「ね、ねぇお母さんちょっといいかな?」
「どうしたの?」
「久しぶりに演奏するから聞いてほしいの」
「…ちょっとまってね。先に準備していてね。
洗濯ものを畳み終わったらすぐに行くから」
「うん」
人に聞いてもらう事が旨くなる初めの一歩だよ。
そう教えられていた有珠は練習する時に聞き手になっている母である
そもそもにおいて有珠の最初の先生は母親である愛理珠であった。
愛理珠は専門的に何かをやっていた訳ではない。
もしも愛理珠がヴァイオリンの奏者として本格的に学んでいたら世界的なヴァイオリニストになれていたかもしれない。
それこそ「もしも」でしかないが愛理珠はその道を選ばなかった。
最愛を見つけ隣にいる事を選んだからである。
結果有珠が生まれたのだから運命とはわからない物である。
愛理珠の「音楽は楽しむ物」その考えは今も変わっていない
「苦しいのなら辞めてしまってもいいのよ。
やり遂げる事も確か必要な事だけれど。
辛くて泣きだしたい事を続ける意味もないわ。
奏でる場所はいくらだってある」
「で、でも私頑張るよ。
まだ…嫌いになってないよ…」
「そう。有珠が音楽を嫌いにならないならそれでいい。
やれるところまでやりなさい」
「うん!」
愛理珠の甘いけれど用意してくれた「逃げてもいい場所」があったからこそ。
有珠は追い込まれず今も立ち続けていられるのである。
それから有珠は少々広めの防音室の扉を開ける。
有珠が小さい頃から音楽を楽しめたのは愛理珠の教育である所が大きかった。
それは有珠が小さい頃、がむしゃらにヴァイオリンを練習していた名残であり現在は演奏を楽しむための場所となっている。
有珠にとって大切で特別な空間であった。
愛理珠の見よう見まねでヴァイオリンを構えひたすらに弦を弾く。
それだけ小さい時の有珠は悪戦苦闘していたが辞める事は無かった。
辞めたいとも思わなかった。
音楽家の指導も受けずに弾けるようになるのには愛理珠の教え方。
音楽への向き合い方との楽しみ方があったからだろうか。
最初の一歩をスムーズに。有珠にとって幸せな始まりを与えられたのだ。
その成果はちゃんと出て音楽を奏でるまでに時間はかからなかった。
だからだろうか。
音楽を奏でる事で満足した有珠であったが父親がのめり込んでしまったのである。
もう少しだけでも才能を伸ばしてやるべきでは?
そう考えた父親の動きは早かった愛理珠にも教える事無く業者を入れて、
家を改築してしまったのである。
有珠としてはもう十分にヴァイオリンは楽しんだ。
堪能した所であり辞めても良かった。
けれど気まぐれでプレゼントしたヴァイオリンにそこまで熱くなるとはと考えた、父親の熱が治まらなかったのだから仕方がない。
「家に防音室の一つでもあった方が何時でも練習出来て便利だろう?」
「もう…仕方ないわね」
「お、おとうさんありがとう?」
「いやなに!大したことじゃないさぁ」
愛理珠はあきれ顔。
有珠はすこしだけれど恥ずかしかった。
そうして広がった防音室で有珠は里桜や楓と祥子で楽器を演奏して楽しんだのである。
小さい頃からの黒江家の家族の形。
今でもその防音室には小さくて使えなくなった傷だらけのヴァイオリンが誇らしく置いてある。
楽器ケースからヴァイオリンを取り出せばそれは仕舞った時のまま。
手入れは怠ってない。
空調の効いた保管室に保管してある。
時間がある時には気分転換と称してヴァイオリンは弾き続けてきたのだ。
「結局辞められなかったのよね」
成長と共に自身のサイズにあった物をプレゼントされ今愛用のヴァイオリンを手に取ると構えてみる。
「…うん忘れていない」
その体制に違和感はなくまた腕を動かせる。
そう思って弦を弾いたのであるが…
「あ…れ?」
キュィン…
奏でる音は自分自身が知っている音を奏でなかったのである。
調整不足という違和感でもなく。
ただ体が覚えているように弦を弾けばそれは確かに様になっていた。
けれど有珠自身が引いている音が出ないのだ。
困惑して手が震えたタイミングで愛理珠が入ってくるのであるが。
「お待たせね。
さぁ引いて見せて頂戴な」
「う…ん…」
動揺をしり目に有珠はまたヴァイオリンを弾き始める。
その曲は様になっていて何も問題ないように感じられる。
けれど有珠本人は誰かに操られている様な違和感を感じずにはいられない。
違う…私が奏でたい音はこういった感じではなくて。
だって、もっと。もっと。
指は動くはずなのに。
ヴァイオリンが奏でる音は普通であるにも関わらず本人が納得する形にはなっていなかったのだ。
「ど、どう?」
「そうねぇ。何を気にしているのかはわかるけれど。
説明できることではないわね」
「…」
「それでも焦っている事だけは解るわ。
まずは落ち着いてヴァイオリンを奏でてみたらどう?」
「うん…焦っているのかな?」
「見える」
愛理珠からの率直な意見と有珠自身が置かれている状況を考えれば、
焦っても仕方がないのだがその事を本人は気づけていないのであった。
今の有珠には関わらない事。
逃げ切る事を最優先に考えているので仕方がなかった。
音楽から逃げる為に音楽を使うと言う矛盾で。
実力の証明の為に練習すると言うこと自体が有珠に重くのしかかっていた。
お母さんは騙せないなぁと思いながら。
有珠は休みなく練習を再開しようとした。
けれどああそう言えばと愛理珠に止められる。
「里桜ちゃんの退院日が早くなったみたいね」
「…えっと、そうなんだ」
「それでね?里奈さん経由でお願いされたのだけれど…
誰かお手伝いできる子がいないかって聞かれてしまったのよ」
「うん?」
「学校で祥子ちゃんが使う楽器を持っていくって聞いたけれど。
里桜ちゃん退院したてで大変でしょう?
体力も落ちているでしょうから…それで手伝ってくれそうな子いないかなって」
「私が…」
「有珠は無理でしょう。自分の楽器もあるでしょうから。
二つも三つも持っていけないでしょう」
「そ、そうだね」
そうか人手が必要なんだ。
誰か手伝ってくれそうな人はいただろうかと頭を悩ませる有朱であったが。
一人だけ思いついた人がいたのである。
余り頼りたくはないのだけれど。
この際断らなければ彼で良い。
もともと此方からお願いしていた事であったのだけれど。
了承しながら無視して帰ってしまった青木集というクラスメイトに対して、
有珠の好感度は低くなっている。
それでも断るのなら直接言ってほしかった。
全ては有珠の可愛い我儘である。
放課後暇そうにのんびり帰る事が多い青木集は何を考えているのか今の有珠には解らなかった。
放課後開かれている特別講座や個別指導を受ける事もなく。
ただのんびりと何かが起こるのを待っているかのような素振りで。
放課後を過ごしている暇人にしか見えないのだ。
ならもう一度頼んでみてもいいかもしれない。
有珠は動く事にしたのである。
「ねえ青木君。私のお手伝いをしてくれない?」