引きずられる様に歩いてその場を離れた楓は直ぐに涼子が呼んでいたパートのメンバーに囲まれる事になった。
「聖さん。そろそろ真面目にパートの練習もしましょうね」
「あ、あの…
先輩!私、吹奏楽部辞めます!」
楓の心変わりの様子が涼子には手に取る様に解った。
楓の目的が有珠達と楽しく演奏する事なのはさっきの様子を見ればわかってしまう。
そしてその演奏を有珠達がしているのであればもう楓に吹奏楽部にいる必要は無かった。
直ぐにでも辞めて有珠の所に行くだけなのだ。
当然であるが涼子が楓の申し出を受け入れる訳がない。
「それが許してもらえると思って言っているの?」
「でも、もう私より上手な先輩がいるじゃないですか!」
勿論その楓の意見が苦し紛れの吹奏楽部を辞めたいが故に出て来た言葉だって解っている。
けれど勿論そんな我儘を涼子が許すわけがないし、今の言葉は、
他のパート練習をしているトランペットの子を怒らせるのには十分な言葉だった。
選ばれ譲ったにも関わらず簡単にその役割を放棄しようとする楓を逃がすかと。
楓は選ばれた事の重さも意味も軽く考えていたのだ。
「あのねぇ…既に貴女はソロパートを引き受けてその練習をしているでしょ?
もうあなたの代わりを出来る奏者はいない事くらい解っているわよね?」
「あ…う…」
「聖さんはとっても余裕があるみたいだから…
そうね、あなたのトランペットを預かってあげる」
「え?」
「借物の楽器でも今までと同じように演奏できるようになればいいと思うの」
涼子のその宣言を聞いてから周囲の先輩たちの手際はとても速かった。
それじゃこっちの楽器を使ってねと手渡されたのは進奏和の吹奏楽部が貸し出しているトランペットだった。
別にその楽器が悪いわけじゃない。
ちゃんとした新品を楓は渡してもらった。
そして取り上げられた楓のトランペットは直ぐに彼女の見えない所へと隠される事になったのだ。
「あなたのトランペットは預かってあげる。
使い慣れない楽器で練習できるくらい余裕がるものね!」
「そんな…」
「いい加減にしてちょうだいね?聖さん一人の為に皆が犠牲になるのよ。
これ以上迷惑をかけ続けて、それを許してもらえると思っているの?
皆あなたの為にしている事でもあるの」
「あ…はい」
楓が大会メンバー選出のオーディションの前に辞めると言っていたのなら、
ここまで大きな問題とはならなかった。
けれど彼女は既に選ばれその役目から降りる事は部全体に影響が出る段階にまでなっていた。
その事に気付いていなかったのは楓だけであった。
それから楓は取り上げられた自分の楽器ではない与えられた楽器での演奏を余儀なくされるのである。
「どうした聖!いつも通りの演奏をしろ!精彩を欠いているぞ!」
「すみません!」
「何をやっている聖!音が小さい、お前の音が響いていない!」
「ごめんなさい」
「いい加減にしろ聖!調子を崩しているでは済まない位音が乱れている!
やり直せ!」
「はい…」
合同練習での楓の演奏は散々な物となっていた。
それを見ていた同じトランペットの奏者である先輩達は眉をひく付かせることになったのである。
だが酷い演奏をする楓に対しては、取り上げられた自分の楽器を取り戻す為の駄々を捏ねているんだろうとしか見なかったのだ。
「先生!聖さんはしばらく自主練にするべきではないでしょうか?」
「ああ…そうだな。
ここまでダメになるのは気持ちが緩んでいるからだ!
もう一度自分自身を見つめ直してこい!」
「はい…」
こうして音楽室がら追い出される格好となった楓は一人で自主練室に連れていかれて部屋に鍵を掛けられて練習する事になったのだった。
自主練室で一人トランペットを吹いて音を確かめる楓であったが…
使い慣れた自分のトランペットとは待ったくの別物にしか思えない。
同じトランペットであるにも関わらず同じ音を出せずに悪戦苦闘する事になったのだ。
楓にとって自分のトランペットは自身の分身の様なものだったのである。
けれどその演奏の崩れぶりを見て同じパートの先輩達が思う所が無い訳がなかったのだ。
涼子は勝つためにレギュラーになる事を諦めた。
それは納得できることだった。
けれど誰もが「勝つため」に我慢できるわけじゃない。
特に3年最後のコンクールの参加となればその意気込みは1、2年の生徒とは全く違う物となる。
自分達の三年間の成果の集大成となるのだから。
だから…
涼子が考えていたお仕置きではなくてそのポジションを奪い取るべく動いてしまうのも仕方がない事。
―このトランペットが無ければ―
―私にソロパートを演奏するチャンスが来るかもしれない―
そんな考えを捨てきれない「誰か」が楓から預かっていたトランペットに軽い悪戯のつもりで細工をしてしまったのである。
そう、ほんの少し。
少しなのだ。
軽い悪意が重なって楓のトランペットはその悪意によって傷ついていくのである。
吹奏楽部員が去った屋上で有珠達は練習を続けていた。
弾き語りを続ける有珠達三人であったが。
「やっぱりヴァイオリンの演奏は…楽しい」
そう呟かずにはいられなかった。
久しぶりなのにとも思いながら自分が一番奏でやすいリズムであった事を思い出して、ふぅとため息をついていた。
それは奏でるリズムが安定していないと言う事。
そして集の作ってくれるテンポが有珠自身とても馴染むのにも関わらず、
そのリズムを自分自身で作れないと言う事だった。
その事に里桜も気づいているみたいで。
「…良いリズムだったけれど、やっぱり合わせられないわ」
「そうなのよね」
「やっぱり、少しブランクが空きすぎたのかしら?」
二人で研究するように意見を言い合いながら、考えを口にする。
けれど結論は変らなかった。
「響く音…って言うよりも流れなのかもしれないわ」
「うん…よく腕が動くのよね」
練習しながらも合わせられないジレンマ。
それは集が作ってくれたリズムに合わせた事でより有珠にとって違和感を覚えていた。
確信を得たからこそ有珠と里桜は提案しなくっちゃいけなかった。
何故とかどうしてとかは有珠にとっては二の次だった
ただ心地いいリズムを作ってくれたのは集であってその事実は変らない。
その間も集は近くの壁に寄りかかりながら二人の相談に意見を言う事もなく、
練習を聞きつづけていたのである。
ただ、勝手に納得し未熟な有珠の演奏を聞き…
「そーだったねぇ。そーだった」
「そう言う癖もあったねぇ」
としみじみ思い出しては口から独り言を零しニコニコしていたのだ。
どんな音でも今の集には嬉しいものであり彼は満足してしまっていたのである。
だから何も口にせずに荷物持ちとして練習が終わるまで待っているつもりだったのだ。
「青木君おねがいがあるのだけれど?」
「ん~耳が幸せですよ」
「そうなのね?ならもっと幸せなる為に協力してくれないかな?」
「もちろんだよ…お?」
「ありがとう」
余韻に浸っていた集は有珠に声を掛けられていた事に気付くのに時間がかかり、何も考えずに了承したお願いは練習に付き合う権利だった事に気付くまで若干の時間が必要なのであった。