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7-07 専属初日

 翌朝、八時半。

 私が送迎車の運転席に座っていると、バックミラーに和装の御仁と数名の近侍の姿が映った。私はすぐに後部座席のロックを解除し――おっと、このままお待ちするんだった。

 近藤さん曰く、久右衛門さまは運転士による後部座席ドアの開閉を過度な気配りと考えているらしい。そのため、運転士は常に運転席で待機し、いつでも出発できるようエンジンをかけておく事が良しとされる。

 分家では主人にドアを開けさせただけで厳しい叱責の言葉が飛んできたが……ところ変わればルールも変わる。早く本家のやり方に馴染まなければ。


「たのむ」


 後部座席の扉が開くと、紺色の着物に家紋の入った羽織姿の久右衛門さまが、お車に乗り込んできた。

 私は前を向いたまま、簡潔に朝の挨拶と行先だけを確認する。


「おはようございます、葉室商事ですね」

「……うむ」


 近藤さんの教え通り、カーナビは使わない。葉室商事へのルートは、ちゃんと頭に叩き込んである。

 特別車両の黒ベンツは、こうべを垂れる執事やメイドたちに見送られ、お屋敷を出発した。


 道中、久右衛門さまは一言も喋らない。昨日、車の前に出て停めてしまった事を謝ろうかとも思ったが、やめた。運転士は、久右衛門さまのお時間を邪魔してはならない。


 葉室商事の正面玄関前に着くと、外から後部座席の扉が開き、久右衛門さまは車を降りた。何人もの商事社員に囲まれて、ビルの中へと入っていく。

 私は警備員の指示に従って車を駐車場に移動すると、車内で安堵の息を吐く。ふぅ……とりあえず、初送迎はつつがなく。この分なら次の行先も問題ないだろう。

 会議が終わるのは二時間後。この後の昼食は、赤坂の料亭でランチミーティングとなっている。念のためカーナビを使って料亭までのルートを表示させ、間違えてないか確認すると、やる事がなくなってしまった。


 今日は近藤さんの最終出社日だ。今頃は運転課以外の部署に、退職の挨拶周りをしてる事だろう。その後はカギもカードも制服も全て返却してしまうので、午前中で帰る予定だと言っていた。

 たった一日、引き継ぎと飲み会をご一緒しただけだが、細かいところまで教えてくれたいい先輩だった。昨日の歓送迎会でお礼は言ったけど、できれば今日も一度くらい、顔を合わせておきたかったな。

 ぼんやりそんな事を考えてたら、後部座席のドアが外からノックされた。振り返った窓越しに、紺色の和服が目に入る。慌ててドアロックを解除すると、久右衛門さまがドアを開け車に乗り込んできた。


「赤坂の料亭に」

「はい、すみません。正面玄関前にお迎えに行くはずが……」

「よい。十五分ほど早く終わったのでな」


 しまった……会議が遅くなる事はままあれど、早く終わる事はそうそうない。

 とはいえ、久右衛門さまも電話で私をお呼びにならなかった。気分転換がてら、正面玄関から駐車場ここまで歩きたかったのかもしれない。

 私はエンジンをかけると、車を出発させた。

 しばらく国道を走ってると、スマホを見ていた久右衛門さまから突然話しかけられた。


「コンビニに寄って、ホットコーヒーを買ってきてくれ」

「かしこまりました」


 近藤さんから聞いてた、寄り道の指示だ。あまりないと言ってたが……珍しい。

 まぁそれも、予定より十分早く出発して、時間に余裕があるからだろう。私は国道沿いに出てきたコンビニに入ると、三台の駐車スペースの、唯一空いてる真ん中に車を停めた。


「ミルクとお砂糖は、いかがなさいますか?」

「どちらも一つずつ」

「かしこまりました」


 私はエンジンを切って運転席を降りると、カギのボタンでドアロックをかけコンビニに入った。レジで支払いし紙コップを受け取ると、大きなミル付きコーヒーサーバーにセット。あとはボタンを押下するだけで、豆挽きからドリップまで全自動でやってくれる。手間暇のかかる紅茶に較べ、コーヒーは便利になったものだ。

 コーヒーが出来上がるとミルクと砂糖を一つずつ入れかき回し、プラスチックの蓋を閉める。零さないよう慎重な足取りでコンビニを出て、車に戻った。


「お待たせしました」


 ロックを解除し運転席に入って振り向くと、危うくコーヒーを零しそうになった。

 なぜならそこに……久右衛門さまの姿がなかったから。


 私は慌てて外に出て、駐車場周辺を見回した。すれ違いでコンビニのトイレに行ったのかと思って見てみるも誰もいない。緊急用に教えてもらった久右衛門さまの携帯番号に電話をかけても、無慈悲な機械音声が『電波が届かないところにおられるか、電源が入ってないためかかりません』と告げるのみ。両隣の建物に入って従業員に話を聞くも、和装の爺さんなんて見てないと言われ……これはもう、新人運転士にどうこうできる問題ではない。

 私は震える手でスマホをタップし、運転課に電話する。


「もしもし? 伊織くん?」


 二種類のコール音が鳴った後、ようやく斎藤さんが出てくれた。

 受話器越し、車のエンジン音を聞きながら……私はクビを覚悟で報告した。


「すみません、斎藤さん……久右衛門さまが、何者かに連れ去られてしまったようです」


* * *


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