乾いた音が耳に届けど、夏美さんが頬を抑えて倒れていても、にわかには信じ難い。
誰よりも優しく、温厚で、冷静沈着なみひろが……平手打ちを放ったのだから。
「私の事をどうなじってもらっても構いませんが……藍海さんを泥棒呼ばわりする事だけは、断じて許しません!」
紫目に浮かぶ涙もそのまま、みひろは夏美さんの胸倉を掴む。
「神様からスリの才能をもらったとして、あなたは人のお金をスりますか? これは神様がくれた幸運だからと言い訳し、平気で人からモノを奪い取れるんですか!?」
みひろの迫力に言葉を失い、夏美さんは顔をそむけた。
「私たち
みひろは夏美さんの顎を掴み、強引に前を向かせる。
金貨の右目をこれでもかと近づけ、食い入るように睨みつける。
「藍海さんの右手は外せない。そのために、彼女が掲げてるルールをご存じですか? 私利私欲に走らないために、
夏美さんの瞳に、涙が溢れてくる。
私はみひろに駆け寄ると、開いた背中に抱きついた。
「もういいよ。ありがと、みひろ」
「藍海さん……」
みひろは手を離した。床に座って泣きじゃくる夏美さんに、秋人さんが駆け寄る。
夏美さんは顔を上げると、掠れた声を絞り出した。
「藍海ちゃん……酷い事言って、ごめんなさい」
「……うん」
「コインは、あなたたちに預けます」
みひろと顔を見合わせる。それだけで以心伝心、ほっと胸を撫で下ろす。
「ありがとね、夏美さん」
初めてのコイン回収は紆余曲折あったけど、これにてミッション・コンプリート!
……と思っていた矢先、伊織さんの叫び声が部屋にこだまする。
「みひろ様!」
勢いよく部屋の扉が開け放たれると、目出し帽を被った黒ずくめの男が数人入ってくる。
「藍海さん!」
男はみひろに気が付くと、拳銃を前に突き出す……が、私はそれを咄嗟にスリ取った。
ついでに小手返しで手首を極め相手の自由を奪うと、次々やってくる目出し帽の男達に投げつける。
でもその時にはもう、秋人さんと夏美さんは捕まって、部屋の外に連れ出されていた。
「藍海さんこちらに! 早く!」
背後から伊織さんの声が聞こえると同時に、乾いた銃声が部屋を揺さぶる。
私は走って逃げると横倒しになった長机の陰に、頭から飛び込んだ。
先に逃げてたみひろが、勢いよく滑ってきた私の手を取り、引き寄せてくれる。それと同時に、机に銃弾の雨が浴びせられた。
「あいつら! 夏美さんと秋人さんを連れてっちゃった!」
「彼らはアマルガムの戦闘員です。どうやって葉室警備の包囲網を突破して……」
リロードで机の陰に引っ込むと、伊織さんは悔しそうに呟いた。
その間にバタバタと連中が逃げてく音がして、すぐに葉室警備隊が駆けつける。
「申し訳ありません、井ノ原警部。アマルガムを手引きした内通者がいたようで、包囲網を突破されてしまいました!」
「内通者?」
「岡島春彦です。トラックで建物に横付けすると、荷台からアマルガムの構成員が出てきました。ヤツは裏で、アマルガムと繋がっていたんです!」
みひろは青い顔して警備員をせかす。
「アマルガムと裏取引しようとして、騙されたのでしょう。急いで彼らを追って下さい。なんとしても夏美さんたちを取り返して下さい!」
「はっ!」
みひろは、私と伊織さんに振り返る。
「私たちも急ぎましょう。夏美さんはコインを持ってません……もしそれがアマルガムの知るところとなれば、殺されても不思議ではありません!」
* * *
走って建物から外に出ると、サーキットは蜂の巣をつついたような大混乱に陥っていた。
逃げ惑う人々、怒号とタイヤの軋む音……何がどうなってるのかさっぱり分からない。
「複数のトラックが、同時多発的に暴走を始めたようです。その混乱に乗じて逃げられました!」
報告に来た警備員の後ろから、複数の警備員に運ばれてきたオジサンが、アスファルトに投げ捨てられた。
「この男が、誘拐犯のトラックから落ちてきました」
連れて来られたのは、ぼろぼろの服で顔面もところどころ腫れている、岡島家の父・春彦さんだった。
「すまない……私が浅はかだった。夏美と秋人を回収したら、私だけトラックから蹴落とされてしまった……」
「やつらはどこへ?」
「ジムカーナ駐車場方面に走って行った。どうか二人を助けてくれ……頼む! この通りだ」
土下座する春彦さん。おそらく好条件を餌にアマルガムに協力し騙されたのだろう。
だが今は、そんな事追求している場合じゃない。
「藍海さん! 後ろに乗って下さい!」
振り返ると、伊織さんがレースに使ったバイク――トリプルアールに乗って横付けしてきた。みひろが私の背中を押す。
「コインを交渉材料に使ってもらって構いません。とにかく、夏美さんたちの安全を最優先に!」
「分かった!」
慌ててタンデムシートに跨ると、伊織さんの腰に手を回す。
バイクはタイヤを鳴らして、とんでもないスピードで飛び出していった。
* * *