーナは二人の魔女が言葉を交わす光景をぼんやりと見つめて……やがて、何かの解を得た様子で目を閉じたのだった。



◆ ◆ ◆



「根を詰めすぎてはダメよ。今日は結構いろいろなことを教えたんだから」

「ありがとう。また来る」


 夕方。カトリーナは例の瓶をお土産代わりに街へ帰り、ついでに香料店へ寄った。目当てのものを手に入れた後は寮舎へ真っ直ぐ戻り、他の兵士たちと合流してから何気ない「騎士団長」としての日々へと回帰する。


 ……やがて、その日の晩。


 ベッドで眠る前、カトリーナはふとどうしようもない孤独感に苛まれていた。

 夜の静けさに負けないよう、まだ明るかった頃に手に入れたお香を焚いてみる。枕元に「ゴブリンくん」と鳥のコースターが入った瓶も置いて横になれば、心地よい匂いと合わさって、彼女の不安が和らぐように導いてくれた。


(……)

(うん、悪くない……)


 部屋の中に、柔らかな薔薇の香りが漂っている。


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