「思えばおかしいと思ったんです。本日のレース、夏美さんはスタート時にバイザーをしっかり閉じていませんでした。そのまま直線を走りきり、最初のカーブをクリアしたところで、ようやくバイザーをきっちり閉じた。うっかりミスかもと思いましたが、それだったら最初の直線で風に気付き、すぐにバイザーを閉めるはずです。どうして夏美さんは、カーブを通り過ぎるまでバイザーを開けたままにしていたのでしょう?」
「そんなの……大雑把な夏美の事だから、気付いてもそのまま放置してただけだ。なぁ?」
秋人さんが、夏美さんの顔を見て同意を促すも――、
「違います」
みひろはきっぱり否定する。
「バイクの冷却システムには、空冷式というものがあるらしいですね。前方から受ける風でエンジンを冷やす、シンプル故に特別な動力もいらない冷却方法……。秋人さんはこれを、ヘルメットに応用したのです」
「……」
「ヘルメット内部に適度な空間を作っておき、バイザーの隙間から入る向かい風が、メット内部をぐるぐる循環するようにした。すると耳近くに仕込んでおいた台座が風力で回転し、ターンテーブルに嵌めこまれたレコードのように、台座のコインもくるくる回る。一定の回転に達したところで、コインは嵌めてあった爪から飛び出し、すぐそこにあるコレクタの耳たぶに貼り付く」
「だから夏美さんは、スタート直後にバイザーを少しだけ開けておき、コインが張り付いた後――二番目のカーブに差し掛かったところで、バイザーを閉めたのです」
あの時、何気なく言った私の一言。
『そうそう。そういうのに気を遣ってるのも美人の証だよね。ヘルメット被ってても可愛いし、取ったらもっと可愛い。そんな女の子、そうそういないと思うもん』
それだけで、みひろはヘルメット・トリックを見破った。
その場でみひろの推理を聞いた私は、歓喜に湧くチーム岡島の輪に入り、夏美さんに近付いた。
「おめでとう」と言って抱きつく私を、彼女は左手でヘルメットを抱えたまま受け止めてくれた。
これだけ密着すれば、後は簡単。
私はヘルメット内部に右手を飛ばし、爪で固定された台座のコインをスリ取った。スリ取る際に台座がくるんと回転した事も、指先の感触から伝わった。
全ては、みひろの推理通り。
私はただ彼女の言う通り、そこにあったコインをスっただけ。
「しかたないじゃない……」
重苦しい沈黙を破ったのは、それまでほとんど喋らなかった夏美さんだった。
泣きながら、両手手のひらをじっと見つめ、わなわなと肩を震わせている。
「コインを着けて走るとね……マシンの状態が手に取るように分かるの。路面から伝わる振動と、浮き沈みするサスペンション。エンジンルームの爆発音や、循環するオイルの粘度。軋むフレーム、擦れるブレーキ、マフラーの排気音……。限界だと思った自分の走りが、まだまだ限界じゃないと気付くと、私は誰よりも速く走る事ができた。まるでバイクが自分の手足になったみたいに、無意識で全てをコントロールできた」
夏美さんは立ち上がった。
その目はみひろを、いや、背後に聳える葉室財閥を見据えている。
「私にとってそのコインは、神様がくれた最後のチャンス。あなただってスポンサーになるんなら、私が活躍した方がいいでしょう? お願い、コインを返して。そうすればJ-GP3だろうがMOTO GPだろうが、全部優勝してみせる。新しいチームなんていらない。コインと家族が一緒なら、ここにいる全員の夢を叶えてあげられる」
夏美さんらしからぬ、自信と熱意溢れる演説。
コインは人を狂わせる……エーちゃんが言ったセリフも、今なら素直にうなずける。
だからこそ、みひろの冷静な物言いが、冷や水のように浴びせられる。
「コインを使ってレースに勝つなんて、あなたと同じく本気でレースに挑戦してるライバルチームに、失礼だとは思いませんか?」
「そりゃ思うよ!? でも、そもそもスタートラインが違うんだから仕方ないじゃない! 私は町のバイク屋の娘で、ここまで来るのだって相当な時間とお金を費やしてる。でも他のレーサーは親がレーサーだったり家が裕福だったり……お金持ちの家に生まれるのだって、運でしょう? だったら私も、運で手に入れたコインを使ったっていいじゃない!」
「夏美さん。あなたにお願いしたいのは、コインを私たちに預けてもらう事です。その見返りとして、葉室財閥はあなたと秋人さんのレース挑戦を全面的にバックアップします」
「断ったら?」
「あらゆる手段・方法を選択肢に含め、再度お願いするだけです」
秋人さんは肩を落として溜息を吐くと、夏美さんに振り返った。
「夏美……今はMOTO GPでも、無線システムの導入が検討されている。当然市販のバイクインカムと同じようにメット内部にスピーカーを設置するし、ヘルメットもレース前のチェック対象に入るだろう」
「お兄ちゃん……」
「そうなったらもう、ヘルメット・トリックは使えない。ここでコインを渡して、資金援助してもらった方がいいはずだ……。あんたも! 俺たちを告発しようってわけじゃないんだろう!?」
みひろはゆっくり頷いた。
「異能のコインの使い途を、法で裁く事はできません。私たちの目的はコインの回収であって、あなた方に罪を償わせる事ではありません」
「聞いただろ、夏美。これからは金の心配をしなくていい。また一から、一緒に挑戦していけばいいじゃないか」
ぺたんと床にお尻を付けたまま呆然とする妹に、秋人さんは手を伸ばす。
その手を取って立ち上がろうとするも――パチンと、妹は兄の手をはたき拒絶する。
「やっぱりイヤ! せっかく手に入れたあの感覚……絶対に失いたくないっ!」
キッとみひろを睨みつけ、夏美さんが立ち上がる。
「お嬢様だかなんだか知らないけど、あなただって家柄とコインの力に頼ってるじゃない! 藍海ちゃんもそう! 友達のフリして抱き着いて、コインを盗むなんて……そんなのスリのする事じゃん。見損なったよ、この泥棒!」
泥棒。
分かってる。分かってるけど……その言葉が鋭利なナイフとなって、私の胸に深く突き刺さる。
でも仕方ない。夏美さんの言ってる事は間違ってない。
だって私にできる事なんて、それしか――!?
パンッ!