口から飛び出すんじゃないかってくらい、心臓が早鐘を打つ。
まさか私が女と気付いてそれを暴いてやろうと……いや、違う。この子はずっと『どうして運転士になったのか』を聞いてくる。
私はひそひそ声で、抱っこのみひろちゃんに耳打ちした。
「どうして私が女だって、分かったの?」
「だって近藤さんも斎藤さんも、お酒の席だから上着もベストも脱いで、楽しんでるじゃないですか。でも伊織さんは、上着すら脱ごうとしない。初日で遠慮してるのかなとも思いましたけど、運転課のお二人やお母さまたちともすっかり打ち解けてるので、そういう事でもないようですし」
二人でこそこそ話してると、赤い顔した近藤さんが冷やかしにやってきた。
「こら井原! そんなにみひろちゃんとイチャイチャしてると、依子さんが心配するじゃないかっ!」
「心配なんてしていません。むしろみひろには、男性を見極める眼力を今の内に身に付けてもらわないと……」
「おおっと~! 依子さんが若旦那様を見極めた話……今宵ついに明かされる~ぅっ!?」
「言っちゃえ言っちゃえ!」
「マルティナさんじゃあるまいし……そんな話、絶対しません!」
「お前ら子供の前なんだから、それくらいにしておけよ……」
本日主役の近藤さんは既にほろ酔いのようで、シャツ一枚にボタンも数個外し、少々だらしない恰好だ。
いざという時のためにお酒を口にしない斎藤さんも、場の空気にあてられて上着とネクタイを外し楽しんでいる。
言われてみれば上着もネクタイもベストも着込んでる私は、この場では少々異質な存在に見えるのかもしれない。
大人たちが離れていくと、私はみひろちゃんを膝の上に座らせた。
「ふぅ……みひろちゃんには負けました。この事は、秘密にしておいてくれるかい?」
「そうするためにも、理由をお聞かせ頂かないと」
私はジュースを一口飲むと、彼女にだけ聞こえる声で話し始めた。
「大人の女性はね、男性に比べ急に体調不良になる事が多いんだ。だから運転士やパイロットみたいな、万が一にも事故を起こしちゃいけない職業は、男性の方が好まれる」
「でも運転士の募集は、男の人に限っていませんよね?」
「表向きはね、男女平等ってのは大切だから。でも実際、女性が運転士に応募しても採用されるケースはほとんどない。葉室財閥なら尚更かな」
「突然体調不良になられて、休んでもらっては困る……からですか?」
「そうだね。でも私は、体調が悪い時にどうすればいいか心得てるから、男性に比べて休みがちなんてならないよ。でも面接でそう言っても、雇う側はホントかどうか分からないでしょ? だったら最初から男性を採用しといた方が、余計なリスクを取らずに済む」
「……どうしてそこまでして、運転士になりたいんですか?」
みひろちゃんは私の膝上に座ったまま、顎を上げて訊いてくる。
こちらこそ……どうして君は、そんなにも私の事を知りたがるんだい? 葉室家のご息女なら、運転士の事情なんて知っても意味ないのに。
何か裏があるかもと訝しむも、下から見上げる純粋無垢な紫目を見てると、そんな卑しい考えを持つ自分に嫌気がさす。それが罪悪感となって、素直な気持ちを吐露してしまう。
「私は生まれも育ちも貧民街で、男の子の恰好して盗みを働くワルガキだった。そんな私の唯一の取柄が、乗り物の運転だったんだよ。運良く葉室財閥に拾われて、運転士として教育を受けたまでは良かったものの、葉室財閥に女性の運転士はほんの一握りしかいない。近侍の成績が今ひとつだった私に生き残る道があるとすれば、それはもう一つの特技――子供時代にやってた男装だったわけ」
近侍は性別を偽ってはならないが、運転士にそういったルールは存在しない。
事実、主人とメイド、奥様と執事が二人きりで密室にこもれば、間違いが起こっても不思議ではない。しかし運転士に劣情を抱く者はほとんどいない。移動中にそういう気分になったら、運転士を襲うより、もっと魅力的な女性がいっぱいいるお店に連れていってもらえばいいのだから。
ただし、どんな事にも例外はあるわけで……そういうルールを知って、わざわざ女性運転士を指名する残念な方もいらっしゃる。
もちろんみひろちゃんには、そんな事教えられないけど。
「でも、性別を偽っている事がバレてしまったら、お祖父さまの信用を失うのでは?」
「私はね……みひろちゃん。最初から自分の居場所が与えられてたわけじゃないんだ。役に立たなければ殴られる、捨てられる、飢えて死ぬ。そういう世界で生き抜くためには、得意な事を伸ばすしかない。得意な事で自分の居場所を作り、守ってかなきゃならない。それがたまたま今回は、久右衛門さまの専属運転士だったってだけだよ」
何もしなければ、何もできなければ、とうに見限られていた。
オヤジに、白バイ隊員に、葉室教育機関に……。
こんな話……生粋のお嬢様であるみひろちゃんに分かるはずもないけど、言わずにはいられない。
酔ってるからか……それとも本当に、彼女の葉室家オーラにあてられたか。
「ではお祖父さまの専属運転士になったのはたまたまで、色仕掛けでお祖父さまをどうこうしようという気はない……という事で、よろしいですね?」
驚いて膝上に座る少女を見下ろすも、彼女は真剣な眼差しで私を見上げていた。
この子はこの
これが葉室家直系のご息女――こんな小さな子供まで、葉室財閥を守ろうとしているなんて。
「もちろんそんな事しないし、したくもない。そもそも君のお爺様は、私の事なんて気にも留めてないだろうけどね」
みひろちゃんは納得したのか、子供らしい笑顔を向けてくる。
「わかりました。この件は、何か起こるまで黙っておきますね」
「何かって?」
みひろちゃんは、答えの代わりに小さな手を胸に当てた。
「分かりません。ただ、すごく……このあたりが、もやもやってするんです」
「大丈夫? 食べすぎってわけじゃないよね?」
「ええ、そういう事ではなく……ああっ、お母さまぁ……」
みひろちゃんはふらふらと大人チームに近付いていき、依子さんに抱きついた。
「どうしたの? みひろ」
「お胸がね、少しきゅんってして、むずむずするの」
「やだ懐かしい。初恋よ、それ」
「マルティナさんは黙っててください」
依子さんは右手をみひろちゃんの胸にあて、心配そうに顔を覗きこむ。
「このへん?」
「ちがうかも? でもお母さまにくっついてると、治ってく気がする!」
さっきまでの、大人びたみひろちゃんはどこへやら。お母さんと一緒にいると、急に年相応の甘えんぼさんに見えてくる。
その変わり身っぷりに驚いてると、依子さんが私に話しかけてきた。
「すみません、食べ過ぎなのか、お腹痛くなっちゃったみたいで。ちょっとリーラちゃんと一緒に、お手洗いに連れて行きますね」
「あ、はい。またね、みひろちゃん」
「うん、ばいばい」
みひろちゃんは小さく手を振ると、起きてきたリーラちゃんとお母さんの間で両手を繋ぎ、詰所から出て行った。
帝王学を学ぶお嬢様も、お母さんと一緒の時は普通の女の子なんだな。
私はジュースのグラスを持って立ち上がると、初恋話で盛り上がる大人チームに混ざっていった。
* * *