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第33話


その日、聖楓は最悪の一日を経験する事になる。


「コレは誰のだ?」

「あ!あ!私のです!」


大きな声で叫ぶようにして楓は月曜日の朝のホームルームでトランペットが入った楽器ケースを取り戻した。

それは2日間にも渡る特訓の成果だと思ったのだ。

土日二日間にも及ぶ練習は楓にとってはもう嫌というほどの練習量だった。

その練習の成果は十分に表れ最後の合同練習では今までと違った音色を楓は演奏できていた。

涼子と指導員はその演奏に満足して楓を解放したのである。

学校からの借り物の楽器でさえ楓のトランペットと同じくらいの音色で奏でられるようになっていた。

だから楽器の返却はそのご褒美。

そう楓は思い込んだのである。


やっと、やっと自分のトランペットで演奏できる。

先輩にがみがみ言われる事も指導員にネチネチ言われる事も。

今の楓にはどうでもいい事だった。

隠されてからの借り物のトランペットは演奏できない事はないけれどとても使いづらい。

だから久しぶりに自分の楽器で演奏できることが嬉しかったのだが…


「な、なんで?」


ケースをあけて飛び込んできたのは今まで大切にしてきたトランペットではない。

同じ物であることは見ればすぐにわかる。

見間違えるはずのない傷もあって修理してもらった傷跡だってある。

けれどどう考えたって見間違えるわけがない。

その自分が大切にしてしまったはずの形をしていなかった。

歪みボロボロに壊されていた自分が大切にしていたトランペットだった。

うそだって思って手を伸ばした先。

つーうっと撫でたトランペットは見たままの凹みがあってボコボコだった。

楓の中で何かが音を立てて崩れ去った。


「…どうして?」

「聖さん。パート練習始めるわよ」

「ははは…」

「聖さん?」

「もう…いいや」

「聖さん!さぁ練習をはじ「始めればいいじゃない!」」

「え?」

「ふざけるなっ!ふさけるなよっ!」


その我関せずのマイペースで苛立ちを覚えさせられる何時もの楓の反応じゃない。

その瞬間涼子は楓が開いている楽器ケースが学校から貸し出した物でない事に気が付いたのだ。

そして後から近づいた涼子が見たのは…

どう見ても壊されたとしか見えない楓のトランペット。


「うっ…」


壊され方も普通じゃない。

直し辛いように徹底的に壊されたものだった。

流石にこれは酷いと思いながらも…

部長としてはほっとする部分もあった。

ほっとしたのだ。

二日間の特訓後で良かったとすら考えた。

今の楓の技量なら学校からから貸し出した楽器でも十分に演奏できる。

ソロパートも問題ない。

楽器の事は後で解決するとして今は夏のコンクールに向かって団結して。

良い演奏が出来る様にするべき時なのだ。

けれどそれは久遠涼子の考えである。

もう既に色々と限界だった楓にこの現実はありえなかった。


「どうしてここまでされなくっちゃいけないの?ねえ?

なんなの?なんなのよっ!」

「あ、あのね?聖さん?」

「もう、どうでも良いわ…」

「あの!」

「黙れ!ふざけるな!ふざけるんじゃない!私の…大切な思い出がっ」


楓の感情の全てが反転して歪んだ瞬間だった。

理不尽だと思う感情の押し付けに耐えた。

期待されるがままに練習に耐えた理由なんて解り切っている。

勿論大切なトランペットを取り戻したいからに他ならない。

それが返されたと思ったら完膚なきまでに壊されていたのだから。

当然その怒りが向いたのは涼子に対してだった。


「お、落ち着いて!落ち着きなさい」

「落ち着く必要なんてないわ」


楓は鞄からノートを取り出すとバリっと一ページを破り、

そこに殴る様にペンで書いたのだ。


―私聖楓は〇月〇〇日をもって退部します―


「これで十分でしょ」

「なっ!勝手な事を」

「勝手でも何でもどうでも良いわ」


それを涼子に叩きつけるとそれ以上何も言わない楓。

涼子の返答も聞かずに部室を後にしたのだった。

もう楓の心はくっちゃくちゃだった。

誰が楽器を壊したのかなんてどうでもいい。

ただ…もう何をしても許すつもりはないし。

吹奏楽部に関わる事自体を拒否する。

楓に何を言っても届かない。

涼子としても何でこんなことになったのか解らない。


「まって!話を聞いて!落ち着いて!」


必死に引き留めようとして。

けれど楓のその表情は怒りに満ちていて。

聞く耳を持つ事も出来そうもなかったのだ。

誰も楓を止める事は出来ず…

そしてそれでも練習の時間が始まってしまったのである。


「何をしている!練習を始めろ」


顧問の教師が現れそして生徒達にいつも通りに練習を始める様に指示を出す。

これからは時間との勝負なのだ。

指導員もより積極的に練習に力を入れていく事になるはずだった。

全体練習へと場を移しても全体的に出来上がっていた中心にあったものが無くなってしまっていた。

それは良い演奏から普通の演奏になってしまったと言う事である。

それ以前に全体練習になれば嫌でもわかってしまう。

だってソロパートを任せていた楓はいないのだ。


「部長。聖はどうした?」

「えっと、あの…その…休み、です」

「そうか。なら今日のソロパートは部長に任せる」

「はい…」


けれどそう長い間誤魔化せる事でもない。

何よりも涼子は楓を辞めさせたくなかった。

だから退部届は涼子が受け取ったまま。

顧問の教師に渡す事もなかったのだ。

そうしている間に涼子は何とか状況を把握しようと努めた結果…

最悪の事態であることを知るのであった。


「それじゃぁ…聖さんのトランペットを壊したのは事実なのね?」

「はい。だって特別な楽器を使っていたら不公平じゃないですか!」

「わ、私達はちゃんと同じ楽器で評価してもらいたかったんです!」

「私だってソロパートをやりたかった」

「確かに演奏のレベルに差はありました!

けど私達だって三年間努力したんです」


「貴女達。

本当に楽器に「特別」なんてものがあると思うの?

特別って何?その特別は美しい音色をどうやって出しているの?」

「それは…勿論やっぱり、と、特別だから…」

「違うわよ。聖さんは自身の実力と表現力で音を奏でているわ。

だからこそ最終日の合同練習の演奏を聞けば解かるでしょう?」

「う」「あ…」「その」「えっと」

「特別なのは彼女自身なのよ…」


壊した事は認めた代わりに言い訳も凄まじく。

結局は妬みと嫉妬が引き起こした一時の迷いと言う事にした。

するしかなかった。

今から新しい部員を。

ソロパートの練習をどうするのかを考えなくてはいけないと考えると頭が痛い。

それを聞いてもうどうしようかと考える事を放棄したかった涼子であったが。

それでも部を纏め預かる身としてはその現実から逃げる事は出来ない。

どうにか楓と話を付けて…

戻ってきて貰わなくてはいけないと必死に話し合いの場を持つために奔走する事になった。

たった一人がいないだけなのに。

楓がいないだけで全体の演奏の力が落ちる様に感じる。

その事実が涼子には重くのしかかってきていた。

涼子が顧問の教師に退部届を渡すかどうかを悩んでいた時期の事。

指導員の女性の一人も楓が来ない事が気になったのか。

涼子に楓の事を聞きに来たのだ。


「ね、ねぇ聖さんは今日もお休みなのかしら?」

「…はい」

「困ったものねぇ。

少し私もお話してみようと思うのだけれどどうかな?」

「それは…やめた方が良いかと」

「でも私の指導をよく聞いてくれたしきっと聖さんの力になれると思うから」

「今の彼女と話す方法がないんです。

それどころか退部届まで渡されています」

「そうなの。なら…一度辞めてもらうのも良いかもしれないわね?」

「それはっ」

「きっとみんなと演奏するのにも疲れたのね」

「ちがっ…いいえ、はい。そう、なのかもしれません…」

「そうなのよ。きっと。だから聖さんの指導は私が個別にしておくから」

「え?いや、その…」

「大丈夫。部から離れればきっとうまくいくわ」

「そうで、しょうか」

「そうよ大丈夫」

「解りました。なら顧問の先生に退部届を渡しておきます」


しかしそれは更なる波紋を呼ぶだけでしかなかったのである。



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