「ぐはあっ!」
蕎麦処『合気庵』の店先で、中年オヤジが空中を一回転。腰から地面に落ちるところを、お情けで尻まで回してやった。
地面に尻餅を付いてきょとんとするオヤジを、作務衣の腰に両手を付いて覗き込む。
「お客様ぁ~あ? 来るお店を間違えていませんか? ウチの店員おさわり禁止なんですけど?」
「なっ……違う! 俺は注文したくて、肩を叩いて呼び止めただけで……」
「じゃあどうして! 私が通りがかってもスルーして、みひろちゃんばっか何度も何度もタッチするのかな!?」
「そっ、それは~……」
「帰れ! 二度と来るなっ!」
「ひぃっ! す、すみませんでした~!」
見ているこっちが恥ずかしくなるくらい、オジサンは大慌てで逃げ出した。通りすがりのヤジ馬たちが非難の目を向けてくるけど、知った事か。
無言の抗議を無視して店の入口まで戻ると、固まってるみひろの手を取って従業員控室に入っていく。ホールからは、お客さんに平謝りしてる大将の声が聞こえた。
「あの……藍海さん、ごめんなさい。あと、ありがとうございました」
消え入りそうな声で謝ると、みひろは深々頭を下げた。
みひろは別に悪くない。悪くないけど……あなたなら、いくらでもなんとかできるでしょう? と思ってしまう。
「みひろちゃんもさぁ、ああいうオジサンは遠慮なくぶちのめしちゃっていいよ。お客さんはセクハラした時点で客じゃない。大将だって分かってくれるよ」
酔客は理性のレベルが一段下がる。だから私も護身術発動レベルを一段下げて防衛してるわけだが……そうなると見るからに大人しそうなみひろに、客のセクハラは集中する。作務衣越しでも分かる大きな胸も、オヤジホイホイに一役買っているのだろう。
セクハラには抵抗すべきだし、抵抗しないなら最初からそういうお店で働けばいい。
「私はその……肩くらいなら我慢できなくもないですし。藍海さんが代わりに怒ってくれますし……」
頭の中でかちんと、なんかの音が鳴った。
「あのさ、なんか勘違いしてない? 私が約束したのはコインの回収であって、お嬢様のお守りじゃないよ?」
「いえ、決してそのように思ってるわけではなく」
「じゃあなんなのよ!?」
思わず語尾を荒げてしまうと、扉が開いて大将が顔を出す。
「おいおい。せっかくお客さんに謝ってきたとこなんだから大声出すな。スマイルスマイル」
「すみません」
みひろは大将に一礼すると、いつもの愛らしい笑顔でほほえんだ。
私はと言うと……口角をピクピク引きつらせながら、ブサイク面を晒すだけ。
「みひろちゃんは先にホールに戻ってくれ。藍海は休憩だ。まかないでも食べて気分転換してからにしろ」
「じゃあ、満漢全席!」
「蕎麦屋だっつってんだろ! ちくわ揚げ付けてやるから、ざるそばで我慢しろ」
「そこは海老天くらい付けても、罰は当たらないんじゃないかな!?」
交渉の末ゲットしたかき揚げで蕎麦をすする私は、厨房の暖簾越し、きびきび動き回るみひろを目で追っていた。
ウチに引っ越してきて二週間。みひろはすっかり私と同じ生活に馴染んでいた。
美人で優しく人当たりも良いみひろは、たまに飛び出すお嬢様キャラもウケて、クラスの人気者になっている。
蕎麦屋の仕事も手際よく、常連さんからも好かれて、今や合気庵の看板娘はみひろの方になるだろう。
私はせいぜい、陰から姫をお守りするくノ
それが嫌ってわけじゃない。みひろが私をメイド扱いしてるとも思わない。
ただ……誰にでも優しいみひろを見ていると、いかに自分が気分屋で自分勝手な女なのかがよく分かり……背中にずしんと自己嫌悪が圧し掛かる。
「まったく……愛されキャラだよなぁ」
「みひろちゃんか?」
隣で調理していた大将が、私の一人言に反応した。
「そ。優しいし可愛いしおっぱい大きいし。頭が回って明るくて仕事も真面目、愛想もいい。おまけに少々のボディタッチにも寛容なわけだから、人気が出るのも当たり前だよね」
「なんだ。看板娘を取られて悔しいのか?」
「そういうんじゃないわよ。あの子ぽやっと見えて学校の体育でも大活躍なの。どうやら武道も一通りやってたみたいで……なのに酔っ払いがベタベタ触ってきても嫌な顔一つしない。ぶちのめせとまでは言わないけど、文句の一つも言ってやればいいのに」
「さっき『ぶちのめしちゃっていいよ』って言ってなかったか?」
「それは言葉の綾」
「まぁ、断れない性格なんだろ。俺だって藍海のイヤはよく聞くが、みひろちゃんのイヤは聞いた事がない」
「そうは言っても酔っ払いはすぐ調子に乗るからさ。軽いちょっかいのうちに拒絶しといた方がいいと思うんだよね」
「どっちがいいと思うかは、人それぞれだ。みひろちゃんみたいな甘いバニラアイスが好きなヤツもいるし、藍海みたいにちょっと苦味走った抹茶アイスが好きなヤツもいる」
「私、そんな苦々しい顔で接客してないよね!?」
「ははは。さっきはちょっと、してたかな」
そう言われてしまっては、黙って唇を尖らせるしかない。
「俺が好きな蕎麦屋ってのはさ、その日の気分で色んな料理が楽しめる、幅がある店だ。蕎麦ってのはガッツリ海老天で喰いたい日もあれば、さっぱりなめこおろしで喰いたい日もある。どっちがいい悪いじゃない。どっちもあるってのがいいんだ」
そう言って大将は、私の前に抹茶アイスの皿を置いた。
「え、なにコレ? 特別サービス?」
「三番テーブルだ、とっとと持っていけ」
「もう休憩時間、終わってたのっ!?」
仕方なく抹茶アイスを三番テーブルに持っていくと、相変わらずみひろが客に捕まり話し込んでいた。
しゃーない。苦み走った大人の合気道をみせてやるかと近寄っていくと……そこには見知った顔が座っていた。
「こんばんは、藍海さん」
「伊織さん!? 来てくれたのは嬉しいけど、なんでアイスだけ注文?」
「すみません、今夜はまだ仕事が残ってまして。二枚目について、ですが」
「え?」
「そう……」
みひろはふーっと息を吐いた。バイトでは見せた事がない、憂いた横顔。
その顔を見て私もようやく理解した。
二枚目――つまり、みひろのプロビデンスアイに続く二枚目のコインを持つ
「アルバイトが終わる頃に、車でお迎えにあがります。家には帰らず、そのままお店でお待ち下さい」
三口ほどで抹茶アイスを食べ終わった伊織さんは、会計もそこそこに忙しなく店を出ていった。
「藍海さん」
「うん」
みひろの真剣な眼差しを受け、胸が高鳴る。いよいよだ。
ただ待つだけの私はもうおしまい。
コインをこの手でスる事で、私からママを探しに行く。
その日はその事ばかり考えてしまい、どこか上の空でバイトする羽目になってしまった。
* * *