ジンは全速力でクロの後を追っていた。
しかし、屋敷まではまだ距離がある。屋敷にたどり着くにはまだ時間がかかるだろう。
それなのに屋敷の方角からはクロの咆哮が聞こえてきた。
「あっちはもう屋敷に到着しているのか」
こうなれば、もはや手遅れだろう。
ライカの身を案じた子供達も行動を共にしているのならば、今頃は屋敷で暴れているのかもしれない。だが、屋敷には領主の雇った私兵もいるという。
そんな私兵を相手に子供達だけで何かをできるとも思わない。領主の屋敷を襲ったのだ。最悪の場合は殺されたとしても何も言えない。
「こんな時には、士官学校でちゃんと鍛えてこなかった自分が恨めしいな……」
自分とは違ってしっかりと持久力を鍛えていた同期の事を思い出してしまう。
さすがにクロの咆哮は町の人々にも聞こえていたのだろう。そこかしこで家々の明りが付き始め、領主の屋敷での騒動が町の人々に伝わるのも時間の問題だ。
そうなれば事態がどう動くのかはもうわからなかった。
「ジン、この騒ぎはやっぱりお前が原因か!」
そんな中、不意に聞こえた声。
(この展開は予想していなかったよ……)
目の前に立つ彼らを見て、ジンが目を丸くする。だが、アンゴラからクロや子供たちを助けるには、もうこの手しかないとジンは叫んだ。
「クロを助けてくれ!」と――、
一方で教会に残されたミラはレインを立ち上がらせると彼女の手を引いて領主の屋敷を目指していた。
(やっぱり、ジンの馬鹿……。クロの事になると正常な判断ができなくなってる。ジンや私の脚じゃ、どれだけ走ったって絶対に間に合う筈がないのに……)
非常事態にも関わらず、ミラの判断は的確だった。
まっすぐに屋敷に向かったところで、とてもクロに追いつける気はしない。だからこそ彼女が向かったのは町の商店などが並ぶ広場だった。
町の人々にいくらか金銭を積めば、馬を借りることもできるだろう。馬の脚があれば、これ以上騒動が大きくなる前に仲裁に入ることもできるかもしれない。だが――、
「遅かったか……」
町に響き渡るクロの咆哮。
そこかしこで町の人々が家から出てきて何事かと話し始める。そして、その話の中に黒竜が領主の屋敷に向かって走っていったという言葉が広まっていった。
どうやらクロが子供達を乗せて走っていく姿が見られていたらしい。
「もしかして、あの竜がアンゴラを倒してくれるんじゃ……」
「きっとそうだ。アンゴラの横暴を、きっと竜が何とかしてくれる」
「俺の妻を助けられるかもしれない」
そんな中で聞こえてきた町の人々の言葉。その言葉を聞いた時、ミラは頭の中が熱くなるのを感じた。
(駄目だ……。今は熱くなる時じゃない。こんな時こそ冷静に……、冷静にならないと……)
自分自身を必死に抑制しようとする。しかし、そんな彼女の思いはあっさりと崩れ落ちる。そのきっかけは一人の少女の声だった。
「お姉ちゃんを……、ライカお姉ちゃんを助けてください!」
見れば、今まで泣き続けていたレインが町の人々に叫んでいたのだ。
「あの子は孤児院の……」
「そうだ。レインちゃんだよな?」
「ライカさん? シスターがどうしたんだ?」
彼女の悲痛な訴えに町の人々がレインに訊ねる。だけどレインはもうしっかりと今の状況を説明はできない。
「ライカお姉ちゃんは……税金が払えなくて……領主の屋敷に……」
それでも彼女が途切れながらも口にした言葉に、町の人々は状況を察したのだろう。だが、彼らがレインに掛けた言葉にミラは言葉を疑った。
「だ、大丈夫だ。きっとライカさんも竜が助けてくれる」
「そうだよ。あの竜はライカさんを助けるために来てくれたんだ」
「竜に任せておけば大丈夫だ」
きっとレインを慰める為に掛けた言葉なのだろう。だが、その言葉を聞いた瞬間にミラはプツッと自分の中で何かが切れた音を聞いた。
「ふざけんじゃないわよぉぉぉぉっ!」
そして気が付けばミラは町の人々に向かって叫んでいた。
「ミラ……お姉ちゃん?」
その様子にレインが目を丸くしている。しかし、ミラはもう言葉を抑えられなかった。
「あんた達、竜が助けてくれるって本気で言ってるの? あの竜が本当はどんな子かも知らないで……、全部解決してくれるって本気で思っているのかって聞いているのよ!」
ミラの言葉に町の人々が静まり返る。しかし、誰もミラを直視ができない。本当はわかっているのだろう。
そんな都合のいいことがあるはずないと。
「あそこで……、領主の屋敷で吠えている竜は、本当はまだ何にも知らない子供なのよ!
同じ年頃の子供と遊びたくて留守番もできないし、まともな家事の手伝いもできないような子供なの!
身体が大きな竜にはなれるけど、過保護なお兄さんのおかげで、今まで一度だって荒事に首を突っ込んだことが無い子供なのよ!
そんな子供が後先考えずに、領主の屋敷に突っ込んだだけ!
特別な力なんて何もない! それなのにどうして全部竜が解決してくれるなんて思えるのよ!」
ミラの言葉に誰もが言葉を失う。
一度にまくしたてて肩で息をしているミラの隣で、レインだけがしゃくりあげるように泣いていた。
「あんた達……、領主のことが憎いんでしょう?
この町で好き勝手にしている領主を許せないと思っていたんでしょ?
それなのにいつまで被害者としてふるまっているつもり?
いつまで他人任せでどうにかしてくれるって思っているつもり?
この町の子供達だけなの? 本気で領主を倒すんだって言っていたのは!」
最初は町の為だと耐えていたのだろう。
その思いを裏切られて、権力や暴力で虐げられていたのだろう。自分達の大切な家族をいいように使われて、それでも何もできない無力感に打ちのめされていたのだろう。
だが幼い日からたった一人でも自分の領地の為に働いていたミラにとっては、彼等が全てを諦めて、投げ出しているようにしか見えなかったのだ。
「何もできないなら! 何もするつもりもないなら、そこでいつまでも他人任せでいじけてなさい!
ちょっとでも、まだこの子の気持ちに応えられるって言うのなら、あの竜に続きなさいよ! あの馬鹿な子竜は、何にもできない子供なんだから!」
ミラの言葉に誰も何も言えない。
ミラはそんな町の人々を前に一人の男の前に行くと「馬を貸しなさい」と命令する。そしてまだ動けない人々の元にレインを残して、馬に乗って町の広場から領主の屋敷へと走り去った。
「何なんだ……、あの女……」
「確か、教会に来た貴族令嬢だったんじゃないのか?」
「ああ、そうだ。子供が領主を殴った時に仲裁に入った貴族令嬢だった筈だ……」
昼間の町の騒ぎは町の人々にもう伝わっているのだろう。走り去ったミラを見送った大人たちは後味の悪さを覚えながら言葉を交わす。
「そうだよな……、きっと今回の騒ぎも仲裁をするつもりなんじゃ……」
「うまく丸く収めてくれるつもりなんだろ?」
「そうに決まってるよな?」
未だ人々の間に漂う不確かな気持ち。そんな中、町の人々の中に涙を流す声が聞こえる。
それは小さな子を抱いた女性だったのかもしれない。
大切な妻を永遠に失った一人の男だったのかもしれない。
身体に消えない傷が残った女性だったのかもしれない。
「本当にそれでいいの? あのお姉ちゃんが助けてくれるの?」
しゃくりあげていたレインが町の人々に問いかける。そして彼らは一つの選択を迫られた。