目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報
2-1

 あの事故から約一ヵ月が経過した。

 今日は月に一度の「僕」の検査の日だった。どこからどう見ても健康体な「僕」だが、どうやら脳に何らかの疾患があるらしい。まぁ、得た記憶のない知識がウィキペディアのページのように浮かび上がるくらいだ。何かがあってもおかしくないだろう。

 いつものように頭部に電極を付け、睡眠状態になって数時間の検査を行い、検査室を出る。会計を済ませようと、病院の廊下を歩いていたら。

 白衣を着た一人の女性――恐らく医師だろう――が目についた。目についた、というのは女性が「僕」を気に掛ける様子で歩いてきたからである。

 ちら、と見ただけで何故か悪寒が背筋を這いあがる。春もたけなわ、冷えるような気候でもないのに心が「僕」に近寄るなと警鐘を鳴らす。

 その願いは叶わず、女性が「僕」の目の前で立ち止まった。

「貴方ね、トラックに撥ねられた割にほぼ無傷だったって子は」

 自信たっぷりにそう言うところを見ると、女性は「僕」を知っているのだろう。もしかすると、「僕」の入院中に何らかの話が行き渡っていたのかもしれない。聞いた話だがあれだけの規模の事故のわりに「僕」の身体にほとんど傷は付かなかった。それでも事故のショックか頭をぶつけたかで事故直前の数日間の記憶は抜け落ち、思考も嗜好も食い違うほどの影響が出ている。

 記憶障害と思考の食い違いはともかく、単純に怪我がなければ病院側としてもある種の話のタネになるのかもしれない。

「……ああ、ごめんなさい、急に声をかけられても驚くだけよね?私はアカネ。ここの大学病院の医師よ」

 アカネ、と名乗った女性がじろり、と「僕」を見る。そこに不思議な既視感と不快さを感じる。

 「僕」は、彼女を、知っている?

「貴方のカルテは見せてもらったわ。脳に特殊な疾患がある、と聞いたんだけど……」

 カルテを見せてもらう、ということは「僕」の病気に何らかのつながりがある科の医師なのだろうか。「無断で見せてもらったことは謝るわ」と続けられ、「僕」は頷くしかできなかった。それに、彼女は、「僕」に興味を持っている。

 だが、頭の中で知識が囁きかけてくる。

――カルテ、正式名称「診療録」は、個人情報に該当し、個人情報の保護に関する法律には「利用目的の達成に必要な範囲を超えて個人情報を取り扱ってはならない」とある。また、刑法にも「医師、薬剤師、医薬品販売業者、助産師、弁護士、弁護人、公証人又はこれらの職にあった者が、正当な理由がないのに、その業務上取り扱ったことについて知り得た人の秘密を漏らしたときは、六ヵ月以下の懲役又は十万円以下の罰金に処する。」という規定もあり、漏らした主治医にも問題がある――。

 法令違反ではないか、と知識とは別の部分で「僕」は考える。

 主治医は何をしていたのだ、という思いとどうしてアカネは「僕」のカルテに興味を持ったのか、という思いが同時に浮かぶ。確かに「僕」の症例は珍しいものではあるらしい。それでも、だからといって治療に無関係な医師が気安く見ていいものではない。第一「正当な理由」があれば開示できるはずなのに何故「僕」に無断で開示したのだろうか。

――それとも、主治医には「僕」に無断で開示しうるほどの事情があった――?

「脳神経外科だけじゃ分からないことも多いんじゃなくて? 一度、精神科で貴方の脳がどうなっているか診させてもらいたいわ」

 そんな「僕」の様子には気付かず、アカネは話を続ける。

 精神科? と「僕」は確認した。言われてみると、脳神経外科は外部からアプローチするのに対し精神科なら内部からアプローチできるかもしれない。アカネの提案は、「僕」に興味を持たせるのに十分だった。彼女ならもしかしたら何かを教えてくれるかもしれない。

 一瞬、アカネを信用していいのかという迷いが生まれる。「僕」のカルテを「僕」に無断で開示させたほどの医師、いや、ある種の詐欺師と言っていいかもしれない、と直感的に思う。

 それでも、アカネに言われて感じた「精神科にアプローチする」という興味には抗えなかった。「僕」も思ってはいたのだ。「僕」のこの症状をはっきり知りたい、と。時折過る知識はどこから囁かれているのか、一体「僕」には何があるのか、など――。

 気が付けば「僕」は小さく頷いていた。

 同意するということは主治医が犯した罪もアカネの怪しさも全て受け入れることになってしまうということは理解していたのに、頷いてしまっていた。

 「僕」が同意すると、彼女は通信端末を取り出して電話をかけた。どうやらすぐに診てもらえるように掛け合ってくれているらしい。数分話して電話を切ったアカネが「僕」を見る。

「すぐに診てくれるわ。行きましょう」

 アカネに連れられて、「僕」は普段足を踏み入れない別館に移動した。

コメント(0)
この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?