「わぁ…」
「有珠の演奏を聴くのは久しぶりだけれど…やっぱり良いわね」
それが里桜と祥子の素直な感想であった。
けれど野次馬として聞き耳を立てていた周囲の生徒の表情はそんなに良くはない。
言い換えればあまり好ましくないと言った形であった。
楽しむ里桜をよそに祥子はその視線が気になっていた。
周囲に敏感になっていた祥子はそれを向けられる有珠の居心地の悪さのような物を感じ取っていた。
「里桜、その…」
「解っているわよ。
有珠の奏でる音楽の根底にあるのは両親への笑顔だもの。
音楽は楽しむ物だと愛理珠おば様に教えられていたのだから。
今のままでは有珠は奏者としては二流止まりでしょうし。
周囲にはそう聞こえているのよ」
里桜は周囲の反応はそうなるわよねぇと納得していたのだ。
けれどその納得が祥子には理解できていなかった。
祥子にとって洋楽器の演奏は憧れ。
だから有珠の奏でるヴァイオリンの音色だけで納得できてしまっている。
「え?どうして?有珠の演奏は上手だと思う」
「あり方が違うから仕方がないのよ。
一流は文化であり芸術の為にあるの。
有名な故人の残した楽曲をどれだけこの世界で再現できるかによって、奏者の価値が決まるのだから仕方がないのよ。
楽譜の作られた背景を察し心通わせ弾き方に思いをはせる。
解釈の違いは最小に故人の想いを最大限に表現する。
今の演奏は有珠が好んで弾き語る形なのね。
私はそれでいいのだけれど」
「周りはそれを求めていないって事?」
「そう言う事ね。
より正確により精密に。それがコンクールの根底にあるから」
里桜はそれ以上喋ろうとしなかった。
進奏和の生徒で吹奏楽部となれば一際耳が肥えている。
尺度を求められた以上演奏の旨さとは正確性に全振りされる。
優勝する!勝つ!と言う事はとどのつまりそう言う事なのだ。
上に行きたいのなら。
音楽の世界で生きていきたいのなら求められるのは正確性と再現性でしかない。
それでも、そうであったとしても有珠の演奏は里桜には好ましかった。
「私の、いいえ私達の好きな音楽よ…
誰に認められなくともね」
他人の事なんて気にしないと言いきれない事が今の里桜にも有珠にも苦しい事だったけれど。
当然近くでリズムを作っている集は里桜よりも数段その音色を楽しんでいる。
楽しみすぎてにやにやしている位である。
集は単なる荷物持ち。
いきなり有珠と里桜が学校で演奏する事になった理由もあえて深く考えなかった。
久しぶりに弾く有珠の音は素晴らしく、耳が幸せになると言う言葉を集は体験し幸福感がよりこみ上げてくる。
有珠は演奏が出来て幸せ。
集は音色を聞けて幸せ。
それだけでいいだろうって考えだったのであるが。
場の雰囲気を感じ取ればそんなことは言っていられない。
確かに集基準であっても今の有珠はちょっと演奏の様子がおかしかった。
繊細さを欠いているような気がする。
記憶より拙い演奏でも集にとっては満足だったのだが…
―けれどまぁ、このままではいけないなぁ―
集もまた有珠の演奏を覗き見ている吹奏楽部の野次馬達をチラリと確認したのだ。
その表情はガッカリ感を隠していない。
と言うよりも「当然」とすら思われているみたいだった。
集と有珠が出会ったのは高校に入ってから。
それ以前の事は有珠の口からしか聞いていない。
「私は…やっぱりヴァイオリンが好き。
お父さんがプレゼントしてくれた事もあるけれど、
自分の感情が音に乗せられる気がするの」
有珠が教えてくれた事。
そして今の演奏は有珠自身が望んでいない事くらいは想像できる。
…だからさ?もう少し忘れて演奏すればいいのだ。
足りないのなら、補ってもらえばいいじゃん?
まだ後数段は音色を変える事が出来る事を知っている集。
ちょっとしたきっかけを有珠に与えてしまえば有珠は音色を変える。
集は知っている。
だから周囲に見せてやればいいいだろう?
ちょっとくらいの理想に引き寄せても。
有珠の本当の実力を。
突然楽器を学校にまで運んできての演奏なのだ。
見せつけてやりたかったんだろ?
なら「ちょっとだけ」って思いながら背中をおす事にするのだ。
リズムを取っていた指を打ち鳴らすタイミングを少しだけずらし…
視線を里桜に向ける。
開いている腕の指先でサックスを演奏する動きを再現して、
里桜を誘い入れるのだ。
―入ってきてほしい―
有珠の近くに腰かけられる椅子を置きながら。
病み上がりである事は解っている。
けれど里桜もまた「やりたいだろう?」と言いたげに。
集は言葉に発する事は無かったそれに気付かない里桜ではなかった。
それどころか有珠の演奏を邪魔しないようにしながら自身を誘ってくるその姿勢に好感すら抱いている。
本格的に奏でるにはそれ相応に準備が必要だと考えていて。
ちょっとためらいがちにはなっていたのだけれど。
久しぶりの有珠とのセッションに里桜も胸が躍らない訳がなかったのだ。
「そうね。有珠となら指は動くわ…
祥子も出来るわね?」
「え?あ、うん!」
集が用意した椅子に腰を掛ける。
立ち上がる事が辛かった里桜はそこで楽器を構える。
指先でリズムを取っていた集はそのまま足を使って音を二重にする。
それは里桜が奏でるサックスの音を重ねるタイミングだった。
集は有珠の奏でる曲の先を知るかのように、
里桜に指を三本立てて…カウントダウンを始める。
3
2
1
脚で打ち鳴らす音は消え、
座ったままちょっとだけはしたない格好での演奏を里桜が始めたのだ。
けれどその里桜の演奏が有珠の耳に届くと、
納得のいく弦捌きが出来ていなかった有珠は音色を受け止めて、
そして音色は調和を前提とした形へと変っていく。
僅かな変化に周囲はざわつき…
良い耳障りへと有珠の演奏するヴァイオリンの音色は一気に切り替わるのだ。
誰かの為の演奏はその寄り添う誰かがいるだけでその音色を変える。
そして祥子が加わりサックスの2重奏が始まれば、
有珠はその音に負けないように弦捌きをよりダイナミックな物に変わったのだ。
周囲はその音色の劇的な変化に驚きを隠せない。
指を打ち鳴らす事を辞めた集は数歩有珠達から離れると。
グッとこぶしを握り締めて言わないではいられなかった。
「そうだよ。そう…俺はこれが聴きたかった!」
集にとって楽しかった時間の一つが今彼の目の前にあったのだ。
完全に同じ物と言えるレベルではない事は承知していた。
けれどその音色は集の薄れ混乱していた記憶の一部をよみがえらせた。
一度でいいから見たかった有珠が制服姿で弾いていた姿。
その姿は集の想像したまま、そのままの姿であった。
そして感動と驚きを覚えているのは集だけでは無かった。
音色は響く。
どこまでも透き通って広がり続けた。
有珠と里桜達のセッションに周囲は耳を傾けずにはいられない。
その音に聞き惚れたのだ。
いつもなら吹奏楽部のパート練習が始まる時間であったはず。
けれどまだ始まる事を周囲に許さない。
繊細で大胆に腕を動かし続け弦の動きを精密にコントロールしている有珠。
乗ってきているのとも違うその音色は他者を納得させる何かを感じさせる。
里桜の求めに応える様に祥子の音を導く様に。
吹奏楽では扱われないヴァイオリン特有のその音を周囲へと響かせていた。
皆手を止めてその場に固まっていた。
動けなかったのである。