魔法使いだって、聞いてきたのに。
ステージ中央のスーツ姿のおじちゃんは、握った右手を小指からゆっくり広げていき、最後にその手をぱっと開き、ひらひらと振ってみせた。
手の中にあるはずの
おじちゃんは、左手で自分の右肘を指し示した。
「どうやらコインは、右手のひらから腕の中を通って転がって、今このあたりにいますね」
そんな事、あるわけない、と思った瞬間。
おじちゃんは左手で右肘をつまみ、ピカピカ光るコインを取り出した。
「イッツ、マージック!」
その瞬間、ステージを囲むお客さんから大きな拍手が送られる。みんながみんな、笑顔で手を叩いている。
ステージのおじちゃんは、おおげさなお辞儀でそれに応えた。
なに? なんなのこれ? ホントにみんな、これが魔法だって信じてるの!?
「藍海、今の見た? すごいわねぇ!」
隣のママが、拍手しながら興奮した声で話しかけてくる。
私は「うん」とだけ答えたけど、とてもみんなみたいに喜べない。なんだかすごく、騙された気分だった。
「はい、ではもっと近くで見てみたい人、手を挙げて下さ~い!」
進行役のお姉さんの呼びかけに、次々と手が挙がる中、私とママも負けじと「ハイ、ハイ!」と大きな声を出して手を伸ばした。運良く私たちは指名され、お姉さんに連れられステージに上がる。
結局三組の親子が、小さなテーブルを挟んでおじちゃんの目の前に立った。
「いいかい。よーく見ておくんだよ」
「ママ、抱っこして!」
テーブルよりだいぶ背の低い私を、ママが抱っこしてくれる。
私はマジシャンのおじちゃんの言う通り、テーブルに身を乗り出して、至近距離でその手元を見つめた。
かぶりつくような私の姿勢に、司会のお姉さんや観客のみんな、ママまで笑い出す。
おじちゃんも苦笑いしてたけど「じゃあいくね~」と言って、マジックを始めた。
左手でコインをつまんで見せて、右手を被せるようにして、コインを受け取る。
握った右手を軽く振ってから、ゆっくり指を広げると……やっぱりコインは消えている。
この後、消えたコインはおじちゃんの右肘から出てくる――はずだけど。
そこでおじちゃんの動きが止まった。
青い顔でぷるぷる震えて、なかなか左手を右肘に持っていこうとしない。
観客がざわめき始めた頃、私はおじちゃんにニッと笑って、後ろを振り返った。
「じゃ~ん! なんとコインは、ここにありま~す!」
私は右手でつまんだピカピカのコインを、観客のみんなに見せびらかした。
お客さんは大盛り上がり! 青い顔してたおじちゃんも私に両手をかざして、「イッツ、マージック!」のキメゼリフを叫ぶ。
私はコインを指で弾いておじちゃんに返すと、ママを引き連れ大手を振って、ステージを降りていった。
* * *
マジックショーが終わると、私とママはおじちゃんの楽屋に招待された。
大人のお辞儀のやり取りが終わると、おじちゃんは感心したように私の頭を撫でる。
「いや~、驚きましたよ。まさかこんな小さな女の子に、してやられるとは」
「はあ……?」
ママが不思議そうな顔してるので、私はニンマリしながらネタバラシ。
「さっきのコイン。私がパッて、取っちゃったんだよ!」
遠くから見てても、右肘からコインが出てない事は間違いなかった。
という事は最初から左手にコインを持っていたわけで、いつ左手に持ち替えたのかだけ、分からなかった。でも近くで見ればなんの事はない。
コインマジックの一番最初。おじちゃんは左手のコインを右手で受け取るフリをして、実際は左の手のひらにコインを隠し持っていたのだ。
ゆっくり右手の指を広げる仕草にみんなの視線が集中した瞬間、私は手を伸ばして、左手のコインを盗み取った。
「それ、本当なんですか?」
怪訝な顔でママが訊くと、おじちゃんは例のコインを左手でつまみ私の前に差し出した。
「もう一回、やってみせてくれるかな?」
私はすぐに、右手を飛ばす。コインは瞬間移動したかのように、私の指先に収まった。
ママは目をまん丸にして、呆気に取られている。
「ね? 私の方が魔法使いみたいでしょ?」
「お嬢ちゃんは、マジシャンになりたいのかい?」
「うーん、わかんない」
素っ気ない私の返事に会釈を返すと、おじちゃんは顔を引き締めママに振り返った。
「奥さん。お嬢さんはすごい才能の持ち主です。今すぐ私の弟子にしたいくらいだ」
「はぁ……」
「弟子なんてやだよ。おじちゃん、嘘吐きだもん。全然魔法使いじゃないし」
「いやはや面目ない。本物の魔法使いは、お嬢ちゃんの方かもしれないね。その手さばきは正に天賦の才。神様からの贈り物だ」
「神様からの?」
「ああ。マジシャンの世界では
おじちゃんはそう言うと、ポケットから小さな紙を取り出しママに手渡した。
「今日はお越し頂きありがとうございました。今すぐでなくとも結構です。もしいつか、お嬢さんをマジシャンに育てたいと思いましたら、ご連絡下さい」
「はぁ……ありがとうございます」
「ママ、もう行こう? あいみ、アイス食べたい。おじちゃん、バイバイ!」
このままだと、嘘吐きおじちゃんの弟子にされてしまうかもしれない。
私はママの腕をぐいぐい引っ張って、おじちゃんに手を振り、強引に部屋を出て行った。
* * *
屋台で買ったアイスを二人でベンチに座って食べてると、不意にママが聞いてきた。
「藍海はマジシャン、なりたくないの?」
「魔法使いならなりたいけど、マジシャンにはなりたくない」
「どうして?」
「だってマジックなんて全部インチキだし、あのおじちゃんも嘘ばっか吐いて、みんなを騙してるだけだもん」
コインのマジックだけじゃなく、おじちゃんが見せてくれたマジックは全部、お客さんに見えないように何かを隠したり、用意してた何かとこっそりスリ替えたり……もう、やりたい放題。
よーく見てればあんなの、すーぐズルだってバレちゃうのに。
「確かに嘘吐きおじさんかもしれないけど……藍海の右手がギフテッドって言ってたのは、ホントだと思うよ。お正月のかるただって、負け知らずだもんね」
「かるたの神様が、手をくれたって事?」
「ふふっ、それも素敵ね。でも、ママのママも似たような特技を持ってたし……隔世遺伝かも?」
「ふーん」
かくせいいでんがなんなのか、よく分かんなかったけど……私は適当に相槌を打った。
舌を突き出し、右手に持つアイスの棒を、指先でくるくる高速回転させながら。
小さいし、力も弱い右手だけど、速さと器用さはよく褒められた。かるたはもちろん、お絵描き、粘土、おもちゃの奪い合い――、手先の勝負ではほとんど負けた事がない。
これがギフテッドだとしたら……神様は、私に何かしてほしいのかな?
「いい? 藍海」
ママは私を抱き寄せると、透き通る紫目で私を見つめてくる。
「藍海の右手は、神様がくれた
「分かってるよ……でもあのおじちゃん、嘘ばっか言ってみんなを騙してたんだよ? だから――」
「仕返ししてやろうって、思った?」
私はこくんと頷いた。
「騙されたみんなを助けてあげたんだから、これって人のためだよね?」
「うーん……でも、あの場にいたみんなは、騙されたくて来てたんじゃないかな?」
「………え?」
「藍海は、私の方がマジシャンのおじちゃんよりスゴイって、みんなに見せたかったんでしょう?」
「そんな事……」
ない――とまでは、言葉にできなかった。
ママに抱っこされながらコインをみんなに見せびらかした瞬間、スカッとした気分だった。
まるで正義のヒーローが、悪役の悪巧みを暴いた時みたいに。
「たとえ相手が悪い人でも、自分のために使っちゃダメ。神様はなんでもお見通しよ。せっかくあげた贈り物を、自分のためばかりに使ってたら、天罰が下るかもしれないよ?」
「えええ……それはイヤだよ」
「じゃあ、約束」
「分かった! 約束する!」
子指同士を引っ掛けて指切りげんまんすると、ママは大きな紫目を細めて、嬉しそうに「ありがと」と笑った。
ママが大好きな私は、この時の約束をずっと守り続けてきた。
ママがいなくなる、あの日まで。