領主セレストとの対話の翌日――、今日も今日とて屋敷の雑用を押しつけられて、今日も洗濯に勤しむジン。そんな彼のすぐ近くでは右手だけを竜に戻したクロが裏庭に大穴を掘っていた。
生ゴミを捨てられるだけの穴を掘り起こしているのだが、人が一人か二人入っても余裕のありそうな大穴が裏にはいくつも空いている。ここ数日は穴掘りに凝っているらしいのだが、洗濯物の衣類に大穴を開けられるよりはマシなので放置していた。
「只今戻りました」
昼過ぎになり、ようやく屋敷に戻ってきたアヤ。
どうやら無事にセーネの街で医療品の購入はできたらしいのだが、疲れた様子の彼女。現在の街の混乱状態を見て、更にドッと疲れが出てきたようだった。
「これ以上状況が悪くなることは無いと思っていたのですが、まさか帝国軍の中隊が駐留することになるなんて……」
「ああ、朝からえらい騒ぎだ。朝から屋敷には兵士達を街の外に追い出してくれっていう陳述書やら、商業組合のお偉いさんやらが押し寄せてきている。ミラも朝から対応に追われているよ」
「帝国軍に街から出て行って貰うことは……?」
「無理だろうな。皇帝の勅令書に、教国からの宣戦布告への牽制とまで言われれば、おいそれと軍に帰って貰うこともできないだろ? カロル……、軍の中隊長が勅令書を置いて行ってくれて助かったよ」
朝から屋敷に押しかけてきた者には、特に皇帝の勅令書が効力を持っているらしく、皇帝の命令ならと帰ってくれてはいる。それでも街中はやはり混乱状態に近いようだ。
「そこかしこで、街の人達と帝国軍の兵士との小競り合いも発生しているようですよ? 街の衛兵さん達も朝から街中を走り回って、とりあえずは仲裁をしているそうです」
「まさに内憂外患だな。この状態で教国が攻めてきたら、あっさりと陥落するんじゃ無いか?」
「縁起でも無いことを言わないでください。ジンさんが言うと冗談に聞こえませんから」
深々と溜息を吐くアヤ。すると、ちょうどそこに来客の応対を終えたミラまでもが裏庭に避難するようにやって来た。
「お疲れ様。今ので四人目か? 今度は誰だ?」
「宿屋の組合の代表。宿代の請求先について訊きに来たらしいけど、それなら帝国軍の中隊長さんに請求してって言っておいた」
「いいのか? 正式に帝国が支払うとは決まっていないんだろ? アイツも一応は財務と交渉するだろうけど……」
「支払えないとか言ったら取り立てるから大丈夫」
「そ、そうか……」
低い声音、すわった目で応えるミラ。
およそ令嬢とは言えない様相で、冗談では無く本当に支払うまで取り立てを続けるのだろう。胸の中でそっとカロルの交渉が上手くいくことを祈りながら、三人で小休止をとる。
既に状況は考えられる限りで最悪の状態に近い。だからこそ、ミラもジンも油断していたのだ。これ以上状況が悪くなることは無いと、どこかタカをくくっていたのだから。
「お嬢様、大変です! 旦那様が……!」
小休止をとっている三人の元に駆け込んでくる男性の使用人。訊けば、セレストが街に出たなどと言ったのだ。
「お父様……何をするつもり? この状況で街中に出たら……」
「最悪、街の人達に私刑にされるかもな。ミラはここに居てくれ! クロ、俺がいない間はミラを守る んだ。俺とアヤさんでセレストさんを追いかける!」
言うが速いか、ジンはアヤを連れて屋敷を飛び出して街中へと向かう。そのまま二手に分かれて探すつもりだった。
だが二人が別れるまでも無く、セレストの姿はすぐに見つかる。
彼がいたのは、街の中心。オアシスのある中央市場の壇上の上で、彼を取り囲むように街の人々が集まっていたからだ。
「フォルン領の皆さん、私の話を聞いて欲しい」
壇上の上にあがり、多くの人に囲まれる中語り掛けるセレスト。
しかし彼に向けられる視線は好意的なものは少ない。どこか睨みつけるような敵意を持った視線や、値踏みするかのような無遠慮な視線までもが向けられている。
彼の話す内容次第では、今にも暴動が起こりそうな剣呑な空気が周囲には広がっていた。
「私、セレスト=フォルンは領主として、今回は街に帝国軍を招き入れたことを説明させて貰う為、公の場に立たせて貰った」
セレストが演説を始めると、街の人々がヤジを飛ばす。その口調は乱暴で、どこからか売国領主という言葉まで聞こえてくる。
しかし、セレストはそんなヤジを気にすることも無く彼等に語り掛けていく。
「知っての通り、ここ数ヶ月で教国との国教沿いでの情勢が悪化の一途を辿っている。ここにいる人達も国境沿いで小競り合いが続いていることは知っているだろう」
彼の言葉にざわめきが大きくなる市場。街の人々は不安げな表情を浮かべている。
「だが、安心して欲しい。帝国は教国からのフォルンを守る為に帝国軍を派遣してくれたのだ。一時、街に混乱をもたらす可能性はある。だが、私はこの街を戦禍から守る為に彼等が駐留することを認めたのだ。今回の件は、全て私が領主として決めたことだ!」
彼の言葉に静まりかえった広場。だが――、
「これ……泥を被るって……そういうことか」
ジンだけはこの状況が何を意味するのかを理解していた。
「私はフォルン領領主として宣言する。帝国軍が派遣されたこの機会を逃す手はない! 今後のフォルン領の憂いを払う為に、私は現在駐留中の帝国軍中隊と共に戦場へと向かう。フォルン領領軍は教国との長い冷戦状態に終止符を打つことを宣言する」
セレストの宣言にどよめきが広がる。
「ジンさん、これって……」
「セレストさん、今回の軍を招致したことも、全部自分の判断にするつもりだ。牽制の為に軍が派遣されただけなのに、それを利用して教国に宣戦布告をするって言っているんだよ」
「どうしてそんなことを。戦争なんてしたら……」
「帝国軍を街から追い出す理由にはなるだろ? あの人、この状況で盤面をひっくり返したんだよ。おそらく、この演説を聴いている野次馬の中に教国の人間がいるはずだ。そいつがこの演説の内容を国に持ち帰ったら……」
ジンの言葉に青ざめるアヤ。
しかし、もう演説を止めることは出来ない。ざわめきは大きくなり、そこかしこからセレストの判断を賞賛する声まで上がっている。
こうなればもう帝国軍としても、ただ駐留するだけなどと言うことはできないだろう。領民の声に押される形で戦場に向かうことになる。
(だが……戦争になるってことは……)
ジンの脳裏によみがえる、かつての戦場の記憶。それをこの地で再現することだけは避けたかった。
「街から離れられる者はセーネや各宿場町への避難も考えて欲しい。だが街を離れることができないものは安心して欲しい! フォルンの街は我々領軍と、帝国軍が命を掛けて死守することを約束する!」
セレストの演説の最中にも行商人の多くが既に荷造りを始める。だが誰もが街を離れることができるわけではない。街に暮らす人々に安心するように語り掛けるセレスト。
行商人が離れることで街は交易地としての機能を一時的に失うが、それよりも彼は領民を安心させることを声高に叫び、領民の言葉を背に浴びながら衛士に守られて壇上から降りていく。
「ジン……、やってくれたな」
そして、そこに現れたのは「参った」と困惑の表情を浮かべた帝国軍の中隊長であるカロルだった。
「まさか軍まで巻き込むとは思わなかったぞ。今回の行動がどういう結果になるか、まさかお前が知っていない筈がないよな?」
「今回のことは俺の企みじゃ無い。全部、領主のセレストさんが選んだことだよ」
「そうか……。まあ、首謀者なんて今はどうでも良い。これで俺達帝国軍としても引くに引けなくなった。仮にここで帝国軍が動かないなどと言うことになれば、軍の信用は失墜する。それだけは容認できん」
「なら、セレストさんの狙い通りに軍を動かすことになる」
「ああ、街を戦場にする訳にもいかんからな。軍を街の外に出す他無い。これもあの領主の狙いだったわけだ。まったく……、たった一日でこんなことになるとはな……」
カロルは言いながら中隊の兵士が集まっている区画へと戻っていく。
おそらくは軍備を整えるために戻ったのだろう。数日としないうちに帝国軍が街を離れることは決定したも同然。そして二人が追っていたセレストも屋敷に戻ることはなく、フォルン領軍の詰め所へと既に向かった後の様だった。
こうなれば、ジンとアヤの二人ももうできることは無い。二人は連れ立って屋敷へと戻り、今回のセレストの一件をミラに報告することになったのだった。