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5-03 聖庇 (アジール)

「藍海。おまえはスリとして、とんでもなく筋がいい」

「……え?」

「合気道の影響もあるんだろうね。手捌きや立ち振る舞いなんかを見てれば分かる。藍海のスリは、あたしやジルコと比べても遜色ないどころか、その上を行く神業だ。万智子が会わせたがらなかったのも納得だよ」

「でも……私じゃジルコから、コインをスリ取れないんでしょ?」

「なに、それは技術スキル経験キャリアは違うって話さ。いくら天賦の才ギフテッドでも、たった三日じゃジルコの十何年に勝てるわけがない。特にスリとしての甘さが目立つ、今のままじゃね」


 みひろがコインを奪われたあの日……横一文字に裂けたブラウスと、豊満な胸が頭をよぎる。ああいう事を平気でやれる人種が、スリになるのだろう。

 もし失敗したら、相手を傷つけてしまうかもしれない――そんな事考えてたら、切れるものも切れない。一瞬の躊躇いが勝負を分けるスリの世界で、その思考は致命的だ。

 人様を切り刻んでも、欲しいモノを手に入れる。スリとして当然持ってなきゃいけない欲求が、今の私にはない。

 それがエーちゃんの言う、甘さなんだろう。


「これはあたしの持論だが……」


 ようやく全ての料理を食べ終わったエーちゃんは、箸を置いて顔を上げた。


「できるスリってのは、自身の存在感を操作する。気付かれず近付いたり、相手の注意を他に逸らしたりしながら、視界外から盗み取る。藍海もその感覚は分かるだろう?」

「うん」


 駅前公園で、残業と称しスリを繰り返してた日々を思い出す。

 無防備な女子高生を演じれば、オジサンの視線はいくらでも操作できた。そうやって右手の存在を消し、相手の視界外からスリ取る。それが私のスタイルだ。


「その先にもう一つ、スリには最終奥義ってのがあってだね」

「最終奥義!?」


 その時、個室の扉がこんこんとノックされた。

 エーちゃんが「どうぞ」と声を掛けると、女性店員が入ってくる。


「お食事お済みでしたら、デザートをお持ち致します」

「ああ、よろしく。テーブルの皿は全部下げてもらって構わない」

「かしこまりました」


 店員さんが空いた食器に手を伸ばした瞬間、バチッと空気が固まった。


 なに……これ……。


 エーちゃんから発せられるドス黒いオーラが、個室全体に広がっている。

 その圧倒的存在感が、金縛りのように身体を、視界を、黒く蝕んでいく。

 冷や汗がだらだらと背中を伝い、喉がからからに乾く。

 それなのに身体はぴくりとも動かせず、ただ目の前が黒く塗りつぶされていく様を、黙って見守る事しかできない。

 音もなく、風もなく、声も出ない。

 恐怖と絶望感の浸食は止まらず、このまま意識を失ってしまうんじゃないかと思い始めた頃、黒のプレッシャーは忽然と消え失せた。

 気付くと視界は元に戻り、私は元の個室に座っていた。


 私同様、店員さんも額に汗を浮かべ呆気に取られていたが、ハッと我に返ったようにテーブルのお皿を片付け始めると、何事もなかったように去って行った。


「エーちゃん……今のって」


 冷や汗だらだらのまま訊くと、エーちゃんは白い機械をゴトッと、テーブルの上に置いた。

 え……なに、それ?

 突然の事に、全く頭が回らない。すると再びノックの音がした。


「す、すみません! 私、ハンディこちらに置きっぱなしに……ああっ、すみませんでした」


 さっきの店員さんが再び現れて、エーちゃんがテーブルに置いた機械を持ち帰る。

 ああ、そうだ。あれは店員さんが注文を受ける時に使う端末……って、え!?


「いいかい藍海。できるスリってのは、自身の存在感を操作できる」


 エーちゃんは冷めたお茶を一口啜り、さっきと同じセリフを口にする。


「スリってのは極限まで存在感を消してやるもんだが、逆もまた然り。自身の存在感を極限まで高める事で、周囲の人間はそのオーラに圧倒され、木偶でくと化す。そうなってしまえば、隙を突くだの手捌きだのは関係ない。呆然自失の人間からスるのは容易い」


 今度は、私のスマホがテーブルの上に置かれ、驚く。

 確かに……さっきみたいにわけわかんない状態になったら、何をスられても気付くはずがない。


「これがスリの最終奥義。あたしの師匠はこれを、聖庇アジールと呼んでいた……ジルコも知らない、あたしのとっておきさ」

「これ、私もできるようになったら――」

「ジルコからコインを奪う事も可能だろう」

「お祖母ちゃん、残り三日でこのアジールってヤツ、私に教えてくれるって事だよね!?」

「バカ言うな」

「えーっ!?」

「いくらギフテッドでも、たった三日でこの境地に辿り着けるわけないだろ……」

「じゃあなんで、見せてくれたのよ~!」


 エーちゃんは両手を組んで顎を乗せ、口角を上げた。


聖庇アジールは自身の存在感で相手を圧倒し、恐怖を植え付ける。その源泉は怒りでも暴力でも権威でも、なんでもいい。その人間が、その人生を賭けて培ってきた何かが、腹の底から沸き出てオーラとなる……ものは試しだ。とりあえずやってみな」


 私はふんっと、お腹に力を籠めてみる。


「どう?」

「どうと言われても……トイレ我慢してるのかな? としか」

「そんなぁ~! あと三日しかないってのに、そんな禍々しいオーラ、私出せないよ~!」

「だから言っただろ、人生経験がモノを言うって。レジェンド級のスポーツ選手や芸能人、社長なんかは、近くにいるだけで圧迫感があるだろう? オーラってのはああいうもんさ。藍海もせめて、あたしくらいの年齢になるか、あるいは……」


 そこで言葉を切って、エーちゃんは真剣な表情で考え込んだ。


「私もお婆ちゃんに変装すれば、いけるかな?」

「カッコだけ年食ったって、意味ないに決まってるだろ」

「だよねえ」


 それでもエーちゃんは、悪い顔して微笑んだ。


「だからこういうのは、適材適所にするべきなんだ」


* * *


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