伊織さんは紅茶を一口飲むと、昔語りで乾いた喉を潤した。その隣でみひろは、専属近侍が語る自身の少女時代エピソードが恥ずかしかったのか、照れ笑いを浮かべている。
改めて、ダイニングテーブルに並んで仲良く座る主従の二人を見て私は……この家に来たばかりの頃、伊織さんが言ってたセリフを思い出した。
『私は葉室家本家に配属されてすぐ、とある失敗をしてしまいました。本来であれば家を追い出されてもおかしくない失態でしたが、みひろ様に助けて頂いたのです』
あの時は車で事故っちゃったとか高価な花瓶割っちゃったとか、そういう類のものを想像してたけど……まさか葉室財閥総帥、葉室久右衛門さんの誘拐未遂事件だったなんて。
そりゃ出会ってすぐ、そんな修羅場を二人で切り抜けたのなら、主従関係以上の絆が生まれるのも当然だ。
でも、ひとつだけ引っかかるところがある。
「みひろのお母さんってさ……病死したって言ってなかったっけ?」
「はい。対外的には病死という事になってます。元使用人が主人を銃で撃ち、別の使用人がそれを庇って死亡したなんて、世間に公表できませんので……」
言われてみれば、そりゃそうか。
誘拐事件で銃が使われたってだけで大ニュースなのにそのターゲットが葉室財閥総帥、しかも使用人が身代わりで亡くなったなんて、スキャンダルにもほどがある。葉室財閥が事件を揉み消さないわけがない。
でも……私は隣にちょこんと座る金髪幼女、リーラちゃんに話を振った。
「それで、久右衛門さんと一緒に来た秘書の人って、亡くなったはずのみひろのお母さん――依子さんで間違いないんでしょう?」
「間違いないよ。私が葉室家にいたのって三歳くらいの時だしほとんど記憶ないけど、依子おばさんはよくお世話してくれたし、覚えてるもん。逆に誘拐事件があった事も、依子おばさんが死んじゃった事も、今初めて知ったし……」
監視カメラの一時停止映像を見ながら、リーラちゃんは下唇を噛み締めた。
私はみひろと伊織さん、二人に問いかける。
「二人もさ、監視カメラに映ってるのは依子さんだって思ってるんだよね? もしかして、依子さんは生きてるって知ってたの?」
「確信……とまでは言えませんでしたが。私も伊織も、お母さまが亡くなったという事実に大きな疑念は持っていました」
「どうして?」
「あの日お母さまは、銃で背中を撃たれました。私が駆け寄ると、お母さまは口から血を吐いていましたが、背中からの出血はなかったように思えます」
古い記憶を辿るように、伊織さんは額に手を添え目を閉じると、同意するように頷いた。
「近藤さんは、明らかに銃の扱いに不慣れでした。自分で銃を調達したとは思えません。おそらくあれは、捕らえた久右衛門さまが持っていた、護身用の拳銃だと思われます。当然久右衛門さまも銃には不慣れでしょうし、もしかすると暴発のリスクを避けるため、ゴム弾が装填されていたのかもしれません」
「それだと、口から血を吐くのはおかしくない?」
「ゴム弾と言っても、射出スピードは実弾とそう変わりません。当たりどころが悪ければ死んでしまう事もあります。当然、背中に当たれば内臓を痛め、血を吐く事も……」
そういう事か……。
ゴム弾だったおかげで、依子さんは死なずに済んだかもしれない……ううん、こうしてウチにお線香あげに来たんだから、生きてる事は確実だ。じゃあなぜ葉室家は、生きてる依子さんを死んだ事にしたのか……。
伊織さんは紅茶を一口含むと、その後について言及する。
「撃たれた直後……駆け付けた葉室警備の方々は、私や久右衛門さまと一緒に、依子さんを葉室系列の病院に運びました。その三日後、私とみひろ様は依子さんが死亡したと聞かされたんです。しかもその時点でもう、依子さんの通夜と火葬は終わっていて、みひろ様は骨壺と遺影のみで、告別式の喪主を務められました」
「私はお母さまの死に際に立ち会う事も、死に顔を見る事も許されませんでした。これがお前の母親だと骨壺を渡され、母の死を悼めと言われても、どうしたって疑問しか湧いてきません」
私も最近お祖母ちゃんのお葬式を出したから、それがいかにおかしい事かよく分かる。
お通夜は普通、亡くなった日の翌日か翌々日に行う。家族や親しい関係者が集まって死者を偲び、その翌日に生前関わりあった人達と一緒に告別式を行う。その後遺体は火葬場に運ばれ、焼き残った骨を
お通夜と火葬を先に済ませ、その後に告別式をするなんて……まるで流行りの伝染病で亡くなった人みたいな対応……だから病死という事にしたんだろうか?
「葬儀の後、私はお祖父さまに、お母さまの死因がなぜ病死だったのかお聞きしました。ですが世間から誘拐事件を隠匿するための処置だと言われ、何がどうしてお母さまが亡くなったか、教えて頂けませんでした」
「みひろ様ですら、そのような対応でしたから。使用人の私が、表立って追求する事もできません……」
リーラちゃんは金色の後頭部を両手で支えると「バカバカし」と一蹴した。
「そんなの誰が聞いたって、葉室財閥が『依子おばさんを死んだ事にしたかった』以外、考えられないじゃない!」
潤んだ紫目を瞬かせ、みひろは大きく頷いた。
「はい……お母さまは生きていた。お祖父さまは何らかの事情があって、その事実を隠蔽した。今日、その確信が持てたのは良かったです」
そう言って屈託なく笑うみひろだけど、私は全然納得できない。
誘拐事件の犯人を特定し久右衛門さんを救ったのは、間違いなくみひろと伊織さんなのに……どうしてみひろが! お母さんと引き離されて、別々に暮らさなきゃなんないの!?
「だいたいなんで久右衛門さんは、死んだ事にした依子さんを、わざわざ
「分かりません……でも私と伊織が留守中に来たのですから、今はまだ会わせる気がないという事でしょう。もしかすると『母親と再会したければ、早く全てのコインを集めろ』という、無言のプレッシャーなのかもしれません」
「うわっ……それはそれで意地悪すぎない? 直接言えばいいだけなのに」
「お祖父さまの真意については、いずれ分かる日も来るでしょう。それよりも……リーラちゃん。ここまでの話を聞いて、納得できましたか?」
そうだった。そもそもはリーラちゃんの誤解を解くために、伊織さんに昔語りしてもらったんだ。
リーラちゃんはお母さんのマルティナさんから、『葉室財閥を追い出されたのは、葉室家が外国人の血を入れたくなかったから』と教えられていた。
リーラちゃんが懐いてた依子さんが亡くなった事、恋仲だった近藤さんが捕まった事。
葉室家放逐の真実を語るにはそれらの説明が不可欠で、幼い娘にそういう話はまだ早い……。そう判断したマルティナさんは、納得してくれるであろう嘘の理由をでっちあげ、リーラちゃんはそれを信じて疑わなかった。
その誤解を解くために、伊織さんが事細かに事件の真相を話してくれたわけだが……大人びたところがあるとはいえ、リーラちゃんはまだ十歳。伊織さんとみひろの話をどこまで信じてくれるのか。
三人の視線を一身に浴びた金髪少女は、ちっちゃくて可愛らしい口から溜息をひとつ零した。
「ウチのママ、ノリで生きてるみたいなとこあったから……。詳しく聞こうとしても『忘れちゃった~』とか言って、私もしょうがないなって……。今思うと、上手く誤魔化されてたのかもしれない……」
リーラちゃんは、椅子の上で両膝を抱える。
「伊織の話を聞いてるうち……断片的だけど、昔見た光景を薄っすら思い起こせるの。ガレージの詰所で、普段食べれない普通のお菓子を食べて嬉しかった事。幼稚園に知らないおじさん達が迎えに来て、怖かった事。お屋敷がバタバタしてるなと思ってたら、ママが突然引っ越すって言い出した事……」
抱えた膝に顔を伏せると、リーラちゃんはその態勢のまま黙ってしまう。
母親に嘘を吐かれたショックは大きいだろう……それでもリーラちゃんは、伊織さんの話と自分の記憶をしっかり照らし合わせ、真実を受け止めようとしている。
こんな小さな女の子なのに……感情に流されない理性的な考えに、頭が下がる思いだ。
「屋敷を出た後……ママはその近藤さんって人に、会いに行く事はなかったのかな?」
「近藤さんは十年の実刑判決を言い渡され、今も刑務所で服役中です。私も一度だけ面会に行きましたが……その際、マルティナさんが何度か面会に来てくれてると仰ってました」
伊織さんが答えると、リーラちゃんはしゅんと肩を落とす。
「そう……その人が出所したら、再婚するつもりだったのかな。それなのにママの方が先に死んじゃうなんて……皮肉なものね」
膝から顔を上げると、リーラちゃんは潤んだ碧眼で、みひろをまっすぐ見つめた。
「分かった、教えるよ。私が知ってる、アマルガムの拠点について」
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