領主との講和条約を無事に締結したキャトリンは自分の陣地に戻り怒りに燃えていた。理由はハッキリとしている。
ジンがキャトリンの呼びかけにも応じず、部屋から出てこない。こんな事は今までに無かったことで、第一皇子によって呼び出された彼が何らかの被害を受けたことは間違いないようだった。
「ジンの様子は?」
「昨夜から一睡もされていないようです。食事も用意したのですが、手もつけていらっしゃいません」
「……そうか」
ジンが何を見せられたのか、キャトリンは想像が出来なかった訳では無い。今までも、第一皇子の軍が街や砦を落とした際に行っていた行為については広く知れ渡っている。
そして昨夜、このコロシアでも同じ事が行われたことは既にキャトリンの耳にも届いていた。
(あの愚兄が何をしたのかは想像が出来る。だが、どう声を掛ければ良い? 軍の一面を見せられたとして、それを飲み込めないようでは……)
そこまで考えてキャトリンは頭を振る。
「とにかく、今のジンには休息が必要だ。私以外の者からの接触の一切を禁じる。皆にそう伝えておけ」
キャトリンの指示に周囲にいた彼女の臣下達が返事をする。しかし、その一方で一人の兵士が戸惑いの表情を浮かべていた。
「恐れながら、キャトリン様……。既に軍師様の部屋に通した者がおりまして……」
「……何?」
「ギシア様からの連絡によると、今回のジン様の戦果に対する報償ということで、ジン様の部屋に通したのですが」
キャトリンが表情を強ばらせる。
何を渡されたのかをキャトリンが知る筈も無い。だが、それが何であっても、その存在は今まで戦争を続けてきたジンに対して罪の意識を与えるには充分な存在になることは確かだった。
………………。
その頃ジンは、膝を抱えたまま立ち上がることもできなかった。
(あの日、もしも王女様の手をとならなければ……)
彼が思い出してしまうのは、初めてキャトリンに差し出された手を握った時の事。あの日、もしもジンが彼女の手を取らなければ、こんな事にはならなかったのかもしれない、そんなどうしようも無い考えがジンの中では巡っていた。
(そうだ……。僕が軍に入らなければ、何も起こらなかった。僕は父さんと母さんと今も一緒に生活していて、きっと貧しいけど、こんな思いをすることも無かったかもしれない……)
想像しても仕方が無い仮定の話。それでもジンはそんな妄想に縋ることしかできなかった。だが――、
「キュィ!」
「……っ」
不意に聞こえた声にジンが顔を上げる。
そして、彼は自分の部屋にいつの間にか一匹の子竜が入れられていることに気が付いた。漆黒の鱗に覆われた肌に、緋色の角と瞳。そして明らかな警戒を浮かべた眼差しで、ジンを前に威嚇をしている。
そして、竜の首には鉄製の首輪が装着され、ジンに対して近づけないように壁の燭台に首輪の鎖が繋がれていた。
「お前……、昨日の……」
竜をボンヤリと見つめるジン。だがジンはそれ以上に竜の子を直視することもできない。竜の子の向ける敵意すら、今のジンにとっては恐ろしいものだった。
「ごめんなさい……。こんなつもりじゃ無かったんだ……。ごめんなさい……、ごめんなさい……」
ジンは誰にともなく謝罪の言葉を口にする。
求められるままに帝国の侵略戦争に加担してしまったこと。そしてその結果多くの人の人生を変えてしまったことを、もうジンは自覚している。
だからこそ彼は、謝罪の言葉を口にすることしかできなかった。たとえ、彼を許す存在がこの世界の何処にもいないとしても。
「キュィ……?」
ポロポロと流れ続ける涙。そんなジンを気遣うように、竜の子がジンに声を掛ける。しかし、ジンには竜の子を直視することすら恐怖となっていて、その変化がわからない。
それでも竜の子は四本の脚で床を蹴り、ジンにむかって何事か語り掛けようとする。すると、その竜の子が繋がれていた燭台が壁から甲高い音をたてて床へと落ちる。
「……っ」
竜の子を繋ぎ止めていた戒めが解かれて、竜の子は少しフラつきながらもジンへと近付いていく。
「あっ……、あぁぁっ……」
誰もいない部屋の中、竜の子とジンの距離が近付いていく。竜の爪は鋭利で、その爪がジンに向かって振り下ろされれば、いとも容易く肉を裂いてジンの命を奪うこともできるだろう。
(あぁ……、それならそれで……かまわないかもしれない……)
竜の子の鈍く輝く爪に対して恐れを感じながらも、ジンが求めたのは罪の意識から解放されること。このまま竜の子に引き裂かれれば、きっと楽になるだろうとも感じていた。しかし――、
「キュィ……」
竜の子はジンへと近付くと、彼に身を擦り寄せて舌先を伸ばす。そして竜の子はジンの頬に伝っていた涙を掬い取る。
「え……」
子竜の突然の行動に戸惑いを覚えるジン。明らかに自分を慰めようとしている竜に対して、ジンは驚きで目を丸くしていた。
「お前……僕の事を殺そうとしていたんじゃ……」
ジンの言葉にフルフルと子竜が首を横に振る。それどころか何処か優しい眼差しさえ浮かべて、再度ジンの頬を流れる涙を掬い取り始める。
ザラついた舌先の感触はお世辞にも気持ちが良いとは言えない。それでもたった一人で振るえていたジンが感じたのは子竜の温かな体温。自分を気遣う竜にジンは確かに救いを感じていた。
「ごめんなさい……。僕が……僕が全部悪かったんだ! 僕が何もしなければ……、僕が帝国軍に入らなければ……。あの日、キャトリン様の手を取らなければ……、こんな事には……ならなかったのに……」
気が付けばジンは温かな子竜を抱き締めて泣いていた。
まだ年齢にして12歳を過ぎたばかりの子供として、許しを求めて涙を流す。しゃくり上げながら贖罪を続ける彼の抱擁に、子竜はジンを拒もうともしない。
ただジンの気が済むまでされるがままになっていた。それから数時間が経てば、いつの間にかジンは子竜を抱き締めながら安らかな寝息をたてていた。
だがジンと子竜は気が付いていなかったのだ。その部屋の扉を前に第三皇女であるキャトリンが立ち尽くしていたことに……。
………………。
ギシアは自陣に戻り、今回の策が上手くいったことに笑みを浮かべていた。そう、全ては最初から彼の計画の内だった。
第三皇女は全てを理解した上で帝国の侵略戦争に加担している。そしてキャトリンに組している多くの兵士も、自分達の領土の拡大の結果、その地にどのような被害を生むのかを理解はしているだろう。
だが、まだ幼いジンが本当の意味で、自分が指揮をとっている戦争の被害や、その影響を正しく理解しているのかと言えば、そこには疑問が残っていた。
多くの戦場を見ただろう。人の死や、仲間の死を見たこともあっただろう。だがキャトリンによって統制された帝国軍の中で、一方的な蹂躙を目にしたことは無かったはずだ。まして、敗戦国からの搾取など……。
ギシアがベッドから立ち上がれば、ベッドの上には鎖に繋がれた二人の女性が気を失うように眠っていた。
陽光の眩しさを感じながら起き上がれば、今回の策を彼に提案した執事の男が、ギシアの衣服や朝食を用意してくれていた。
「それで、あのガキは?」
「思った通りに、随分と堪えたようですね。キャトリン様の陣営には戻りましたが、部屋にこもって出てこないとか……。このまま追い詰めれば、自死を選ぶように誘導することも出来るかと……」
「そうか。ここまで上手くいくとはなぁ」
ギシアは朝食を終えて部屋を出て行く。彼の寝ていた部屋の外はひっそりと静まりかえっていて、運河の水の流れる音がやけに大きく聞こえる程だった。
開かれた陣地の中では昨夜の宴会を愉しんだ兵士達がそこかしこで眠っている。街に続く橋には兵士が置かれ、最低限の警備こそされていたが、もうコロシオの軍には帝国に逆らう事も出来ないだろうと、彼等は明らかに油断をしていた。
「ギシア様、申し上げます。第三皇女・キャトリン様が本陣にいらっしゃっています」
「ほぅ……、キャトリンが?」
そんな中、告げられたキャトリンの来訪。ギシアは彼女が自分の参謀にした仕打ちを糾弾しに来たのだと考える。しかし、報償として竜の子を与えた彼の行いを罰する事は出来ないと彼はたかを括っていた。
「よい、通せ。あの女がどんな顔をしているのかを見たい」
薄ら笑いを浮かべながらキャトリンとの面会を受け入れるギシア。そして彼がキャトリンを出迎えると、数人の兵士を共として連れた彼女はニコリと微笑みさえ浮かべてみせた。
「お兄様、おはようございます。この度は我が軍師に報償を与えてくださりありがとうございます」
自分に対して頭を垂れるキャトリンを見て、ギシアは鷹揚に頷く。おそらくはキャトリンからの罵声がとんでくるものだと思っていたからこそ、彼女の言葉は以外だった。
「その程度は構わん。信賞必罰は世の習いだ。今回の戦果に見合った報償を与えたまでのこと。お前ではとても用意は出来ないだろう?」
「そうですね。私には盗賊のように支配下においた街の物資を漁り、そこに暮らす人々を奴隷のように虐げることは出来ません。そう言った意味では、今回の件は帝国の負の一面をジンに見せる良い機会になったでしょう」
キャトリンの発言に対して、俄にザワつくギシアの本陣。
ギシアもキャトリンの言葉に明らかな侮蔑が入っていたことを理解したのだろう。次の瞬間には彼はキャトリンに怒りの表情を向けていた。
「キャトリン、貴様……私を愚弄するつもりか?」
「それ以外の言葉に聞こえましたでしょうか? 私はただ軽蔑をしているだけです。お兄様の愚かさも極まったものだと……。これまでは私もお兄様を過大評価していたようですね。まさか私のモノに手を出して、無事に済むとは思われていませんよね?」
明らかな挑発。しかし、それでもギシアは優位に立っていると思っていた。キャトリンの言動に正当性は無く、キャトリンに自分を害することなどできないと思っていたからだ。
「ところでお兄様、昨夜、このコロシオとの講和条約が結ばれたのはご存じですか?」
「あぁ……。実質的にこの領地が帝国領となったということだろう? それがどうかしたのか?」
「いえ、その中で私はここの現領主様と約定を交わしたのですよ。帝国軍によるいかなる搾取も行わない。コロシオに生活する民を脅かすことなど行わないと……」
「何が言いたい?」
ギシアの問いかけにキャトリンが腰に下げていた剣を抜く。そんな彼女の行為にギシアの護衛を務めていた兵士に緊張が走るが、それよりも早くにキャトリンの護衛をしていた剣士が彼等に対して武器を向けていた。
「お兄様の行いは明らかな講和条約を害する行為そのもの。コロシオとの戦争を引き起こすきっかけになりかねない愚行です」
「ま、まさか……」
キャトリンの言葉にギシアの表情が引きつる。彼女の視線に本気を感じたのか、キャトリンから距離を取ろうと下がっていくギシア。だが、キャトリンはギシアを逃すつもりは無かった。
「私のモノに手を出したことを……。地獄で後悔するが良い! お前は帝国の誇りを傷つけた害虫だ!」
高々と掲げられた剣。そして白刃が振り下ろされれば、その刃はギシアの身体を袈裟懸けに切り裂き、ギシアの身体はコロシオの運河へと落ちていく。
そしてキャトリンはギシアを切り裂いた返り血を浴びた身体で、冷やかに街に流れる運河を見つめていたのだった。