物心ついた時から俺は暇さえあれば、ボードゲームに触っていた。
木こりだった父さんが作ってくれたゲーム盤は俺にとっての宝物だったし、白と黒の駒を使った王を追い詰めるゲームはお気に入りだった。
母さんが言うには、父さんは昔高名な軍師だったらしく、暇な時にはよくボードゲームをしていたそうだ。
ただ俺達の家はとても貧しくて、母さんも父さんも朝から晩まで働いても食べるものにも困っていたし、俺にはたくさん食べるように食べ物をくれるけれど、二人が食事を少ししか食べないことも少なくなかった。
それでも、雨が降った日には父さんは俺の遊び相手をしてくれたし、母さんも内職をしながら色んな話を訊かせてくれて、俺は幸せだった。
そんな二人に育てられたからか、父さんに教えられたボードゲームはどんどん強くなったし、十歳になる頃には俺は父さんにも二回に一回くらいは勝てるようになっていた。
俺の人生が変わったのは俺がそんな時。
俺は父さんに連れられて、街で行われた大きなボードゲーム大会に出場したのだ。大勢いる大人の人達の相手をしながら予選を勝ち上がっていく。
父さんも本戦まで進んでいたが、銀色の髪をした女性に負けてしまって、俺の決勝戦の相手はその人になった。
「これは随分と可愛い対戦相手だな」
今でもその人と初めて対峙したことは忘れられない。
銀色の長い髪に柔らかな物腰。けれども俺を見据えるルビーのような瞳には強い意志が宿っていて、俺を注意深く観察をしている。年齢は僕よりも少し年上みたいだけど、たぶん成人はしていない。
とても綺麗な人だった。
いざゲームが始まると、俺はすぐにこの人の強さを理解した。いや、本当は父さんが負けた時点で理解はしていた。それでもこの人の駒運びはまるで未来を見ているかのように正確だった。
だからこの時のゲームで俺が勝つことができたのは、殆どまぐれ。
俺は最年少のボードゲームチャンピオンとなり、子供にしては多すぎる優勝賞金を手に入れることができた。
「ふむ……。今回はやられたよ。まさか、こんな子供に負けるとはな」
準優勝になった銀色の女性が興味深そうに俺を見ている。
「君……、名前は?」
「僕……、僕は……ジン。ジン=アース」
「アース……。そうか……君はアース家の子供なのか」
僕の名前を訊いて納得したように頷く。そして彼女は俺に向かって手を伸ばして言ったのだ。
「ジン=アース。私は君が気に入ったよ。どうだ? 私の下で働くつもりは無いか? この世界を白く染めてしまおう」と――。
彼女の言葉に父さんが酷く驚いていたことを覚えている。当時に俺にはどうして父さんが驚いているのかは分からない。
「君が私の下で働くなら、今日君が手に入れた賞金よりも莫大な財産を得ることを約束してやろう。私の元で軍師として学び、私の右腕になるんだ、ジン」
彼女が帝国の第三皇女であり、お忍びでボードゲーム大会に参加していたと知ったのはそれから随分と先の事。
(僕が軍師になって……父さんと母さんの暮らしが楽になるのなら……)
食事すら我慢して痩せている二人を見て、僕は決心をする。差し伸べられた彼女の手を握った時、その後の僕の人生は決まったんだ。
●
目が覚めた時、窓の外を見ればまだ空は真っ暗で、月が雲に隠れそうになっていた。
(ったく……。何て夢だ……)
ジンは暗い部屋の中で溜息を吐く。
久しぶりにカロルに会ったことで、昔のことを思い出したのかもしれない。ジンもまさか、彼女との出会いを夢に見るなどとは思っても見なかった。
ふとベッドの隣を見れば、ジンに擦り寄るように横になっていたクロがスヤスヤと安らかな寝息をたてている。
その姿にジンももう一度寝直そうかと思ったが、目が冴えてしまったどうにも寝られそうに無い。背中には嫌な汗もベッタリとかいていたし、せめて夜風にでも当たって落ち着こうと中庭に向かう。
屋敷の回廊から中庭に出れば、冷たい夜風が肌を撫で、いくらか気分が落ち着いたような気になった。
「これは珍しいお客さんだ」
「え……」
そんな中掛けられた声。ふと見れば、中庭にジンと同じように壮年の男性が立っていた。
短く切り揃えられた金色の髪に柔和な微笑み。そしてどこかで見たことのあるような碧眼でジンを見つめていた。
「君がもしかして、例の行商人君かな? こんな真夜中に中庭に来るなんて、夢見でも悪かったのかな?」
「あなたは?」
「あぁ……、申し遅れたね。私の名前はセレスト=フォルン。一応この屋敷の家主で、この領地の領主を任されている。もっとも、領主としての表だった仕事の殆どは娘のミラがしてくれているけれどね」
「あなたがミラの……」
セレストの言葉に納得と頷くジン。彼の持つ碧眼はミラの碧眼とよく似ていた。
「娘が行商人を連れて来たと聞いてね、一度話をしてみたいと思っていたんだよ。まさか、こんな真夜中に会うことになるとは思っても見なかったけれどね。あの子の我が儘に付き合ってくれてありがとう」
「いや、俺の方こそ……。今回はフォルン家に色々と迷惑を掛けてしまったようで……。滞在を許可していただきありがとうございます」
「あぁ、それについては気にしなくて良い。交易を基本事業にするのなら、今回のようなトラブルを未然に防ぐ為にも、門での積み荷の確認や、適正価格になるように関税をかけるのが当たり前だしね。積み荷をちゃんと検めなかったこちらにも非はある」
ジンの言葉に、冷静に応えてくれるセレスト。
領主としての落ち着きだけで見れば、さすがにミラよりもずっと落ち着いているように見えて、ジンにはそれが意外だった。
「ふむ……。思いのほか私が落ち着いていることが意外かい?」
「え……? あ、あぁ……すみません。いや、その……ミラの父親だと聞いて、もう少し苛烈な方かと思っていたので……」
「なるほど。安心してくれて良い。あの子のあの一言多い性格は他界した妻譲りだよ。どうにも男勝りに育ってしまってね、令嬢としてはもう少し淑やかに育って欲しかったのだけれど……。やはり妻がいないと女性としての嗜みは教えられないものだ」
苦笑を浮かべて語るセレストを前に毒気を抜かれているような気分になるジン。
「それで……、行商人君は――」
「あ……、ジンでけっこうです。屋敷では皆そう呼んでいますから」
「そうかい? それで、ジン君はこんな時間にどうしたんだい?」
「いや、俺は夢見が悪くて、少し落ち着こうと思って。そういうセレストさんは……」
「はは、昔からの癖でね。何か大きな事を決める時にはこうして中庭に足を運ぶようにしているんだよ。ここは妻が好きだった場所だからね、自分の原点とも言えるような場所なんだ」
「大きな事……ですか?」
「ミラに訊いたんだけど、帝国軍の関係者が訪ねてきたんだろう? 教国との小競り合いも長く続いていたからね、いつかは来ると思っていたんだ。それでね……」
「そう……ですね。いや、タイミングが悪いですよね」
「そうだね。だが良い機会だとも思うんだ。これ以上、あの子に泥をかぶせる訳にはいかないからね」
ポツリと呟かれた彼の言葉に不穏なものを感じるジン。セレストが何をしようとしているのか、今のジンには知る由も無い。
だが何を言っても彼の決意は揺るがないのだろう。それだけの覚悟をもった表情を彼は浮かべていた。
「いや、出会ったばかりの君に深刻な話をしてすまないね。どうやら私も少し参っているらしい」
「気にしないでください。それだけ大変なことだと思いますから」
「そう言ってくれると助かるよ。それで、ジン君は……これからどうするのかな?」
「どう、とは?」
「この先、しばらくフォルンはゴタつくことになるだろう。教国との戦争は避けられないかもしれないし、そうで無くても帝国軍が駐留する限り、暫く情勢は安定しないのは間違いない。行商人の君がこれ以上残る理由は無いんじゃないかな?」
「それは……そうですね。でも、俺はフォルン家に負債もありますから」
「その負債を無かったことにすることもできると言っても?」
「どう言う意味ですか?」
現在のジンの行動を限定しているフォルン家への負債。それを無かったことにできるという彼の言葉は、ジンにとっては魅力的な提案だった。
「今回の一件について、こちらにも非があると言った言葉に嘘は無い。それに、君は岩トカゲの食用肉について、新しい商売を考えてくれたとも訊いている。その権利を譲ることを対価に、負債の返済に充ててくれても私としては構わない」
「ありがたい申し出ですけど、ミラに黙ってそんな事をすれば、地の果てまでも追ってくるんじゃ……」
「あぁ……、それは否定できないね」
言いながら小さく笑うセレスト。ジンとしては他人事ではないので笑うことはできない。
「逃げられるとでも思っているの?」と、睨みをきかせているミラを想像して、げんなりしてしまった。
「だがそれも織り込み済みだ。負債の返済を理由に君がミラをフォルン領から連れて行くことが、私が負債を無かったことにする条件だ。もしも、もしも戦争になったら……。ミラを領地の外にまで連れて行ってくれるかい?」
そんな中、セレストが口にした条件。その言葉に思わず耳を疑うジン。しかし真剣な表情を彼はジンに向けていた。
「そんなこと……いいんですか? 自分の暮らしている領地で戦争が始まったのに、俺と一緒に領地から出るってことは、ミラは今まで培ってきた物を全て捨てるって事ですよ? 戦争になったからって貴族が領地から逃げ出せば、領民はそんな貴族を領主としては認めない。フォルン家に戻ることも、貴族としての地位を守ることもできない」
「そうだね。だが貴族として生きることが彼女の幸せに繋がると思うかい? あの子にはまだまだたくさんの可能性がある」
「それが俺みたいな行商人と旅することだと?」
「灰色の軍師と呼ばれた君になら、娘を任せられると思ったんだ」
「……っ!」
セレストの言葉に耳を疑うジン。その名前で呼ばれることになるとは思っても見なかったのだ。
「知っていたんですか?」
「知ったのはつい先日だよ。娘が連れて来た行商人が男性と聞いて、その素性を知りたいと思うのは親として当然だ。昔の伝手を使って、君のことを調べさせて貰った」
「ミラはこの事を……?」
「彼女は知らないよ。君を屋敷に招いたのは、君を街の人々から保護するという意味が半分、もう半分は君が使えると思ったからだろうね」
彼の言葉に納得しつつ、ジンはセレストに対しての警戒も覚える。やはり彼も貴族家の領主として、有能な男性なのだろう。
簡単に気の許せる相手では無さそうだった。
「俺に何をさせるつもりです?」
「さっき言った通りだよ。親としては娘の幸せを望むのは当然だろう? あの子はまだ幼い。それなのに貴族という立場に縛られて、随分と色々と背負ってしまっている。これは私が不甲斐ないからだが……。だからこの先の保険をかけておこうと思ってね」
自嘲するように語るセレストに、ジンは何も返すことが出来ない。戦争から彼女が逃すことが、貴族としての今の生活や立場を捨てることが、ミラの本当の幸せに繋がるとは考えられなかったからだ。
「戦争が起こった後の事なんて考えたくないですね。戦争なんてものは起こらないのが一番です。とりあえず、答えは保留させてください」
「そうか……。まぁ、一考してくれ。君にとっても悪い話にはならないと思うからね」
これ以上話すことは無いと、セレストは屋敷の中へと戻っていく。
昼の暑さが嘘のように寒くすら感じる荒野の夜。その寒さに身体が冷えてしまったのを感じながら、ジンもまた寝室へと戻ることにする。
「もっといっぱいほるよぉ……」
ベッドの上で眠っているクロは夢の中でも穴を掘っているつもりなのかも知れない。どこか脳天気な寝言を口にしていたのだった。