カーテンから差し込む朝日に、「僕」は目を開けた。
病室の天井は相変わらず白く、点滴のパックをぶら下げる金具はぶらぶらと揺れている。そこにぶら下がっていたパックは数日前から外され、身動きは自由にできた。
無理もない、「僕」は今日退院する。交通事故に遭い、入院を余儀なくされていたが幸い怪我らしい怪我もなく、暇を持て余していたくらいだ。ただ、気になったのは殆ど怪我がなかったのに入院期間が長引いた理由だ。
医師は「頭を強く打ち、脳に異常がある可能性がある」と説明したが意識はしっかりあり、思うように動けないということもなかった。とはいえ、やはり事故の影響だろうか、事故前後の記憶が全くない。それで医師も検査を繰り返したのだろう。
しかし今回の事故には不可解な点が多い。トラックに衝突したという話だったがそれなら大怪我をしていても不思議ではない。ほぼ無傷、ということが奇跡に近い。だからだろう、この病院――とある医科大学の附属病院である――で様々な検査を受ける羽目になったのは。事故前後の記憶がなかったのもその検査の一因となっている。
カーテンを開け、ぼんやりと外を見る。季節は春で、河川敷の桜が満開になっている。
結局、大学生活最後の春休みを丸ごと入院に費やした挙句、退院してすぐに新社会人としての生活を送ることになるのか、それなのに何度も休みを取って通院するという、新入社員としては非常に迷惑なことになってしまった、と風に舞う花びらを見ながら思う。
時々見舞いに来てくれた友人と花見もいいな、だが今から企画したのではもう遅いか。そんなことを考えながら朝食を待つ。そのうちに同室の入院患者も起床し、廊下も徐々に騒がしくなる。
看護師が検温に来て、「今日退院ですね」と声をかけてくる。退院と言っても、まだ月に数回の検査が残っているためこの病院にはちょくちょく顔を出すことになるだろう。そう告げると「それならシュークリームでも持ってナースセンターまで遊びに来てくださいよ」と冗談が返ってくる。確かこの病院は医師、看護師等に差し入れを持っていくことは禁止だったはずだが、と思わずまじめに考えてしまうが自分の回復を喜んでいるのだろう、と解釈する。
そんな会話をしているうちに朝食が配膳され、看護師が病室を出ていく。見慣れたトレイと、落としても割れないように考慮された器に入れられた食事を胃に運び、下膳室へと持っていく。同じく下膳に来た他の入院患者でざわつく廊下を歩き「この光景を見るのも今日で最後か」と考えていると通りがかったナースステーションではシフト交代の打ち合わせをしているのだろう、複数の看護師が真剣な面持ちで書類を手に話し込んでいるのが見えた。
それを横目に「僕」は自分の部屋へと戻り、退院のための準備をする。身寄りのない「僕」は家族に着替えなどを持ってきてもらうことはできなかった。だから友人に家の鍵を預け、着替え等身の周りのものを持ってきてもらっている。
それを鞄に詰め込んでいると、「僕」の視界に一冊の本が飛び込んできた。
何度も読み返したらしい、ボロボロの哲学書。
しかし、「僕」にはその本を読んだという記憶がない。
この本を持ってきた友人――タカユキは「お前、何回もこの本読んでたから」と言っていたが入院中に本を開いてもその文面に覚えがない。何度も読み返していたなら多少は本文に覚えはあるだろうし、「僕」は記憶力には自信がある。一度読んだ本は諳であらすじや重要な文言を口にすることができるしそれが一つの自慢だった。それなのに、この本の文面を何一つ覚えていない。そもそも「僕」は哲学書を読むようなキャラだったか、という疑問すらあり、結局入院中はこの本を開くことはほとんどなく、自由に移動ができるようになってから売店で購入したパズル雑誌を解いて退屈な時間を乗り切っていた。それに関してもタカユキは「お前、パズルなんてできたんだ」などと言っていたが「僕」だってパズルくらい解く。特に数理系のペンシルパズルは解いていて楽しく、あっという間に雑誌一冊を解き終わって次の雑誌を買いに行く、タカユキにも買ってきてもらう、ということを繰り返していた。
どうしてタカユキはこの本を持ってきたのだろうか、「僕」はボロボロの哲学書を手に取った。たまたま古本屋で興味を惹かれて買っただけの代物ではないのか、古本だからもうボロボロなのではないのか、と思いつつ本を開く。開き癖が付いていたのか、とあるページが目に飛び込んでくる。
その哲学書は「生命」についての様々な哲学者の考察をまとめた内容のものだった。
生命の哲学の根底には「生まれてきたことへの全体的な肯定」から始まる命題がある、そういった内容から始まり最終的には「生まれてきてよかった」という考えへと帰結していく、そんな記述もあり、読んでいて意外と奥深さを感じるものもある。
そう思いながらもどうしてこの本が手元に、読み返した記憶もないのに読み込まれているのだろう、と考える。
読み込んだ記憶はない。しかしこの本は何故か手にしっくりと馴染むような感覚があり、まるで「僕」に開かれるのを待っていたような錯覚さえ覚える。
確かに読んでいて興味深いものはあったが、「僕」はそこまで哲学に興味があるわけではない。ましてや「生命」や「生まれてきたことへの全体的な肯定」と言われてもまとめれば「生きていればいつかはきっといいことある」ということだろう、という考えも浮かんでくる。
何を当たり前のことを、と「僕」は思った。「生きていればいつかはきっといいことある」のは当たり前だろう。生きている限りその全てが不幸だとは限らない。全てが不幸だというのなら、その人物は些細な幸せをふいにしているのではないだろうか、と思えてくる。
確かに、生まれてから不幸続きの人間もいるだろう。それでも、人生というものは帳尻が合うように運命づけられていて悪いことがあってもいいことがある、その逆も然り、だろう。
実際「僕」も辛いことはたくさん経験した気がするしつい先日はトラックに撥ねられるという事故を経験した。それでも大学にいたころは友人にも恵まれたし大学生活自体楽しいものだった。過去の記憶は薄れてしまったのかあまりはっきりと思い出せない。苦かった気もするし楽しかった気もする。思い出せないのが残念である。
そんな考えで生きてるからかこの哲学書の内容は「何を当たり前なことを」という感想しか出てこなかった。当たり前のことを小難しく語って結論はそれなのか、と。
「生まれてきたことへの全体的な肯定」が「僕」が考える「生きていればいいことある」とは話が違う気はする。それでも、最終的には「生きていたからいいことがあった」と自分を肯定することと考えれば辻褄は合うだろう。
パラパラと読んではみたが、「僕」の心に響くような衝撃は特に感じなかった。読んだ記憶はないがボロボロになるくらい読み返して、本文は記憶になくとも内容を諳んじてしまっていたからだろうか。
特に感動も憶えず、「僕」は本をパタリと閉じた。
今は退院のための荷物をまとめる時である。こんな本をじっくりと読み返している場合ではない。
閉じた本を無造作に鞄に放り込んだらその内容はどうでもよくなり、「僕」は次の荷物を手に取った。
退院手続きを行い、支払いの請求書を受け取る。誰も迎えは来なかったが、数人の看護師が見送ってくれる。そんな中「僕」は退院し、病院を後にした。