「青木君?一体どういうつもりなの?」
帰り際唐突に話しかけ垂れた集は困惑する事よりも嬉しさが先行する事になった。
久しぶりに正面から見た有珠の若かりし頃の姿は自分の記憶していた姿よりも愛らしくとても可愛い。
しかし見とれて何も動かない集に対して有珠の視線は更に厳しくなるほかない。
「…今日の青木君は何かおかしいわ。
先生に対してあの態度は無いと思うのだけれど?」
「そうだね。私もそう思うよ。私らしくないとは思ったんだけどね」
「え?「私」って?」
その瞬間、有珠は更に警戒感を強める結果となった。
集は年齢が上がると同時に自身の事は自然と「私」と表現するようになっていた。
少なくとも学生時代の集は自身の事を「私」とは言っておらず「自分」と言っていたはずなのだ。
「い、いや。じ、自分でもどうしてあんな事をしたのか解らないよ!」
その慌てようは確実に何かを隠していると有珠に悟られるのに時間はかからない。
青木集は何かが変わったのだと。
それでも有珠はその先の一歩を踏み出し確認する事はしなかった。
そこまで親しい間柄じゃない。
だけど確実にある引っかかる違和感。
―あなた…本当に青木君なの?―
有珠はこの疑問を解消する為のその簡単な言葉が言い出せない。
しばしの沈黙の中、二人とも何も言い合えない状態となってしまっている。
その我慢比べの様な時間に耐えられなくなったのは集の方が先だった。
これ以上は表情を固めておくことが出来ない。
口が吊り上がりこの状況で嬉しくて笑みが零れそうになる。
だ、ダメだ。耐えられないと思った集は視線をずらし鞄を手に持つと机の中の物も回収する事もなく一目散に歩き出す事にしたのだ。
「そ、それじゃぁ!私、じゃない自分は要件があるから帰るから!」
もはや何を言っても怪しいし、このまま追及されたら色々と隠し事を隠し通せる気がしなかった。
集は一目散に逃げ帰る事しかできなかったのである。
あまりにも今の集には刺激が強すぎたのだ。
自分自身の顔が少し赤くなっていたかもしれない。
けれどそれすら気にしている余裕はない。
「ま、待って話はまだ!」
「また明日!」
遠くから有珠の呼び止める声がする。
その言葉に止まれるほど集の精神ではなく「表情」には余裕がなかった。
ともかく全力でその場から走り去ったのだ。
それが有珠を更に警戒させる結果となるが集はその事に気付けていない。
有珠はかけがえのない存在であり守りたかった。
出来る限りの手を尽くしても集の手元に留める事が出来なかった。
その有珠を見れるだけで集にとっては特別に感じられてしまっていた。
有珠の姿を思い起こして。
自宅に帰るその時間でさえ今の集には新鮮であったのだ。
懐かしいと感じる感覚にあふれた風景と時間が広がっている。
見知った場所であるはずなのに新鮮に感じられる。
集の感情は喜び一色だったのである。
「できる。出来るぞ!私にはできる!」
理解不能な万能感を覚えて。
やっと感情に整理を付けて落ち着いた時には家の近所と言う有様であった。
2回目を嬉しく思いつつも、考え決めておかなくてはいけない事は多い。
理想の未来を手にすると考えても全てを変える訳にはいかなかった。
無暗に行動して考えた事を実行してしまってもそれが良い方向に転がるかどうかは解からない。
それでも今の集なら前回よりマシな選択をする事も出来るだろう。
学生時代の事を頭の記憶から引きずり出せば「後悔」はいくつも出てくるのだ。
もしもの選択肢を選ぶべきなのだと思い起こして。
考えが繋がるほどに彼女との懐かしい思い出が浮き上がって。
鮮明に記憶が駆け巡る。
「きっと出会い方が違ったら私達だってそれなりに甘酸っぱい学生生活を送れたんじゃないかなって思う時があるわ」
「ん? 学生の間に二人でやりたい事があったのか?」
「もちろん。
私だって学生時代に恋愛の一つや二つしてみたかったわ。
そう言った話題は表には出て来ないけれど。
周りは皆楽しんでいたんだから」
「それはすまなかった」
「反省したなら宜しい。許してあげるわ」
「ああ…」
今度はそんな灰色の学生生活だった何て呼ばれない為に。
「学生時代の恋愛も今ならそれなりに楽しめるかもしれない」
悪くないんじゃないかな。
思い出と後悔の記憶は2度目の学生生活をエンジョイする行動力の原動力なる。
しかしその原動力を与えてくれるはずの有珠との出会いが半分失敗している事に集は気づけないでいる。
大都市の風景は僅か数年でその景色を別の物に変えていく。
今この地は大きな転換期を迎えている真っ最中なのであった。
古くは交通の要所として発展を続けて来た故に人の出入りも激しい。
都市の中心付近には大きな川が流れており橋を隔てて景色を変える。
古い伝統のある建物も残っている。
しかし再開発の波がそれ以上の速度で押し寄せ、新しい高層築建のビルが建ち始めていた。
数年前当選した市長の構想。
すべてを内包した理想のコンパクトシティ。
そんな夢物語の様な都市を無理矢理作り上げようと発展させた様な所である。
朝早くから公共交通機関は動き出し駅には人が溢れていた。
彼等の通う私立進奏和高校はそんな都市の中で余った土地を活用して作られた。
傾斜のきつい場所を有効利用したと言えば聞こえはいいが、
斜面を造成して作られた新奏和高校は高台に作られているために、生徒は朝からちょっとした登山気分で登校する事になる。
「ははは。ちょっとばかし…坂道がきつすぎやしないか?」
過去に戻って来た集は数日間その確認に追われる事になった。
やはり当時の事を全て覚えている訳ではない。
忘れている事を思い出す必要もあった。
喜び勇んで初日こそ勢いに任せて歩いて帰ろうとした集であったが冷静に考えれば無理である。
発展した都心部から程よく離れた場所にある学校の立地条件は駅からは歩いて通える程度の場所にはあるが集の家からは遠かった。
より良い教育で世界に羽ばたく人材を鍛えあげる。
育てるのではなく鍛えると言う一風変わった理念を掲げているのは、設立に関わった者達が変わり者だったからだ。
その影響が校風に色濃く反映されていた。
都心部らしく朝から満員電車に揺られての登校が集にとっての日常であった。
設備を揃えて優秀な人材を送り出すと言う理念は進学校として確立され、通う生徒の自尊心も強い。
普通科・音楽科・機械科・情報科と言った大まかに分けられそれに則したカリキュラムを用意するほどには大きな総合高校である。
排出された有名人も多く、未来の文化の牽引役になった生徒もいた。
その成果なのか部活に参加する生徒は少ない訳でもない。
その中でも文科系の吹奏楽部の人気は高い。
音楽科があると言った要因も大きいだろう。
進奏和高校吹奏楽部は都内でも有名であり、その規模も大きかった。