クロが部屋に連れられて入った時、彼女が感じたのは鼻の奥を突くようなカビの臭いと室内に満ちた汗の臭い。部屋の中は蒸し暑く、換気も行き届いていないのか、どこか息苦しくも感じていた。
「お前もここに入っているんだ」
場所にして街からも遠く離れた今は廃墟と化した砦の地下。自分を連れて来た男に背中を押されて鉄格子に塞がれた奥へと進めば、直後に聞こえてきたのは金属製の扉の閉まる重苦しい音。
直後にカチャリと音が鳴って扉は錠前によって施錠されると、クロを地下室に連れて来た男がニヤリと笑い、今や囚われの身となった彼女を鉄格子の向こうから見ていた。
「まさか、お前みたいな亜人が手に入るとはな。きっとお前には良い値がつくだろう。いいご主人様に買って貰えるように、ここからは従順に振る舞うことだ」
その言葉にクロは赤い瞳で彼を睨む。しかし、鉄格子越しの男は嘲るような表情を浮かべると、地下室を後にして地上へと続く階段を上がっていってしまう。
そしてクロは自分が連れられた地下牢の中を見渡した。
「ふぇ……、いっぱいいるね……」
見た目にはまだ十歳程度にしか見えない少女のクロ。長く伸びた黒髪は僅かに乱れているものの艶やかで、傷も無い肌は白く、見ようによってはどこかのお嬢様のように見える。
しかし、彼女の頭から左右に生えた大きな赤い角は彼女が純粋な人間では無い事を示していた。
そんな彼女は少し大きな黒色のマントを羽織っていて、靴すらも履いていない。ペタペタと石畳の地下室を歩くと、燭台の蝋燭が照らす地下室に幾つのも瞳が自分を見ている。地下室には何人もの子供達が押し込められていた。
年齢や性別、種族も様々だが一様に彼等は絶望に染まった表情で、この状況を受け入れているようだった。
「新入りか?」
聞こえてきたのは集められた子供達の中では年長らしき少年の声。クロを見て多少の警戒はしているらしく、彼はその背に数人の幼い子供達を庇っていた。
「あなただぁれ? クロはね、クロって言うの、よろしくお願いします」
どこか舌足らずな声で語る彼女。そんな反応に少年はようやく警戒を解いたのか、緊張していた表情を緩めると、ホッと一息ついていた。
「ったく……、驚かせるなよ。俺はともかく、ガキが怖がるだろ」
「……?」
クロが少年の言葉に小首を傾げと、少年はもう大丈夫だと、庇っていた子供達に少しでも休んでおけと声を掛けていた。
「それで新入り――、」
「クロだよ。新入りじゃないよ」
「ここでは新入りで充分だよ。お前はどこで攫われてきたんだ? 連中、手近な子供が捕まらなくて、また強盗でもしたのか?」
「……?」
少年の言葉にクロはよくわかない、と言った様子で首を傾げる。その様子を見て、少年は深々と溜息を吐いていた。
「あなたの名前は?」
「ロックだ。……ったく、その様子じゃ何も知らないみたいだな。新入りは今の状況がどうなっているのかわかっているのか?」
その言葉にやっぱり首を傾げるクロ。それどころか的外れに「ロック君、よろしくお願いします。クロと仲良くしてください」などと礼儀正しく挨拶をしていた。
この状況下でそんな挨拶をできるのは、余程の世間知らずか、箱入りのお嬢様くらいだろう。そんな当たりを付けて、ロックは呆れたように彼女に語り掛ける。
「あのなぁ……。ここは孤児院でもなきゃ、お前が今まで住んでいたお屋敷でもねぇ。見て分かる通り、人攫いの根城なんだよ。お前も攫われてきたんだろ? それなのに脳天気な顔しやがって……」
「人攫い? それって悪いことだよね?」
「……これだから世間知らずは」
当たり前のことを知らないクロに益々呆れた様子のロック。そして彼は自分たちの今の境遇を彼女に語った。
「俺達は元々、このあたりにあった村に住んでいたんだ。村って言っても、もう数年以上前に戦場になってボロボロになった村だけどな。そんで、そこで俺みたいな孤児や小さい子供を連れた元村人が暮らしていたんだ。それなのに……」
ロックの脳裏に蘇るのは、再び戦禍に見舞われる村の姿。
なんとか再建の進んでいた村を襲ったのは、周辺に住みついていた盗賊まがいの男達で、抵抗する村人は殺され、住んでいた子供達が優先的に捕らえられたらしい。
地下室にいる大半の子供達は、その村から連れてこられた子供達であり、あと数人、街道を行き交う商人などが連れていた子供が地下室には入れられている。
見れば、地下室の奥には周囲の子供達とは異なる、綺麗な洋服を着た少女が座っていて、泣きはらした目で膝を抱えて震えていた。
「連中は俺達みたいな子供を奴隷として売るつもりなんだよ。数日後には奴隷商に引き渡されて、どっかに散り散りに売られちまう。そうなったら、俺みたいな男は労働力代わりに使われたり、女なんかは貴族に売られり……。お前だってそうなるんだぞ!」
「そっか……。村の子供は、ここにいるので全員なの?」
「あぁ……。捕まった奴は全員ここだ。お前みたいな新入りまで連れてくるんだから、他の場所なんて無ぇんだろ」
これから先の事を考えて絶望の表情を浮かべるロック。しかし、そんな彼の言葉を聞いて、クロはニコリと微笑みを浮かべた。
「大丈夫だよ。絶対に兄様が助けてくれるから。兄様、クロに子供達に会えたら安心するようにって伝えてくれって言っていたよ」
「兄様?」
その言葉にロックが想像するのは、その兄様が近くの街の衛士や、軍の兵士である可能性。もしもそうであれば、自分達を助けてくれるかもしれないという可能性がある。
「お前の兄さんが兵士だったりするのか?」
だから彼はクロの語る兄様について聞いてみる。しかし返ってきた言葉は、彼にとっては期待外れだった。
「兄様はね、行商人なの。クロに美味しいご飯をくれるんだよ。だから皆も、ご飯の心配はいらないよ」
どこまでも脳天気な彼女の言葉に、ロックはガクリと肩をおとし、もう項垂れることしかできなかった。
………………。
荒れた街道を一台の馬車が進んでいく。と言っても、走っている馬車は普通の馬車では無い。荷台には大の男でも十人は入りそうな檻が乗せられていて、一般的な荷馬車には見えなかった。
そんな馬車の御者として馬を操るジンがフードを目深に被り、今は朽ち果てた砦に到着すると、彼を出迎えたのは身なりが良いとは言えない男達だった。
「ここで止まってフードをとれ」
帯剣した男達に迫られて、ジンは抵抗する意志はないと示すようにフードをとると、フワリと広がったのは彼の短く切られてはいるが毛先の跳ねた灰色の髪。
穏やかな表情を浮かべた彼を見て、出迎えた男は怪訝な表情を浮かべる。それもその筈、今日ここに来る奴隷商の男と彼は似ても似つかなかったからだ。
「おい、いつもの男はどうした?」
「あぁ……、実は彼。腰をやってしまいまして……。それで俺が代わりに来たんです。でも、安心してください。こうしてちゃんと代金は持って来ていますから」
警戒心を見せる男にジンが金貨の詰まった袋を見せると、未だ警戒をしながらも武器を下げる男。そしてジンがそのまま砦の中に迎え入れられると、彼が通されたのは盗賊達のまとめ役のいる部屋。
それなりに身なりのいい服装をしているジンを見て、盗賊達の頭はジンを値踏みするかのように見ていた。
「あんたが奴隷商の代理か?」
「はい。若輩者では有りますが、勉強をさせていただいている身です」
「まぁ、俺達は金を払ってくれるなら誰が相手でも良いんだ」
ジンは彼の言葉に表情を変える事は無かった。
「この度は奴隷をお売りいただけるとのこと、ありがとうございます。それで……、奴隷達はどちらに?」
代わりに慇懃に礼をしながら問いかけるジン。そんな彼を未だ盗賊達は不審に思いながらも、彼を地下牢へと案内する。するとそこにはクロを初めとした子供達が狭い牢に収められていた。
「奴隷はこれで全員でしょうか?」
「あぁ、あんたらが要求した子供は人数が揃っている」
「なるほど。ここにいるので全員ですか」
彼等の頭の言葉に牢屋に目を向けると、ジンを見たクロが盗賊達に気付かないように二度瞬きをする。その様子を見てジンが笑みを浮かべると用意した金貨の詰まった袋を彼に手渡した。
「それじゃあ、この子達を馬車に運んでくれますか? 大切な商品ですから、決して傷を付けないように」
本当なら商談はこれで終わりの筈だった。しかし、袋の金貨を見て、彼等の頭が難癖を付けるようにジンに凄む。
「おいおい、これじゃあ足りないだろ。こっちは苦労して、亜人のガキまで手に入れたんだ。コイツも引き取りたいなら、もう少し色を付けてくれてもイイんじゃ無いか?」
ジンの足下を見るかのように値段をつり上げる盗賊の頭を前に、ジンは一つ嘆息をする。
「ええ、そういうことも仰るかもしれないと言付かっています」
そう言うと、彼は懐に忍ばせていた小袋を取り出すと、合わせて盗賊の頭に渡す。その小袋の中に入った金貨を確認すると、ようやく盗賊達の頭が部下に命じて、子供達をジンの馬車へと連れて行く。
全員の首に鎖の付いた首輪が掛けられ、子供達は連なるように馬車の檻の中へと乗り込んでいく。
小さな子供は涙を流しながら泣き始め、彼等の中では最年長の少年が毒づく。身なりのいい少女が怯えの表情を浮かべながら乗り込めば、最後に馬車に乗ったのはクロだった。
「ほら、これがコイツらの首輪の鍵だ。後は旨くやるんだな」
「……はい、確かに。ありがとうございました」
そして子供達の鍵を受け取ると、ジンは再び御者台へと腰を下ろして、子供達を乗せた馬車を操って砦の外へと出て行く。
檻の中で悲嘆に暮れる少年達。しかし、そんな檻の中でクロだけはにこやかな笑みを浮かべている。
そしてジンは砦から充分に離れると、荷台にいるクロに向かって、彼等から貰った鍵束を投げる。その直後――、
ジンが振り返れば砦からは火の手が上がり、廃墟となった砦に更に幾つもの戦術魔法がたたき込まれる様を目にする。
「こっちにまで流れ弾が跳んでこないとも限らないな。クロ、頼む!」
魔法弾が飛び交う様子に危険を感じたジンが彼女を呼べば、首輪と鎖の戒めを解いたクロが飛び出てくる。そして彼女が檻の上で一度叫ぶと、クロの身体が馬車を引く馬よりも大きな竜となった。
真紅の角を頭の両端から生やし、黒い鱗で覆われた竜は、今まで人型になっていたクロの、地竜としての本来の姿。
檻の中にいた子供達が目を丸くして悲鳴を上げる中、ジンは檻を引いていた馬達を解放すると、代わりにクロの首と荷馬車を繋ぐ。
「馬車を引いてくれ! 逃げるぞ」
「マカセテ!」
ジンの指示にクロが荷馬車を引いて走り出せば、瞬く間に遠ざかっていく砦。砂埃をあげながら、クロの轢く馬車は子供達が元々住んでいた村へと走って行ったのだった。