その女中は、今は亡き先代領主が領地を治めていた時から、領主の屋敷に勤めていた。彼女の仕事はあくまでも屋敷の管理であり、領地の運営などについて知ることはない。
先代領主が無くなって領地のほとんどが荒れ果てた後も、彼女は何とか町を復興させようとしている町の人々と共に町を復興させた一人だ。
だが、そんな彼女は今このままでいいのかと葛藤を覚えていた。
町が復興していく中、屋敷にやって来た領主は先代領主を知っていた彼女にとっては、とても信じられないような横暴な人間だった。
町の人々に重税を課し、私腹を肥やし、屋敷の中には趣味の悪い調度品がいくつも並べられていった。
それでも彼の行った領地についての不正を黙っていたのは、その不正が町の復興の一助になるかもしれないと思っていたからだ。
本来なら戦争で亡くなった両親から相続するはずだった多くの土地。アンゴラはそれを孤児達に渡すこともなく、不正に自分の領地として簒奪し、その農地を元に商売を始めたのだ。
元商人と言うこともあって、貴族家やいくつかの商人との伝手もあったのだろう。町の特産品として造られた紅花を利用して、彼の商売はうまくいってるように見えた。
だが、そんな彼が町の女性達を情婦のように扱い始めた時には耳を疑った。一領主が権力を利用して、そのような事をするなどとは考えらえなかったからだ。
勿論、アンゴラを諫めた者もいなかったわけではない。
しかし領主に歯向かったものは次々と暇を出されて屋敷から去っていき、或いはイメダ領はもう駄目だと見限って屋敷を去った者も多かった。
そして代わりに屋敷には領主に従う従者や、まるでゴロツキのような私兵が増えていき、何人もの町に女性が屋敷に連れてこられた。
気がついた時にはもう手遅れだった。
領主の不正を知っているのは、もしかしたら自分だけなのかもしれない。しかし、今や町の人々にそれを伝えても何にもならない。
町の人々はまるで領主の奴隷のように税の徴収に追われる日々。男たちは働き手として、女性たちは領主の慰み者として、抵抗する気力さえ削がれて、従順に従うことしかできなくなっている。
しかし今日、領主の屋敷に訪れた貴族令嬢は違った。
(あの方はなんと言っただろう……。そう、……ミラ様。帝国領東のフォルン家の令嬢様)
金色の髪を持った貴族令嬢は、この町の実情を知って、領主の不正をいとも簡単に暴いてしまった。
そう。領主の不正など、領地運営に携わったことのある本物の貴族であればあっさりと白日の下にさらすことができるのだろう。
ミラは彼女に、この真実は私に預けて欲しいと言っていた。
もしかしたら彼女は帝国の監査官に現状について報告をしてくれるかもしれない。だが、本当にそれでいいのか?
もしかしたら来ないかもしれない、誰かの助けを待つだけでいいのだろうか?
監査官が来たとして、アンゴラがその人を丸め込まない事など考えられない。町の人々から巻き上げた税を使えば、買収することも考えられるだろう。
そして今日もまた一人の女性が屋敷を訪れる。彼女の名前は確か、ライカ。町の教会で孤児院を開いている女性だった。
おそらくは重い税金を納めることができなくなったのだろう。けれどこれも仕方が無いと思っていた。自分には何もできないのだから。
そんな中、不意に屋敷中に、それどころか町中に響き渡ったのは一頭の竜の咆哮。その声を聞いた時、資料室を片付けていた女中もまた、選択を迫られていた。
「今の声はなんだ?」
「どうやら昼間の竜が屋敷に襲撃に来たらしい」
「領主様から竜と、子供達を迎撃しろと命令だ。殺してもいいと言われている」
廊下を行きかうゴロツキのような私兵たちの声。彼らの話す内容が彼女には信じられなかった。
きっと子供たちは、今日屋敷に税の為の身体を売りに来たライカを助ける為に来たのだろう。それなのに子供達を殺してもかまわないという命令は間違っている。
(どうすれば……。私は……)
何も知らなかった。何も気づかなかった。
そう自分自身に言い訳をして、この資料室に閉じこもっていれば、きっと事態は勝手に収束するだろう。子供達や黒竜は私兵によって殺されて、領主の悪評がまた一つ立つことになるだけだ。
(ですが、また私はこれを見逃すのですか?)
何かができるとも思えない。何の力もない、一人の女中。
しかし彼女は選択する。今まで閉じこもっていた資料室のドアノブに手を掛ければ、いつもよりもドアノブの感触が冷たく感じる。そして廊下へと出た時、屋敷の中で騒いでいた私兵たちは既に屋敷の正面玄関に出て行った後の様だった。
………………。
一方で屋敷の門に突撃したクロと子供たちは、クロが屋敷の門を突進で壊したことによって、屋敷の敷地内に入り込んでいた。
「いいぞ、クロ! 屋敷の壁をぶち壊して、あの領主の野郎を探すんだ!」
「ウン、任セテ!」
門から屋敷の玄関までの距離を走り、壁に向かうクロ。子供達が自分から飛び降りていくのを確認してレンガ造りの壁へと突進した。
たった一度の突進では窓ガラスが割れて屋敷の壁に大きくひびが入ったが、完全に崩れるまでには至らない。
(ソレナラ、モウ一度……)
大きくヒビの入った壁に向かって、再度突進をしようとするクロ。だが、そんな彼女を牽制するように現れたのは、武器を手にしたアンゴラの私兵たちだった。
「この竜、昼間の!」
「怯むな! 相手は竜一頭とガキ達だけだ!」
突然の襲撃に玄関口に現れた私兵は十人にも満たない。それでもまともに戦えば、クロと子供達だけで相手ができる人数ではない。
「どうしよう、オリバー!」
「正面からぶつかるな! 三人一組になってバラバラに逃げるんだ。屋敷に入ってライカ姉ちゃんを助けることだけ考えろ!」
オリバーの指示で子供達が三人一組になってそれぞれバラバラに逃げていく。全員、普段からオリバーと一緒に訓練をしていた子供達。
戦いの経験など無いが、走るスピードや今回の動き出しなどは既に何度も秘密基地で打ち合わせ済みだった。
「俺たちは屋敷に風穴を開けるぞ!」
玄関に残ったのはクロとオリバーだけ。集まった私兵がそれぞれ子供達を追いかけるように数人いなくなる。
「ココハ、クロガ!」
屋敷に響く再度の咆哮。
クロの咆哮を合図にオリバーが武器を手にクロを止めようとしている男達へと向かう。
「調子に乗るな!」
「ぐっ……!」
しかし只の木剣を手にしただけのオリバーではまるで歯が立たない。
「オリバーハ、先ニ屋敷ニ入ッテ!」
「だけどクロ!」
「クロナラ大丈夫!」
数人の男達に囲まれて刃を向けられたクロは、爪を振って刃を振る男たちを薙ぎ払う。その姿を見てオリバーが割れた窓から屋敷に入ると、クロは再度咆哮した。
「オ姉チャンヲ、返セェェェェッ!」
ライカやオリバー達と出会ったのは今日の事だ。そんな彼らの為に命を掛けることを、きっとジンやミラなら反対しただろう。
だけどクロは子供達を見捨てられなかった。
両親を亡くして、ライカと一緒に暮らしているオリバーやレインに、クロは自分自身を重ねてみていたからだ。
「ガアァァァァァァァァツ!」
クロの咆哮にも怯まず、振り下ろされた刃が黒竜の鱗に突きつけられる。竜種の鱗は硬く刃は簡単には通さない。しかし、それでも相手の人数が多すぎた。
「いけるぞ! この竜はまだ弱い!」
「囲め。こいつさえ倒してしまえば、後はガキだけだ!」
「ジワジワと鱗をそぎ落としてやれ!」
人よりは圧倒的に強いクロ。しかし、その力はまだ発展途上で、ジンはクロに戦うことを求めない。大人との本当の戦闘など、殆ど初めてだったのだ。
戦いの経験が無いクロは徐々に疲弊していく。爪を振り回せば、距離を取られて矢を打ち込まれ、身を護る鱗が削がれていけば、剣戟から身を守ることもできない。
クロの身体から赤い血が流れ始める。
(あぁ……やっぱりクロ……まだまだ駄目だ……)
そしてついにクロはその場で倒れてしまった。
「へへっ、てこずらせやがって」
そんな竜を見おろす数人の男達。そして彼らが剣を振りかぶり、弱り切ったクロにとどめを刺そうとしたその瞬間だった。
「はぁぁあああああああっ!」
男達とクロの間に走る銀色の光。その光が男達の手にした剣を弾き飛ばし、クロを庇うように男達の前に立ちはだかった。
「誰……、兄様……?」
霞む視界でクロが目を開ければ、彼女の目に映ったのは金色の髪を束ねた、長身痩躯の槍を持った男性。帝国軍兵士としての装備を身に着けている。
クロを守った男はゴロツキのような私兵たちを前に槍を手にして立ちはだかり、そして倒れたクロを見て小さく笑った。
「君がクロだね。なるほど、ジンに訊いた通りの子竜のようだ。大人数相手によく頑張った」
そう言いながら槍を構えた男。
その男性に取り囲んでいた私兵たちの表情が引きつる。明らかに彼らの前に立っている男は明らかに自分達よりも腕の立つ実力者だとわかっていたからだ。
「アナタハ?」
「俺か? 俺はハネット。帝国軍軍部に所属する兵士だよ。訳あって今回はこの君達に協力させてもらう。それがジンからのお願いだからね」
言いながら臨戦態勢に入るハネット。そしてそんな彼に遅れて、二頭の馬が壊された門扉を越えて屋敷の敷地内へと入ってくる。
「クロ!」
馬から飛び降りたジンが、クロの元へと駆け付けたのだった。