「ごめんね。でもたぶん青木君しか解らない事なんだと思う」
「あ、うん。そうかもしれないね」
「だからお願いします。練習に付き合って下さい」
「もちろんさ!」
「え、えとありがとう?」
「黒江さんからの頼みを断ったりしないよ」
「それは、嬉しいのだけれど…
ねぇ聞いておきたい事があるの」
「何かな?」
断らなかった事で有珠はほんのわずかに時間を置いた。
それは浮かれている集を落ち着かせるのに十分な時間。
「青木君は…
青木君は何を知っているの?」
「…知っているってどういう意味かな?」
「解らないの。
けどあなたから向けられる好意は私にだけれど、
同時に別の誰かを重ね合わされているように見えるの」
「…そうだね。
それは否定できないかな。
けれど、それでもいいじゃないか。
僕は君に協力する。
僕の事を利用するつもりでいてくれていい。
それで君やりたい事がうまく行くのならそれでいいじゃないか」
「そう、だよね」
集に対しての得体の知れない怖さは確かにある。
けれどそれ以上に有珠の目には魅力的に映ってしまっているのは、
青木集という存在を有珠自身が自然と受け入れ始めている証拠だった。
「正直に言えば半分はきっと打算だと思う。
けどその打算だったとしても僕は嬉しいから行動するよ」
「え、ええ。
なら、私も手伝ってもらうわね。
正直時間も心も余裕がないと思うから」
入部させられ吹奏楽をやらされそうになっている状況が、
有珠から余裕を奪っている事も確かだった。
中学校の部活動は軽いトラウマとなっているのだろう。
対して集の見せる余裕は何処から来るのかと言えば簡単な事だ。
「なら、今は最良の結果を得られるように頑張ろうか」
「そうね」
「そこまで気にしなくても黒江さんの演奏は認められるから問題ないよ」
「え?どうしてそこまで言いきれるの?」
「それが黒江有珠だからかなぁ。
少なくとも僕の知っている黒江さんは不条理な命令を簡単に受け入れるほど弱くないし。
なにより実力で相手を納得させるだけの力があるからね」
「青木君…」
集は一度目の人生で有珠が吹奏楽部に入らなかった事を知っている。
その事実を知っているだけでこの吹奏楽部の勧誘が失敗する事が解っていた。
集が関わっていなかったとしても顧問の教師を説得できたって事だろうし。
なら有珠を励まし自信を付けさせてやればいいとだけ考えていた。
―久しぶりに有珠のヴァイオリンも聞けたしね―
集にとって重要な事は有珠の奏でるヴァイオリンを聞く事なのだが。
気づいていないが里桜の怪我が後遺症を残さないで済んだ事。
それも今の有珠にはプラスであり大きく影響している。
里桜とのセッションは有珠の技量を大いに高める結果を作っていた。
少なくとも有珠が思っているほど吹奏楽部の顧問を納得させるのに苦労はしない。
集が見せた絶対的な自信と余裕が有珠の不安を解消する一役となっているのだが。
残念ながら集はその事にも気づけていない。
ただ集は、有珠とこの時初めて友好的な話し合いが出来たのかもしれない。
としか思いつけなかった。
しかしその雰囲気もまた周囲に誤解を与える結果となる。
「…ええと?私達はお邪魔だったみたいね。
祥子、先に帰ってあげましょう」
「はぁい」
その会話を行なっているのは屋上であり、
そこには有珠と祥子もいる事を二人は忘れていたのである。
けれどいわゆる「良い雰囲気」であったがために、
里桜も祥子もいたたまれない気分となりその場をそそくさと離れていたのだ。
気付いた時には屋上の入り口にいる里桜と祥子。
「ま、まって!違うのそんなんじゃないっ!」
「…ゆっくりで良いのよ」
「うん!大丈夫私達は先に行くから!」
それは偶然と勘違いが生んだ完全な誤解だった。
里桜と祥子から見れば有珠は集の事を気にしている。
教師から頼まれた資料の整理と返却を頼んだのが接点のほとんどなかった集なのである。
それだけならまぁそう言う事もあるわよねと里桜も思うだけなのだが。
楽器の持ち運びのお手伝いも集にわざわざ頼んだのだ。
しかも有珠にとって集はあまり好ましいタイプではなかったはずだと里桜は記憶している。
それなのに短い間に2回も声を掛けたのは実は気になっているんじゃないかと。
実際は集の罪悪感に付け込んでの行動であったのだが。
少なくとも異性とそんなに深い付き合いをしない有珠が関わった、
それだけで誤解は加速する。
「ねっね?里桜。やっぱり有珠さ、気にしてるよね?」
「そうね…なんていえば良いのか青木君は…
有珠の心にスルリと潜り込んできたわね。
だから気を許してしまっている事に本人が気づかないのは面白いわ」
当たり障りのない対応がほとんどだったのにここにきていきなり集に接近した。
それはそういった事を勘繰りたくもなる。
それは偶然である。
なので有珠も拒否したい。
里桜と祥子の誤解を必死に解きたくて急いでヴァイオリンを楽器ケースに収める。
そしてそれじゃぁまた明日ね!と言いながら走り出す有珠を呆然と見送る事になる集であった。
「あ、そう、か。そう見られたんだ」
ぽつりと一人取り残された集にとってその誤解はとても嬉しい事だった。
耳が幸せである至福の時間を過ごしていた集。
けれどそれ以上に自分と有珠の関係がそう見えていた事は嬉しい事であった。
けれど問題は…
「なんでそう思われたんだろ?」
本人がどうして有珠が喜んだのかを理解できていない事だろうか。
ともあれ練習に付き合ってほしいを良い感じに誤解した集は行動を起こすのだ。
有珠は集にリズムの作り方を習いたいだけ。
別に集に伴奏を頼もうとなんてそんなことは思っていないし出来るとも考えていない。
一朝一夕にヴァイオリンは弾けるようになるほど簡単な楽器ではないのだから。
「まずは楽器を用意しないとなぁー」
そんな事を口にしながら前回の人生でお世話になった御用達の楽器屋。
そこを訪れる事にするが集の期待は簡単に打ち砕かれる事になる。
そこは集の知っている場所ではなかったのだ。
隠れ家的な店で洋楽器のチューニングと修理を請け負ってくれる店であり、
何度となく訪れた店である。
場所を間違えるはずないのだが。
その風景は集の記憶とは違っていたのだ。
「やってない…?
違うそうじゃない。
まだオープンしていないんだ」
老舗の様な店構えでいつでも無茶な難題を請け負ってくれた店主が経営する店で、
「俺を誰だと思っていやがる!やってやんよぉ!できらぁ!」
のノリと勢いで経営している店であった。
けれどその言葉に負けない実力と腕があった。
だからこそ著名な音楽家達も楽器の修理とチューニングを任せる玄人用の店だった。
集とは店主以外にその息子とも繋がる事になるのだが。
ともかく店主に頼んだらそれこそヴァイオリンの一つや二つ見繕ってくれると考えていたのだ。
一人まだシャッターの閉まったままの開く事に無い店を見ながら次の方法を考え直し始める集。
「まいったね」
「苦戦しているようね?」
そうして視線を向けた先に立っていたのはアリスであった。