その日の最後に辿り着いたのは、都内の料亭だった。
祖母と孫娘。初めての家族水入らずの夕食は、絢爛豪華な懐石料理。普段なら喜んで美食を堪能するところだが、ここに来て精神的疲労がどっと来ちゃって、あまり箸が進まない。
そんな私を見て、エーちゃんは心配そうに話しかけてきた。
「疲れたかい?」
「そりゃーもー。だって今日一日で、二十回以上スってんだから……」
横浜駅から始まったスリツアーは特急停車駅の全てで行われ、結局都内にまで足を伸ばす事になった。主要駅のメインストリートは、どこも鉄道警備隊が駅構内の不審者に目を光らせていて、プレッシャーがハンパない。
そんな中、エーちゃんはスリのターゲットとスリ方を、容赦なく指定してくる。
慣れない
そうじゃなくても怪しいオッサンと女子高生が一緒にいるってだけで、周りから奇異の目を向けられる。だから同じ場所――エーちゃん曰く同じ
これじゃ精神的に疲れるのも仕方ないし、目の前のいくら
「エーちゃんが現役の頃って、こんな調子でバンバンスッてたの?」
「まさか。スリは基本一発勝負、薄利多売じゃリスクに見合わない。だからプロのスリは、金持ってそうなヤツしか狙わない」
「でも、今日エーちゃんに言われてスった財布……お金入ってないのばっかだったじゃん」
「今回は、三日後の決戦に向けた特訓だ。アガリより打席を稼がなくちゃね。多少突貫工事になっちまうのも仕方ない」
「三人同時にスってこいとか、全然多少じゃなかったんだけどっ!?」
蒲鉾にお箸ぶっ刺して泣き言を言う私に、エーちゃんは楽しそうに笑った。
「特訓は、色んなケースをこなしてナンボだ。おかげでだいぶ、爪斬りにも慣れてきたろ?」
「そりゃそうだけど……ホント、すごいよねコレ」
右手を頭上に掲げ、爪を照明に透かしてみる。使いまくったおかげで、もう刃がボロボロだ。
ネイルチップ型特殊カッター、通称『爪斬り』と呼ばれてるスリの秘密兵器。
最初は違和感がスリの邪魔になるかもと思って嫌だったけど、使いこなせるようになると、これほど便利な道具はないと分かった。
布やビニールはもちろん、革製品も難なく斬れる。ワニ革だけは別格で硬かったけど、エーちゃんに言われた通り親指で力を籠めればスパッと斬れた。相手に気付かれるくらい強く斬らなきゃならないから、わざとぶつかるみたいなフォローは必要だったけど。
爪斬りだけじゃなく、相手の財布を予想する観察眼も、今日だけで精度が格段にアップしたように思える。これもまた精神すり減るくらい集中しなきゃだから、めちゃめちゃ大変だけど。
それでも、たった一日エーちゃんの特訓を受けただけで、こうもレベルアップするなんて。
嬉しい反面……私が目指してるのはプロのスリ師じゃない。
「今ならジルコのグローブ切って、手の甲に貼り付いてるコインもスリ取れるかな?」
「ヤツ相手じゃ、難しいだろうね」
「ええっ? そうなの!?」
驚く私に、エーちゃんは平然と懐石料理を口に運びながら「そりゃそうさ」と返した。
「ジルコは、あたしが四年かけて鍛えたスリ師だよ。今日教えたワザなんざ、ヤツはとうの昔に会得してる。そのスリ師が、十年かけて己の技を磨き、非合法な組織で鍛え上げられ、
改めて言われると、ジルコの経歴に戦慄してしまう。
このまま特訓を続けていっても、一般人相手にスリが上手くなるだけで、ジルコには到底勝てないだろう。
だったら――。
「エーちゃんなら、ジルコからコイン、スリ取れる?」
「あたしに、矢面に立てって言ってんのかい?」
「あはは……ダメ?」
「はんっ! あたしをいくつだと思ってんだい。身体のあちこちガタ来てる
「でもエーちゃん、そんなヨボヨボには見えないよ」
「こうして掘りごたつに座ってるだけで、腰が痛くて横になりたい。それを我慢して座ってるのが、年寄りという生き物だ」
「あははっ、そんなんウソでしょ。ホントは愛弟子と、対決したくないからじゃない?」
図星か的外れか。エーちゃんは何も言わず、ただ目の前の懐石料理に箸を伸ばすだけ。
オジサンに扮したお祖母ちゃんの真意は、特殊ファンデーションの上からじゃ読み取れない。
「ねぇ、お祖母ちゃん……ジルコは十年前、お祖母ちゃんの元からいなくなったんでしょ? その時何があったの?」
「その話は、葉室のお嬢さまにも話したろ? ジルコは自分の力を過信し、あたしに勝負を挑んだ。こてんぱんに負けた腹いせに、年寄りのお守りをほっぽって逃げ出しただけだ」
「ジルコは、お祖母ちゃんにリベンジマッチするために、十年ぶりに戻って来たって事?」
「無敵を誇ったチャンピオンも、十年経てば衰える。そんなセコい思惑で帰って来たとは、思いたくないがね……」
「じゃあ十年経って大人になった、ジルコの恩返し?」
「ふはははっ、まぁ少なくとも、恩義を感じてどうこうの類じゃないだろうて」
まるで他人事みたいに笑うと、エーちゃんはゆっくりちまちま、食事を続ける。
ひとつひとつが少量で出てくる懐石料理は、『合気庵』で出してるおつまみと全然違う。上品で、雅で、小食な女の人でも色んな味が楽しめる。
長年男性に変装してきたお祖母ちゃんも、食の好みまで変えられない――そう思い至ると、この元気なオジサンはやっぱり自分の祖母、ママのママだと実感する。
すると今度は、逆に不安になってくる。
エーちゃんは、ママみたいに突然どこかにいなくなったりしないだろうか。
ある日知らない車が迎えに来て、どこか遠くにお祖母ちゃんを連れていってしまう――そんな妄想してる私を、エーちゃんはじーっと見つめてきた。