国境の教国の砦とフォルンの交渉が行われて数日後――、フォルン家には正式に教国の使者から交易を結びたいと返答があり、その後はフォルンの街でも正式な不可侵条約の締結や、交易の取り決めなどで会合が開かれて、ミラとセレストはその対応で奔走していた。
ジンも当然、ミラに雇われている身の為、彼女の指示に従って忙しくすることになると思っていた。
しかし、実際にジンができることはほとんど無い。
「軍事行動についてはどうか知らないけど、行商人としての経験は全然足りないでしょ。足手まといだから屋敷の手伝いでもしていて」というのがミラの意見。
その為、ジンは今日も今日とてメイド長のアヤの指示に従って、選択に勤しむ。そしてクロの役目はジンが洗った洗濯物を数メートル離れた洗濯籠に運ぶことに落ち着いていた。
(帝国に居場所がバレたから、すぐにでもフォルンを離れるべきなんだろうが……)
「これで戦争を未然に防いだ立役者なんて……、信じられませんね」
「いや、俺だってまさか下働きに逆戻りするとは思っていなかったよ」
ジンの様子を見に来たアヤが嘆息する。
洗い終わって水気を切った洗濯物をクロに渡せば、クロは物干し竿の傍に置かれた籠に服を入れていく。
そしてジンの元に戻って、ニコニコと次の洗濯物を待っていた。
正直、クロのいる意味はほとんど無い。だが、彼女に仕事を任せれば屋敷に被害が出る可能性があることをアヤも重々承知している為、クロが満足しているならと口を出すことはなかった。
「それで、何のようだ? 人手も足りていないのに、何の用も無く俺の様子を見に来た訳じゃないんだろ?」
「はい、その通りです。セレスト様よりお呼びするようにとの指示があり、呼びに参りました」
「俺を? またなんか面倒ごとじゃないだろうな……」
ジンの言葉に肩を竦めてみせるアヤ。どうやら何も詳細は聞いていないようだった。
「すぐに行った方が良いのか?」
「そうですね。それほど急いではいられないようでしたが、こういうことはすぐに対応した方が良いでしょう」
「そうか……」
まだ洗濯物の途中なのだがとジンが手を止める。するとその瞬間、クロは瞳を輝かせてジンに言った。
「だったら兄様、残りの洗濯物はクロに任せてよ」
「「え……」」
クロの言葉に表情を引きつらせるジンとアヤ。しかしクロはそんな二人の反応に気が付いていないかのように胸を反らす。
「兄様のお洗濯をちゃんと見ていたからね。クロにももう選択の仕方がわかったよ。だから後はクロ一人でも大丈夫。兄様はセレストさんのところに行っても大丈夫だよ」
「……そ、そうか?」
かなり不安になりながらジンがアヤの様子を伺い見る。
「大丈夫です。急ぐ必用はありません」
アヤは澄ました顔で前言を撤回した。
「あれ? でもさっきはすぐに行った方がって……」
「通常はそうした方がいいですね。ですがジンさんも忙しい様子……。セレスト様の元に向かうのは洗濯物が終わってからでも良いでしょう」
「そうなの?」
「はい、洗濯物は極めて重要な役目ですから」
平然と嘘をつくアヤに対して、クロは「重要なんだぁ」と納得しているようだったが、しかしジンは「良いのか?」とクロに聞こえないようにアヤに訊ねる。
「致し方ないでしょう。面会が終わった時に何枚の衣類やシーツが使い物になっていないのかを考えれば、先に終わらせていただいた方が私としては助かります」
「そ、そうか……。なんかアンタも相当素が出てきたな」
「お嬢様に影響されたのかもしれません」
セレストとミラの話し合い以降、ミラは色々と吹っ切れたようで、最近は外部の使者などとの交渉の以外、屋敷では令嬢としての振る舞いをする事も少なくなり、ジンやアヤについては素で接することが大君っていた。
しれっと答えるアヤに苦笑を漏らしつつ、ジンは急いで洗濯物を終わらせていく。気が付けばアヤもジンを手伝っていて、程なくして三人はセレストの執務室へと向かったのだった。
………………。
「遅いわよ。ジン」
執務室に入るなり、聞こえてきたのはミラの不機嫌そうな声。そして部屋の主である筈のセレストは、そんな彼女の態度を諫めるでも無く、どこか微笑ましそうに娘の様子を見ていた。
「急に呼び立ててしまってすまない。タイミングが悪かったかな?」
「いえ、そういう訳でも無いんですが……」
「兄様は洗濯って言う重要な役目をしてくれていたんだよ」
言葉を濁そうとするジンにかまわず、どこか誇らしそうに胸を張るクロ。その一言で状況を察したのか、ミラはそれ以上小言を漏らすこともなく、セレストは小さく笑っていた。
「俺の事はいいです。それで……、何か用があるって聞きましたけど、また何か問題でも?」
「いや、そういう訳じゃない。今回は君に依頼があるんだ。フォルン家のお抱えの商人としてね」
その言葉に目を丸くするジン。まさかフォルン家から商人としての依頼が来るとは思っていなかったのだ。
「セーネの村まで買い物に行けって訳じゃないんですよね?」
「ああ、勿論。場合によっては数ヶ月以上かかるかもしれないと考えている事業だ。元々はミラの発案なんだがね」
セレストの言葉を引き継ぐようにミラがジンの前に立つ。
「ジン、魔法石については知っているわね?」
「魔法石? それなら知らない方がおかしいだろう。炎や水、電気の性質を持つ石で、それなりに高値で取引をされる商品の筈だ」
言いながら思い出すのは帝国軍での経験。
魔法石は戦争の道具、魔法の武器にも使われていて、場合によっては敵地に火を放ったり、雷の雨を降らせたりと使われている。
もっとも、そのような使い方は例外であり、魔法石の多くは火をおこして暖をとったり、長期の度において水を確保したりと、生活に根ざした使い方をされている。
「知っての通り、フォルンの地には岩トカゲや炎の魔獣が多く分布しているでしょ。その上で最近は岩トカゲを狩っていたんだけど、その岩トカゲから大量の炎の魔法石が確認されたの」
おそらくは魔獣である岩トカゲが魔法を体内に取り込むために魔法石を食べていたのだろう。討伐された岩トカゲの体内には多くの魔法石が取り込まれており、その処分が追いつかなくなっていたらしい。
「それで? まさか魔法石を売ってこいとか? 帝国軍に売って来いって話なら断わらせて貰う」
真っ先に考えたのは、魔法石の軍事利用。
かつて帝国軍に所属していた彼が持ち込めば、おそらくは軍は魔法石を買ってくれるだろう。だがその先にあるのは魔法石の軍事利用だ。
しかし、そのつもりはフォルン家にも無かったようだ。
「早とちりしないで。別に貴方に帝国軍とのパイプを繋げなんて言うつもりは無いわ。私がお願いしたのは、多くの魔法石を帝国の西を中心に販売するルートを作る事よ」
「西に? あぁ……、なるほど」
フォルンは現在、南方の街と帝国の首都を繋ぐ交易の中心地となっている。だが、フォルンが魔法石を帝国の首都に持っていけば、炎の魔石は軍事利用されるだろう。とは言え、教国に対して輸出をするわけにも行かない。南方の国は温暖で、そもそも需要が少ない。
そういう意味では西の国ではまだ需要がありそうだった。
「西の地はつい最近まで帝国との戦争が続いていた地域もあるわ。復興のためにも魔法石を必要としている村や町も多いでしょうし、だぶついた魔法石の販売ルートを確保することができれば、西の商品をフォルンに輸入もし易くなる。貴方にお願いしたいのは、サンプルとして魔法石を運ぶ荷運び人としての仕事と、西に行く間の護衛。クロが竜車を引くのなら、雇うや盗賊に狙われる危険はグッと低くなるでしょう」
「荷運びと護衛って……。まさかミラ、お前も一緒に来るつもりか」
「当然でしょ。あなたに交易の商談ができるの? 相手も商人になったら、いいように丸め込まれるのがオチだわ。そうでなくても、三流武器屋に騙されて、どう考えても怪しい武器を仕入れた事もあるのに」
「い、いや……、あれはだなぁ……」
ジンが何とかミラの同行を断わろうとする。しかし、ミラは考えるつもりは無さそうで、父親であるセレストに視線を送ってもみても、既に彼もミラの説得は諦めていてるようだった。
「そういう訳でジン君、クロちゃん。ミラの護衛と荷運びの仕事として彼女と同行をしてくれないか? 私としても見ず知らずの商人に任せるよりは、君達が同行してくれた方が助かるんだ」
「それはわかる。だけど……クロは……」
セレストの言葉にジンがクロの様子を伺い見る。しかしクロはむしろ瞳を輝かせてやる気を見せていた。
「行こうよ、兄様」
「本当に良いのか?」
「勿論だよ。兄様とまた旅ができるなら、クロは頑張るよ!」
クロはやる気を見せているが、できることならジンとしてはクロを西方に連れて行くのはまだ早いとも思っていた。
西はそもそも彼が軍事作戦を立案して帝国に併合された街が多い。その上、西北には山岳地帯も広がっており、クロの産まれた地竜の集落もその中にかつてはあった。
戦争や帝国の侵攻の傷痕を見せるのは、まだ早いと思っていたのだ。
だが同時にこれはチャンスでもある。もしもまた地竜の群に出会うことができれば、少なくてもクロには自分の仲間がいるのだと示すこともできる。
今後のことを考えれば、クロの為になる話でもあった。
「仕方ない……。但し、条件は付けさせて貰う。進む際の侵攻ルートについては俺に任せてくれ。比較的安全な町を経由して、交易ルートを選ばせて貰う。それでも良いのなら今回の仕事を引き受ける」
「いいわ。その条件なら私としてもお願いしたいくらいだしね」
ミラが了承したことによって、ジンはフォルン家の依頼で帝国の西部へと向かうことが決まり、数日後には出立の用意を終えて屋敷を出る。
「それじゃあ頼む、クロ」
「ウン、任セテ」
竜化したクロが引く竜車。御者台に座るジンが手綱を握り、白い幌を風に揺らしながらフォルンの荒野を離れて西へと向かう。荷台にはサンプルとして積んだいくらかの魔石。そしてミラも荷台に乗せられていた。
ミラが荷台の中から遠ざかっていくフォルンの地を見つめる。そして荒野に立ちのぼる陽炎に街が見えなくなれば、彼女は頬を伝う汗を拭った。
「いつになくしおらしいじゃないか」
感傷に浸っている彼女に声を掛ける。帰ってきた「うるさい」という言葉が少し鼻声になっていたので、ジンはまっすぐに行く手に視線を向けていたのだった。
………………。
ジンがフォルンを後にする頃、カロルは帝国第三皇女・キャトリン=ヘルテラに謁見していた。
「なるほど。あの子は今……フォルンにいたのね」
「はい。様子は以前と変わりなく、軍に戻るように要請しましたが、今は戻るつもりはないようです」
「そう……、あの子がねぇ……」
そう呟く彼女の視線が向かうのは帝国の地図。北と西にまだ黒い色が残る地図を見ながら、彼女はおかしそうにクスリと笑った。
「よっぽどあの黒竜を大事にしているのね、帝国領内のもっとも影響の少ない南を中心に活動をしていたんでしょうね」
言いながら彼女は地図の上で思考を巡らせる。次のジンの一手を。彼女にとって、これは鬼ごっこのようなものだ。但し、相手は自分と同等か自分以上の思考を持っていることを彼女は理解していた。
「如何しますか? 今からでもフォルンに兵を派遣して、勅命としてジンを呼び出すこともできるでしょうが……」
「無駄よ。おそらくは遠からずフォルンを離れるでしょうね。それに、あの子が戻らないと決めたのなら、勅命書を渡したとしても戻る可能性は低い。それ以上に、亡命でもされたら厄介だから、このまま領内で捕まえてしまいたいところね」
「ならば捜索はやはり南方を中心に……」
「それも違うわね」
キャトリンが白く塗った土地に視線を送り、そして彼女の目がとまったのはある山岳地帯。おそらくはそこが彼の目的地なのだろうと彼女はあたりをつけていた。
「西に向かえる兵士を何人か見繕って。抵抗する気は無いだろうから小隊規模で構わない。ジンと面識のある兵士を中心にね」
言いながら彼女は紙を用意させると、その上に筆を走らせる。
そしてカロルがその紙を受け取ると、彼女の文字でジンの予想ルートがビッシリと書き連ねられていた。
(これを報告を受けた一瞬で……)
ゾクリと背中に走り抜ける悪寒。
それを感じながらカロルは彼女との謁見を終える。そして彼は軍部に向かい、ジンと面識のある兵士に声を掛けることになったのだった。