「おめでとうございます、夏美さん、秋人さん。お二人の信頼関係があってこそ、あのような素晴らしい走りができるわけですね」
サーキット傍の管理局に用意された別室で、みひろは二人を褒め称えた。
しかし夏美さんと秋人さんは引きつった笑顔を浮かべるだけで、心ここにあらずといった様子だ。
「ありがとうございます。あの、それでお兄ちゃんは……」
「はい。私に二言はございません。夏美さんと一緒に秋人さんにも、新しく結成されたチームに加入頂きたいと思います!」
「ありがとうございます。じゃあ私たちこれで……」
「え? もう行ってしまわれるんですか?」
素っ頓狂な声を出すみひろに、秋人さんは焦れたような、ぶっきらぼうな声を上げる。
「マシンの整備や片付けが残ってる。早く戻って作業がしたい」
「それでしたら、お気になさらずとも結構です。葉室工業の者が、パドックの後片付けをしておりますので」
「なっ……勝手な事するなっ!」
憤慨し部屋を出ていこうとする秋人さんだったが、伊織さんが黙って扉の前に立ち、退出を許さない。
「どけっ! 急いでるんだ!」
「レースが終わってから、ずっと何か探しものをしてたみたいですが……」
みひろの声を背中で受けて、秋人さんの肩がびくっと跳ねる。
「お探しモノはこれで、お間違いないでしょうか?」
秋人さんが後ろを振り返ると同時に、私はポケットの中のコインを取り出した。
表面は、フランスを擬人化した女神マリアンヌ。
裏面は――、指揮棒を口に咥えたべートーヴェン。聴覚のコイン<タクトシュトック>を。
「藍海ちゃん……どうして?」
「な、なんだ。あんたたちが拾ってくれたのか。それは俺の大事なものなんだ。返してくれ」
動揺を隠しきれない兄妹に、みひろは静かな声で語り始める。
「これは
「ううっ……」
「夏美っ!」
夏美さんは真っ青になって、その場にしゃがみこんだ。
すかさず秋人さんが駆け寄って、震える肩を抱き寄せる。
「このコインを指で弾くとその持ち主――
「知るかっ! そのコインは俺が拾ったんだ。お守り代わりに持ってただけだ!」
私は二人の前に歩み寄ると、目の前でコインを弾いてみせた。
コインは上空に飛び上がると、急に方向転換して、夏美さんの左耳へ向かっていく。
ぶつかったと思った瞬間、コインは真ん中からぐにゃりと曲がり、左の耳たぶを包みこんだ。
まるで黄金のイヤーカフを付けてるみたいに。
「夏美っ……!」
秋人さんが妹を立たせようとするも、私はすぐに右手を飛ばし、彼女のコインをスリ取った。
瞬間移動したみたいに私の指に収まるコインを見て、二人は呆気に取られている。
「藍海さんの前では、コインを隠す事も持ち去る事もできません」
みひろの説明を聞いて……岡島兄妹は、まるで幽霊でも見たかのような顔で私を見つめる。
その驚愕と恐怖の視線に、罪悪感が頭をもたげる。
考えてみれば……こうして人にバレてもいい状況で、スリを働いたのは初めてだ。
スられてしまう恐怖を前にすると、人はこうも怯えるものなのね……。
神様からもらった
姑息で、卑怯で、汚らわしい右手。
そう思うと、急に自分が邪悪な犯罪者になったように思ってしまう。
「くそっ。あんたがコインをスったってわけか……でも、だからなんだっつーんだよ! コインが勝手に夏美の耳に飛びついてきたんだ。俺たちが盗んだわけじゃねぇ」
「その通りです。しかし、コインがもたらす異能に気付いたあなた達は、その力を使って大分ロードレースで優勝した。それはアンフェアなやり方だったと思いませんか?」
「異能? なんの事だいそりゃ」
ここまできて、スッとぼける秋人さん。
みひろは無言で立ち上がり彼の前まで歩み寄ると、黒眼帯をズラし右目を見せた。
コインの瞳にたじろぐ秋人さんの胸を指でつつき、恥ずかしそうに告げる。
「私の異能は透視です。ここに小さいほくろが二つ、ありますよね?」
バッとみひろの手をはたくと、秋人さんは夏美さんを抱きかかえたまま後ずさる。
「ふんっ……だからなんだってんだ。夏美が異能を使ってレースに勝ったなんて証拠、どこにもないだろ!? 今日だって、夏美はコインを付けてない。こんなイヤリングみたいなもん付けてたら、レースじゃ失格になっちまうからなっ!」
虚勢を張る兄に肩を抱かれたまま、夏美さんは立ち上がる事すらできずにいた。
ただ床に座って、焦点の合わない目で二人のやり取りを聞いている。
「その通りです。ライダーは、サーキットに私物を持ち込んではならない。レース直前のプレスインタビューやライダー同士の交流の場では、ヘルメットも被ってない。いよいよレースが始まる段になってようやくメットを被るけど、そこでコイントスなんてしようものなら、私物を持ち込んだとして失格になってしまう。衆人環視のスタートグリッドで、隠れてコインを身に付ける方法なんてない……」
「そうさ。大分のレースで優勝した時の映像にも、夏美がパドックに戻ってきてヘルメットを脱ぐ様子が映ってる。金のイヤリングなんて付けてなかった事は、一目瞭然だ」
秋人さんは自信満々言い放つも、みひろは黒眼帯を付け直し、断言する。
「そのトリックは簡単でした。こうすればいいのです」