「あ…ちょっとだけ待ってくれるかな?」
「はい…」
紘一は楽器ケースを畳むと…
父親と話をする為に店の奥の工場へと足を向ける事になった。
だが工房も扉を開いて父親の姿を確認してみれば既に父親は作業に没頭中。
頭の中は預かっている楽器を修復する為に全身全霊をかけて作り上げている。
ともすれば今話しかけた所でまともな回答が来る訳がない。
職人の一人の世界に入った父親は数日間はこっちに戻ってこないのだ。
だから楓の楽器を修理する事になったら誰が修理するのか。
当然紘一一人で治す事になるのである。
だがあそこまで壊れたトランペットをたった一人で治せるのかと言われると…
今も紘一には難しい事だった。
頭の中を何度も整理する事になったのだ。
「親父ほどの実力がなくともあのトランペットは修復は出来る。
出来るが問題はその後だ」
「そうなんですね」
「外装は見よう見まねて何とでも直せるだろうし。
それなりに形にはなるはずだ」
「僕もそう思います。なら受けても良いじゃないですか」
「いやいや。
問題はその後なんだよ。
調律と使い心地の再現だ。
それが修復と復元には一番難しくて俺にはまだ経験が足りない」
「それは時間をかけて本人が納得する物を仕上げるしかないでしょう」
「確かにそうなんだが…あ?青木いつからそこにいたんだ?」
「え?紘一先輩が戻って来た時には普通にいましたよ。
え?話しかけて来てたじゃないですか。
それにお客さんが待っていますよ?」
「あ!」
その集の反応に慌てて紘一は店先に戻っていく。
自身が見つけた天使(楓)の姿を…
探すまでもなく彼女はちゃんと待っていてくれたのだ。
それから冷静になりながら言葉を選んで回答を始めたのだ。
彼女を悲しませるような返事はしたくない。
したくないが…
もう一度カウンターの上に置いた楽器ケースを開いて。
そしてごくりと唾をのむ事になる。
やっぱり無理だよなぁ。
俺は親父じゃないしなぁ。
始まって燃え上がりそうだった恋心と格好つけたい自分自身。
けれど結果的に目の前の女神(楓)が涙を流す事になるなら…
ともかく今は持って帰って貰って父親の仕事が空いた時。
その時にもう一度来て貰えば良い。
そう結論付けたのだ。
「えー色々とあるんですが」
「は、はい」
「そのいつまでに修理を希望なさっているんでしょうか?」
「あ、のいちにちでも早く…もう一度この子で音を奏でたいです」
「あ…そうなんですねぇ。そのい~ちねぇーん後とかでも…」
紘一の煮え切らない対応と提示された修理期間。
それは楓には穏便に断りたい断り文句としか聞こえなかった。
前日有珠との会話で一度は引き受けてくれそうだよって聞いていた手前。
楓にとって紘一の回答はショックが大きい返答であったのだ。
「え?あの…ご、ごめんなさい。無理なら断って下さって大丈夫です。
本当の事を教えてください直らないんでしょう?」
「いえいえ。そんなことはありえません。
工藤楽器に治せない楽器はないのですよオ。
で、でもですねぇ今とても仕事が混みあっていましてね?」
「あ…そう、ですよね。ごめんなさい無理を言いました。
だ、大丈夫です!しょうがないですもんね!
色々と検討してもらって…ありがとうございました!
…それじゃぁ!持って帰りますね」
楓にとってはそれで終わり。
これ以上無理強いするつもりはなかったし。
もう大切なトランペットを壊されてまで演奏を続けるつもりはなかった。
だから一つのけじめをつけて次を探そうと考えた瞬間でもあった。
けれどそのお礼の返事をしながら笑顔で涙を流した楓の表情を見て、
工藤紘一は漢を見せるのである!
「あっはっはっはっは!お嬢さん!この工藤楽器に治せない楽器はない!
だから安心してその楽器を俺に預けるんだ。
そして君は楽器が治るのを待っているだけで良い。
後は俺がどうとでもして直して見せてやるから!」
「え?」
「なに…ちょっとばかし気合が足りなくってねぇ。
それで色々と悩んでいたが、その悩みも何故か解決してしまってね?
そう!たった今なんだが解決してしまったからさ!
まぁ…そうだなぁ…1カ月…いや半月程度待っててくれるかい?」
「半月で?半月で直るんですか?」
「あぁ…この工藤楽器のプロフェッショナルな奴等に任せて貰えれば、
っそれだけの時間で直してみせるさ!」
ギュッと持っていた楽器ケースの持ち手が緩む。
そして楓はカウンターにその楽器ケースを置いたのだった。
「お、お願いします。
お願いします。
もう…音が出なくても良いです。
ただ…この子を元の形にだけは戻したくって。
私と音楽の道を一緒に歩いてきたパートナだから。
せめて形だけでもっ!
それで構わないですから」
「安心してください。俺のプロフェッショナルな腕に任せてもらえたら…
完璧な仕上がりをお約束しますよ」
「はいっ!はいっ!」
こうして、その感動的?な一幕は終わったのであるが、
ここからが工藤紘一の苦難が始まるのである。
そう。
全ては嘘で。
紘一はプロフェッショナルな腕など持ってはいない。
出来ても他の職人達の補佐をする程度しか出来ないのである。
別にそれが可笑しい訳ではなく紘一は立場的には学生のであり現在高校生。
でも同時に紘一はこの嘘を嘘にするつもりはなかったのである。
父親の傍で多数の楽器を見て来たその目だけは確かであった。
工場は危険な場所であったが紘一にと手は同時に遊び場であった。
だからこそ目の前のトランペットの直し方も分かる。
だから後はやってみるだけであった。
その安請け合いの尻拭いをしてくれるほど紘一の父親は甘くはなく。
それでも修復は始めなくてはいけない。
だからこそその日から紘一の工房への泊り込みも始まったのであった。
「親父…俺は嘘つきになりたくねぇ」
「おお。解っている。工場の開いている場所は好きに仕え。
道具は8番と9番辺りから始めろ。
それがきっとあっている」
「!ありがとう」
そうすれば周囲の職人もにやけながら紘一に声をかけていた。
「磨きは…辺りだろ」
「叩きは3番からだな」
「補修部品は…倉庫の2番棚の中身を使え」
安請け合いした仕事にプロフェッショナル達のバフがかかった瞬間であった。
同時に紘一は集を手招きする。
「集悪いが、お前の時間を俺にくれ」
「紘一さん。大丈夫ですどんな事でも言ってください!」
「ありがとう集。それじゃぁ…」
二人は工場で必死に楓のトランペットを直す為に技を磨き、
慎重に作業を進めて良くわからない汗を流すのである。
楓のトランペットを直す為に紘一と集は作業を始めたのであるが…
男同士の友情が芽生えるのにそう時間はかからなかったのである。
学校と工藤楽器との往復を始めた集。
当然その様子を楽器工房に送り込んだアリスも気にするようになっていた。
「修復の進み具合はどう?」
「色々と難しいが順調にすすんでいるよ」
「それは何よりね。
随分と楽しんでいるように見えるけれど…」
「そんなことは…あるかもしれない」
「へぇ…否定しないなんて珍しいわね」
「実際何故か知らないが楽しいんだから仕方がない。
修復され直って行くところを見ているとなんだが解からないが。
もう一度やり直せると考えられてな」
「そう」
楓のトランペットを直すと言う集の活動。
その事が求める未来を作り直せるかもしれないと言う希望を抱かせていた。
半信半疑ながらそれでも手探りで未来を変えようとする。
その足掻きが無駄でないと言う事を確認しているかのようだったのだ。
それじゃあな!とさっさと話しを切り上げた集。
その姿を見送ることになったアリスは呟いていた。