いきなり立ち上がった酔っぱらいに、左手首を掴まれた。
私は右手で相手の手首を捻ると、突き放すような小手返し。酔客は後ろにたたらを踏んで、倒れ込むように椅子に座った。その衝撃でテーブルから徳利が転げ落ち、床に落ちる寸前、私はそれを客の前に置く。ついでに板わさとお猪口も並べ、軽く席を整えてあげる。
「はい。酒は呑んでも呑まれるな~、呑むなら楽しくやってよね!」
綺麗に並んだ蕎麦前に、きょとんと呆ける酔っぱらい。
向かいの連れに「あとは頼んだ」の目線を送ると、相方のオジサンは徳利を取って酔客のお猪口に注ぎ始めた。
「まぁまぁ、落ち着いて。話は最後まで聞いてくれよ」
「お、俺だって喧嘩したいわけじゃない……悪かったな、藍海ちゃん」
「分かってくれればいいって~。あ、お蕎麦食べたくなったらいつでも声かけてね。オススメは、藍海ちゃん特製カレーだよ!」
「そりゃ蕎麦の内に入らないだろ……カレーがアテじゃ呑めないよ」
「それが、赤ワインとカレーなら相性抜群なんだって! 試してみる? 持ってこようか?」
「相変わらず商売上手だなあ。
「オッケー。いつでも声かけてね」
笑顔で手を振りカウンターに戻ってくると、暖簾の隙間から大将の厳めしい顔が出てきた。
途端に、作務衣のお尻に集まってたオジサン達の熱視線が、ひゅんと引っ込む。
「藍海。酔っ払いを諫めてくれるのは助かるが、小手返しはやりすぎじゃないか?」
「女子高生にお触りしといて、床に投げられなかっただけまだまし。ちゃんと手加減したし」
「全く……お前ほど日常で合気道使ってるお転婆娘、全国でもそうそういないだろうな」
「私だって、好きで使ってるんじゃないもん。お蕎麦屋さんのくせに酔っ払いしか来ない、このお店がいけないの!」
作務衣の胸にお盆を抱いて、呆れ顔の大将に、いーっと歯を剥いた。
お蕎麦屋さんだって言うから引き受けたのに、バイトを始めて三か月、蕎麦だけ食べて帰る客なんていやしない。蕎麦処『合気庵』は、酔いどれオヤジご用達の蕎麦居酒屋なのだ。
大将曰く『茶髪ポニテに手ぬぐい巻いた、作務衣姿の女子高生がいるお蕎麦屋さんの方が、普通の居酒屋で呑むよりお得なんだよ』との事。
まぁ看板娘って事で、見るだけなら酒のアテになってあげてもいいけどさあ。オジサン達ももうちょっと、理性のハードル上げてほしい。
「あと、ウチはお蕎麦屋さんだからな。カレーは薦めるな」
「えー。だってカレー残ってると私のまかない、自動でカレーになっちゃうんだもん」
「そもそも藍海ちゃん特製カレーってなんだ? 俺が作ってるんだから大将カレーだろ」
「特別に藍海ちゃんがよそってあげるから、藍海ちゃん特製カレー! 大将カレーより可愛いから、売れるに決まってるじゃない?」
「赤ワインに合うってのも、高校生なんだから……って、飲んだ事ないよな!?」
「ないよ~、テレビで言ってただけ。あ、お客さん来た。いらっしゃいませ~!」
草履の音も軽やかに、小走りでお出迎え。ご新規オジサン四人組をテーブル席に案内する。
まったく……大将もなんだかんだでオジサンだ。
やたら私と話したがるし、たまにお父さんみたいな事も言う。
それが面映ゆく、そういう時に限って私は、早目に会話を切り上げる。
いつかぽろっと、言っちゃうんじゃないかって思うから。
* * *
時刻は二十二時過ぎ。私は蕎麦屋のバイトを終え、制服に着替えて駅まで戻ってきた。
駅前ロータリーの横には、コストカットと手抜き工事の末なんとか体裁だけ整えた、薄暗いコンクリ公園が広がってる。
ここから先は残業タイム。今日もいるいる、わんさかいる。
座って酔い覚まししてるオジサン。ここぞとばかり白い煙を吐くオジサン。飲み足りないのか、コンビニで買った缶チューハイを呷るオジサン。
夜の公園で思い思いにくつろぐオジサン達は、水辺で翅を休める蛍のよう。スマホの画面を光らせて、じっとその場に佇んでいる。
クラスの女子は毛嫌いしてるけど、私は割とオジサン好き。だってオジサン達は毎日遅くまで働いて、社会を回してくれている。だから私にも、いくらかお金が回ってくる。
そんなわけで私は、赤ら顔で手すりに腰かけてる、酔い覚ましオジサンに近付いていった。