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2-09 月光と紫目

「ご迷惑をおかけしました。どうやら湯あたりしてしまったみたいです」


 二階から下りてきた伊織さんは、リビングで待っていた私に深々と頭を下げた。


「ごめんなさい。あんなになるまで気づかなくて」

「気にしないでください。疲れてるのに長時間お風呂ではしゃぎ過ぎた、みひろ様のせいです。水分はしっかり摂ってもらいましたので、明日の朝には元気になってると思います」


 伊織さんはキッチンの冷蔵庫から缶ビールを取り出し、プルタブを開けてぐいっと一杯やり始める。

 ナチュラルに飲み始める彼女に、思わず笑ってしまう。


「あ、すみません。未成年の前で」

「いえ全然。バイトでヒドイ酔っ払いばかり見てますから。女の人が飲んでる姿は新鮮っていうか……。それにみひろちゃんが寝た後だけが、伊織さんのプライベート時間なんですよね? 気にしないで下さい」

「そう言って頂けると助かります。藍海さんも、何か飲まれますか?」

「じゃあ炭酸水を」

「はい」


 ビールとソーダで乾杯すると、パジャマ姿の伊織さんはソファーに座り、豪快にビールを喉に流し込んだ。


「藍海さんには感謝しています。突然面倒事を持ち込んだどころか、こうして家にまで押しかけたのに、快く受け入れて頂いて」

「そりゃ最初は驚いたけど……私も元々、親子三人で暮らしてたもんですから。あの頃みたいに家の中が明るくなって、ちょっと嬉しいかもです」

「それは良かったです。私もみひろ様も、葉室家以外で寝泊りするのは久しぶりで、ついついテンションが上がっている事も否めません」

「あはは……だから勢い余って、こんなにリフォームしちゃったんですね。でも……こんなのんびりしてていいのかな? その、コインをゲットしなきゃなんないんだし」

「現在は探索班が、コレクタ候補の情報を精査している状況です。回収班は待機の命令が出てますので、むしろ今のうちに、お互いの事をよく知っておいた方がいいでしょう」

「じゃあ伊織さんの事について、訊いてもいい? どういう経緯でみひろちゃんの執事?助手になったの?」

「そうですね……私がみひろ様の専属近侍になったのは、今から七年前。私が二十歳はたちの頃です。みひろ様はまだ十歳で、お母様を亡くされたばかりでした」


 答えてくれないだろうと思っていたけど、意外と伊織さんの口は軽かった。

 それが信頼の証なのか、ただ単にお酒を飲んでるせいなのかは、分からないけど。


「葉室家が運用する葉室教育機関は、世界中から優秀な子供をスカウトし、その適正に合わせ執事、秘書、他専門職の英才教育を施しています。貧民街出身の私も機関に拾われ、様々な教育、訓練を受けさせてもらいました」

「紅茶の淹れ方から、ピストルの打ち方まで?」

「そうですね。でもみひろ様専属になってからの方が、多くの事を学ばせてもらってますよ」


 伊織さんは、飲み干した缶ビールをテーブルに置くと、ソファーにもたれかかり天を仰ぐ。

 上階で眠る主人を優しく見守るように、彼女の目元がふっと緩んだ。


「あまり詳しくはお話できませんが……私はみひろ様専属になってすぐ、とある失敗をしてしまいました。本来であれば追い出されてもおかしくない失態でしたが、みひろ様に助けて頂いたのです。以来七年、こうして今日までお傍にお仕えする事を許されています」

「助けてって……十歳の子供に?」

「十歳の子供とは思えない、見事な推理に、です。」


 そう言うと、伊織さんは空いた缶ビールを取って立ち上がった。


「その日以来、みひろ様は葉室家の氏立探偵となり、外界と隔離されてしまいました。そのきっかけとなったのは私……だからこそ、みひろ様には年相応の経験をして頂きたいのです」

「学校に通ったり、アルバイトしたり?」

「お風呂はメイドとではなく、仲のよい友達と入りたい……それもみひろ様にとって、憧れのイベントだったのかもしれません。厚かましいと思われるかもしれませんが、もし藍海さんがお嫌でなければ、みひろ様の我儘に少しだけお付き合い頂ければと思ってます」


 缶ゴミを捨てると、伊織さんは「おやすみなさい」と言って二階に上がっていった。


* * *


 その夜、こんこんと部屋の扉がノックされた。

 うとうとしていた私はベッドで上半身を起こし、サイドテーブルの灯りを点ける。


「はい?」


 ゆっくり開いた扉の陰から、パジャマ姿のみひろが半分だけ顔を出した。


「みひろちゃん?」

「あの……藍海さん。お風呂では、ごめんなさい。私、自分でも気づかない内に……」

「ああ、うん。めっちゃ驚いたけど大事に至らなくて良かったよ。もう大丈夫?」

「はい。それであの……目が覚めたら眠れなくなっちゃって。良かったら……」

「話でもする?」

「はい!」


 ぱっと顔を明るくしたみひろは、嬉しそうに部屋に入ってくると、当然のようにベッドに潜り込んでくる。


「どうしてベッドに入る!」

「だって、お話してる間に寝ちゃったら、風邪を引いちゃうじゃないですか」

「眠くなったら、自分の部屋に戻って寝ればいいじゃん」

「ダメ……ですか?」

「ダメじゃ……ないけど」


 あぁ……伊織さんからあんな話聞いていなければ。

 まさかベッドだけセミダブルに変更されてたのって……そういう配慮じゃないよね!?


 私の隣を首尾よく陣取ったみひろは、仰向けに寝転んだ。

 二つの大きな膨らみが左右に流れ落ちると、パジャマ越し、コイン・ペンダントの形が見て取れた。


「それ、寝る時も付けてなきゃなんないの?」

「はい。肌身離さず持っておかないと、いざという時使えないじゃ困りますから」

「怖い事言うなぁ……。それってまた、この家にアマルガムが襲ってくるかもしれないって事じゃん」

「ふふっ、ご安心下さい。新有海邸は強固なセキュリティが施されていますし、葉室警備保障の警備員が、二十四時間体制で付近の警戒にあたってます」

「でも、相手は武装ヘリとかで来るんでしょ?」

「最近の警備会社には、対空ロケットランチャーが配備されてるらしいですよ?」

「それ、葉室家の警備会社だけじゃない?」

「そうなんですね。じゃあ、内緒にしておかなきゃ」


 ジョークなのか世間知らずなのか。

 すっとぼけの推理令嬢は、自分が世間知らずな事まで計算に入れて喋っているのかもしれない。


「もう寝よっか。明日も朝から学校だし」

「その前に……ひとつだけ謝らせて下さい」

「なにを?」


 みひろはもぞもぞ起きだすと、ベッドの上で正座になり、カーテンの隙間から見える夜空に目を向けた。

 月光が紫目に映り込み、ぞくっとするほど妖艶な雰囲気を漂わせる。


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