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5-01 師事

 横浜駅中央改札口を出てすぐの、西口東口を結ぶ駅構内中央通路。

 ひっきりなしに人が行き交う大通りの支柱に、薄汚いオジサンが一人佇んでいた。

 くすんだカーキのブルゾンと、ほつれが目に付くぶかぶかパンツ。頭にはカーキのニット帽を被っていて、どっからどう見ても野暮ったい。場外馬券場とかでよく見かける、量産型なフツーのオジサン。

 制服姿の私が近づくと、オジサンは笑顔のままいきなり毒舌を吐く。


「まったく。この寒い中、年寄りを何分も待たせるんじゃないよ。よっぽど腕に自信のあるお弟子さんのようだね」

「ごめんねエーちゃん。バイトの早上がりって、なかなか時間通りいかなくて」

「いいか藍海、これだけは覚えとけ。俺に限らず誰かに何かを教わるって時は、相手に敬意を払わなきゃダメだ。敬意があるなら無礼はなくなる。礼儀ってのは、どんなに時代が変わっても決して忘れちゃならない」


 ああ……オジサン特有の、若者への説教が始まってしまった。中身、お祖母ちゃんなのに。

 しかも、これからスリを伝授しようとは思えない正論ロジハラで。


「バイトを時間通り抜けれそうにないなら、店主に帰る時間を三十分早く伝えておけば済む話だろう? そういう事に思い至らない時点で、お前は俺との約束を――」

「ごめんなさいっ! これからは絶対遅刻しませんっ!」


 私は勢いよく頭を下げた。


「はんっ……まぁ時間がもったいねえ。遅刻した分、キリキリ働いてもらおーじゃねーか」


 オジサンのボヤキは、とりあえず謝ってしまえば流してくれる。

 これも『合気庵』のバイトで身に付いたスキル。中身、お祖母ちゃんだけど。

 エーちゃんは大通りを行き来する通行人を見回すと、呟くように指示を出す。


「最初は、男性用ビジネスバッグ」

「はい」


 右手の先端を爪で引っ掻き五本指のシールを剥がすと、大通りに目を向ける。

 広角レンズのように、行き交う人々を焦点を持たない視点で捉え、探していく。

 いた。

 三十代半ば、背広姿のサラリーマン。右手に黒いブリーフケース。ジャケットも、お尻のポケットも膨らんでない。財布は鞄の中で間違いない。

 私は駅構内のコンビニに向かって歩きながら、目の端でターゲットの鞄を観察していく。

 素材は、牛革か合皮。トップにファスナーのスライダーが二つ集まってて、アレを開けてスるのは時間がかかる。

 鞄の表面にポケットがない事から、中に貴重品を入れる内ポケットがあるはずだ。革のヨレ具合を見るに、表面側に内ポケットが一つ……その中に、二つ折りの財布が入っている。


 サラリーマンと交差する、その瞬間――。


 私は、鞄の上部を中指の爪斬りネイルカッターでスパッと切った。即席で作ったポケットに右手を差し込むと、予想と違って長財布があった。ヤバ……この大きさじゃ引っかかっちゃう!

 咄嗟に、差し入れた右手を手首側に翻し、鞄の切り口を数センチ広げる。そのまま幅広の財布を掴んでスリ取った。

 でも、どうしよう……長財布じゃポケット入んないし。片手じゃお札も抜き取れない。

 財布本体を戻すのは諦めて、制服ブレザーの腋下に長財布を挟んで隠し、そのままコンビニに入っていく。

 人目を盗んで自分のバッグに長財布をしまうと、緑茶だけ買ってエーちゃんの元に戻ってきた。


「あーあー、危なっかしくって見てらんねぇ」


 緑茶のペットボトルキャップを回しながら、エーちゃんは溜息と同時に苦言を漏らした。


「慣れないのはしょうがないでしょ。実際のスリでカバン切ったの、これが初めてなんだから」


 売り物にならないビートンバッグなら散々切らせてもらったけど、実戦で切るとなると、やっぱり勝手が違ってくる。

 鞄の素材、ポケットの配置、財布の形状……スリを成立させるには、複雑に絡み合う様々な要素を正確に読み取り、どうやってスり取るか一瞬で見極めなければならない。


「切った鞄に財布を戻そうとするなんざ、スリの風上にもおけないね」

「……なんで分かったの?」

「分かるさ。二つ折りと長財布の、区別が付かなかったんだろう? 内側から切り口を広げたところまでは良かったが、その後は無駄に時間を食いすぎだ。財布を腋の下に挟むなんて、そんな状態で鉄道警備隊に職質されたら、一発でお縄だよ」

「じゃあどうすれば良かったのよ」

「俺なら、長財布を切って札だけ戴く。財布の処理をしなくていいし、何よりスった後隠しやすい。合理的だろ?」


 エーちゃんはそう言って、ポケットから革の布地に包まれた財布を取り出した。

 ハッと後ろを振り向くと、通り過ぎていったお姉さんのバッグ――底面の角が、鮮やかに切り取られている。

 お姉さんはバッグの異変に全然気づかず、人混みの中に消えていった。


「小さい財布なら、こうしてバッグの革ごと拝借するのも手だ」

「そんな……あのバッグなら、上からでもスれるのに」


 エーちゃんはじりじりっとにじり寄ると、指先の刃で私の鼻を指した。


「いいか藍海。俺たちが犯してんのは、窃盗罪と器物損壊罪。合わせて十三年以下の懲役もしくは八十万以下の罰金だ。財布を戻してやっても、バッグを傷つけずにスってやっても、常習性が認められるだけで情状酌量の余地はない。花の十代二十代をシャバで過ごしたいなら、スった相手の事を考えるんじゃなく、スッても捕まらない事だけ考えな」


 ドキッと大きく胸が鳴る。やっぱりそこ、見抜かれちゃうか……。

 これまでの私は、相手がスリにあった事すら気付かれないよう、スっていた。

 それは、自分が捕まらないためだけじゃない。スった相手に、これ以上迷惑をかけたくなかったから。

 現金だけスって財布を戻したいのも、免許証や各種カードの再発行に手間を取らせたくないから。

 そうしてキレイにスリ取る事で、罪悪感や後悔を軽減させたかったのだ。


 でも――私は右手爪先に光る、鈍色の爪斬りネイルカッターをまじまじと見る。

 こんな危険な刃物を付けて、そんな甘っちょろい事言ってられない。

 相手は目的のために手段を選ばない、スリの兄弟子ジルコ。

 スリからスリをするために、こうして特訓までしてもらってるんだから。


「さ、次の河岸かしに行くよ」


 そんな私の胸の内を知ってか知らずか、エーちゃんはさっさと駅の改札に行ってしまう。

 同じ場所でスリを重ねるのはご法度らしい。これも、同じ駅前公園でしかスってなかった私には、目から鱗のライフ・ハック。やっぱりプロには適わない。

 昭和のスリ師は、逃げ足と言ってもいいレベルで、人混みを見事にすり抜けていく。

 その小さな背中を見失わないよう、令和のスリ師は懸命にその後を追っていった。


* * *


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