「藍海。おまえはスリとして、とんでもなく筋がいい」
「……え?」
「合気道の影響もあるんだろうね。手捌きや立ち振る舞いなんかを見てれば分かる。藍海のスリは、あたしやジルコと比べても遜色ないどころか、その上を行く神業だ。万智子が会わせたがらなかったのも納得だよ」
「でも……私じゃジルコから、コインをスリ取れないんでしょ?」
「なに、それは
みひろがコインを奪われたあの日……横一文字に裂けたブラウスと、豊満な胸が頭をよぎる。ああいう事を平気でやれる人種が、スリになるのだろう。
もし失敗したら、相手を傷つけてしまうかもしれない――そんな事考えてたら、切れるものも切れない。一瞬の躊躇いが勝負を分けるスリの世界で、その思考は致命的だ。
人様を切り刻んでも、欲しいモノを手に入れる。スリとして当然持ってなきゃいけない欲求が、今の私にはない。
それがエーちゃんの言う、甘さなんだろう。
「これはあたしの持論だが……」
ようやく全ての料理を食べ終わったエーちゃんは、箸を置いて顔を上げた。
「できるスリってのは、自身の存在感を操作する。気付かれず近付いたり、相手の注意を他に逸らしたりしながら、視界外から盗み取る。藍海もその感覚は分かるだろう?」
「うん」
駅前公園で、残業と称しスリを繰り返してた日々を思い出す。
無防備な女子高生を演じれば、オジサンの視線はいくらでも操作できた。そうやって右手の存在を消し、相手の視界外からスリ取る。それが私のスタイルだ。
「その先にもう一つ、スリには最終奥義ってのがあってだね」
「最終奥義!?」
その時、個室の扉がこんこんとノックされた。
エーちゃんが「どうぞ」と声を掛けると、女性店員が入ってくる。
「お食事お済みでしたら、デザートをお持ち致します」
「ああ、よろしく。テーブルの皿は全部下げてもらって構わない」
「かしこまりました」
店員さんが空いた食器に手を伸ばした瞬間、バチッと空気が固まった。
なに……これ……。
エーちゃんから発せられるドス黒いオーラが、個室全体に広がっている。
その圧倒的存在感が、金縛りのように身体を、視界を、黒く蝕んでいく。
冷や汗がだらだらと背中を伝い、喉がからからに乾く。
それなのに身体はぴくりとも動かせず、ただ目の前が黒く塗りつぶされていく様を、黙って見守る事しかできない。
音もなく、風もなく、声も出ない。
恐怖と絶望感の浸食は止まらず、このまま意識を失ってしまうんじゃないかと思い始めた頃、黒のプレッシャーは忽然と消え失せた。
気付くと視界は元に戻り、私は元の個室に座っていた。
私同様、店員さんも額に汗を浮かべ呆気に取られていたが、ハッと我に返ったようにテーブルのお皿を片付け始めると、何事もなかったように去って行った。
「エーちゃん……今のって」
冷や汗だらだらのまま訊くと、エーちゃんは白い機械をゴトッと、テーブルの上に置いた。
え……なに、それ?
突然の事に、全く頭が回らない。すると再びノックの音がした。
「す、すみません! 私、ハンディこちらに置きっぱなしに……ああっ、すみませんでした」
さっきの店員さんが再び現れて、エーちゃんがテーブルに置いた機械を持ち帰る。
ああ、そうだ。あれは店員さんが注文を受ける時に使う端末……って、え!?
「いいかい藍海。できるスリってのは、自身の存在感を操作できる」
エーちゃんは冷めたお茶を一口啜り、さっきと同じセリフを口にする。
「スリってのは極限まで存在感を消してやるもんだが、逆もまた然り。自身の存在感を極限まで高める事で、周囲の人間はそのオーラに圧倒され、
今度は、私のスマホがテーブルの上に置かれ、驚く。
確かに……さっきみたいにわけわかんない状態になったら、何をスられても気付くはずがない。
「これがスリの最終奥義。あたしの師匠はこれを、
「これ、私もできるようになったら――」
「ジルコからコインを奪う事も可能だろう」
「お祖母ちゃん、残り三日でこのアジールってヤツ、私に教えてくれるって事だよね!?」
「バカ言うな」
「えーっ!?」
「いくらギフテッドでも、たった三日でこの境地に辿り着けるわけないだろ……」
「じゃあなんで、見せてくれたのよ~!」
エーちゃんは両手を組んで顎を乗せ、口角を上げた。
「
私はふんっと、お腹に力を籠めてみる。
「どう?」
「どうと言われても……トイレ我慢してるのかな? としか」
「そんなぁ~! あと三日しかないってのに、そんな禍々しいオーラ、私出せないよ~!」
「だから言っただろ、人生経験がモノを言うって。レジェンド級のスポーツ選手や芸能人、社長なんかは、近くにいるだけで圧迫感があるだろう? オーラってのはああいうもんさ。藍海もせめて、あたしくらいの年齢になるか、あるいは……」
そこで言葉を切って、エーちゃんは真剣な表情で考え込んだ。
「私もお婆ちゃんに変装すれば、いけるかな?」
「カッコだけ年食ったって、意味ないに決まってるだろ」
「だよねえ」
それでもエーちゃんは、悪い顔して微笑んだ。
「だからこういうのは、適材適所にするべきなんだ」
* * *