車庫には黒艶が美しいベンツSクラス――要人護衛用特別仕様の送迎車が五台、停めてあった。
五台とも市販車と同じカラー・デザインになっているが中身は全く異なっており、ボディの至る所に特殊鋼板が仕込まれ、窓には最高品質の防弾ガラスが採用されている。
近藤さん曰く、どんな凄腕ヒットマンもターゲットがこの車両と分かった途端、狙撃での暗殺を諦め、爆弾による暗殺に切り替えるそうだ。
他にも派手なスポーツカーが二台停めてあったが、それらは葉室六郎太さまのコレクションとの事だった。若旦那さまが亡くなった事で乗る人がいなくなり、高齢の久右衛門さまもドライブには興味なし。今は近藤さんと斎藤さんが、調子維持のため月に一度、近所をドライブする程度だそうだ。
「じゃあ早速車で……そうだなぁ、都庁まで行ってみるか」
「はい」
私は鍵を受け取ると、ベンツ右側の運転席に座った。近藤さんは後ろではなく助手席に座る。
「基本はただのベンツだ。ただしボディの至る所に特殊鋼板が仕込んであるから、総重量は五倍あるけどな」
「それ、ただのベンツじゃないですって」
緊張しながらエンジンをかけ、慎重にアクセルを踏む。
十トンのベンツは思ったよりスムーズに発車し、ホッと胸を撫で下ろす。
「どうだ、重いか?」
「いえ、そこまでは。これ……車両重量に合わせて、エンジン出力も上げてるんですよね?」
「お、正解だ。タイヤもブレーキパッドもガンガン減るから、チェックと交換はこまめにな」
「これだけ重いと、普通のディーラーじゃタイヤ交換とかできませんよね?」
「一回頼もうとした事もあったけど、タイヤ換えるだけで数か月かかると言われ諦めた。だから今は、メンテは全部自分たちでやってる。井原も車の整備経験はあるんだよな?」
「分家にお仕えしてる時は、基本的なメンテナンスは全部自分でやってました。もっとも、普通のセダンですが……」
「それでいい。海外だと車に爆弾仕掛けるのが、要人暗殺の鉄板だからな。ディーラーに預けた車にこっそり爆弾を仕込んでおく……なんてのも十分あり得る。面倒だが、普段から自分たちでメンテしてればそういう心配せずに済む」
爆弾とか暗殺とか、平然と物騒な言葉を口にする先輩に、おそるおそる訊ねる。
「もしかして近藤さん……久右衛門さまの専属運転士をしてて、危ない目にあったりしました?」
「どれから聞きたい?」
「どれ、とは?」
「当たり屋、殺し屋、復讐者。女ストーカーに強盗、怪盗、パーツ泥。出資希望者や宝石セールス、恵まれないなんちゃらの寄付金無心。家を追い出された妾が、泣きながら俺に訴えかけてきた事もあったなぁ。久右衛門さまいないのに、俺に言われてもなぁって思ったよ」
指折り数える近藤さんに、笑っちゃいけないけど笑ってしまう。
久右衛門さまの専属運転士になるという事は、そういうトラブルが起きる事も必然と知り、冷静に対処する必要がある。予定とはちょっと違うけど、これはこれで葉室教育機関で学んだ体術格闘術が、役に立つ日も来るかもしれない。
「あと……カーナビはもちろん付いてるが、使うなよ。いつも行ってる会社や屋敷周辺の地図は、頭に叩き込んでおけ。ああ見えて久右衛門さまは、突発的にどっか寄ったりするから。いちいちカーナビで行先設定とかしてたら、時間がもったいない」
「寄り道ですか……意外ですね。いつも分単位のスケジュールをこなしてるのかと思ってました」
「そりゃ普段はないが、不意に隙間時間ができればコンビニ寄る事くらい、誰だってあるだろう?」
「それはそうかもしれませんね」
「他には……そうだなあ。分家で経験あるならわかってると思うが、運転士は基本、久右衛門さまに話しかけてはならない。聞かれた事だけ手短に答えればそれでいい。久右衛門さまにとって車内は、お一人で考え事ができる貴重な仕事場だ。運転士との雑談は、葉室財閥全体の損失に繋がると思っとけ」
「はい」
近藤さんは他にも、久右衛門さまの専属運転士としてどうあるべきか、滔々《とうとう》と語ってくれた。
微に入り細を
「近藤さんって、まだ三十代ですよね?」
「ああ」
「葉室財閥総帥の専属運転士ともなれば、運転手業界ではトップクラスですよね? それを自ら退職して、次は何をされるんですか?」
初めて会った先輩に少々立ち入った質問かなとも思ったけど、泣いても笑っても近藤さんの退職日は明日だ。聞ける事は今のうち、なんでも聞いておきたい。
どんな質問も即座に答えてくれた近藤さんだったが、この質問ばかりはそうもいかなかったようだ。しばらく黙ったまま、助手席の車窓を流れる景色に目を向けて……私を見る事なく、ぽつりぽつり話し始める。
「俺は岩手の、ド田舎出身でな。両親は中古車の修理・販売業を営んでる。この前親父が、入院したって連絡が来て……一人息子だからさ。母親が帰ってこい帰ってこいって、うるさいんだ」
「という事は、退職して稼業を継ぐと……」
「親父が四十半ばで脱サラして、新しく始めた商売だ。稼業と呼べるほど歴史も売上もあるわけじゃねぇ。吹けば飛ぶよな、どこにでもある田舎の車屋さ……。それでも俺は、親父の店の売上で大学まで行かせてもらったし、おふくろが作ってくれた飯で身体も大きくなった。二人がまだ生きてる内に、ちったぁ親孝行もしとくかあって……思っちまってな」
「そうだったんですね……」
「悪いな。なんか、つまらない話して。運転手派遣会社を起業するとか、海外セレブの専属運転士になるとか、もっとカッコいい事言えりゃあ良かったんだが」
「いえ。素敵な就職先だと思いますよ」
「ははっ……すまんな」
「何がです?」
「いや、気を遣わせてしまって」
「そんな事ありません。普通の人にはなかなかできない、覚悟ある決断だと思います」
「……ありがとな」
照れ臭かったのか、饒舌だった近藤さんは急に口数が少なくなり、私たちは静かに葉室家のお屋敷に戻っていった。
備品やロッカー等の引継ぎが全て終わると、運転課は本日早めの店じまいとし、詰所でささやかな送別会兼歓迎会が行われる事になった。
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