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第34話「空っぽで満たされて」


「んだよ、アレがねぇじゃねぇか」


備え付けの自販機のラインナップに難癖をつけながら柏木は、向かいのテーブルに座る。

言いながらも買って来たアイスココアを柏木は美味しそうに飲むが、今はそんな甘ったるいものを飲んでしまったら、逆流してしまいそうで少し、気持ちが悪くなる。


「なんだ、ブラックとかじゃないのか」

「あんなんにげぇだけだろ、そんな思いなんてもんは他で充分だ。飲むやつの気がしれないね」


こいつからそんなポエミーな言葉が返って来るとは思わなかったな。なんだ他で充分って、本当に同年代なのかどうかすら怪しいな、こいつは。

淀み、乾いた喉を貰ったスポーツドリンクで潤していると、柏木はもう飲み干したアイスココアの缶を潰しながら、口を開く。


「んで、そもそもお前がこんなとこに来たのは?」

「それは俺のセリフでもあるんだがな」


適当に言葉でも返して、その間に思考を巡らせる。次の画展のため――なんて本命をそのまま伝えることは勿論NGだ。”あの”会長の孫であったらそもそも知っているかもしれないが、俺だけ特別になんて話はそれでもしたくはない。

俺には俺の理由があってここには来ているが、柏木の方はどうなんだろうか。

まさかアイツも……なんてことはないか。仮に会長が柏木に進言したところで、こいつ自身が首を縦に振ることは無いだろう。


「付き添いだよ、付き添い。どうしてもここに来てぇやつが居たんだが、そいつは身体が弱くてな。じじいの知り合いの孫で腐れ縁、俺に白羽の矢が立ったってことだ。要するに子守りだな」

「んで、その子は見当たらんようだが」

「あなたが居ると邪魔だからひとりにしてーだってよ。子供から手を離されたってことだ」


言うと、柏木は会場を指さしながら心底めんどくさそうにぼやく。

そう言いながらもタマに会場へ目をやるこいつは、なんだかんだ面倒見が良いらしい。

素直じゃないだけで、やはりこいつは悪いヤツでは無さそうだ。


「俺は単純だ。見ておきたかっただけだ、ほかの入賞作品とかをな。そしたらこのざまだ」

「それだけ辛かったのか? たかがイチ画展の大賞が獲れないくらいでよ」

「いや、多分俺は獲れても獲れていなくてもどの道、こうなってたかもしれないな」

「全然、話が見えてこねぇな」

「悪いがな、俺ですらよくわかってないんだ」

「ならぜんぶここでゲロッちまえよ。あぁいや、さっきしてきたのか」


皮肉交じりの冗談はアイツなりの気遣いという理解で合っているのだろうか。笑ってはいるが、声だけは柔らかい。

ゲロッちまえよ。そう言われてもどこから話せばよいのかがわからない。こういう時はとりあえず、イチから話していくのが良いかもしれないな。

柏木にこれまでの”異変”を話すと、彼の顔からは徐々に笑みが消える。

途中、何度か飲み物を追加した彼ではあるが、それはどれもアイスココアだった。それだけ頭を使っていてくれているということだろうか。

今日も入れて三度、俺が抱えた頭痛にはどれも前兆を知らせずに、唐突にやって来る。軽いものだったら疲れとかそういうもので片づけて人には話してこなかっただろう。

ただ、それは回数を重ねる毎に痛みを増し、より深く突き刺さる。


「未花の家に行ったってのがそもそも俺にとっちゃ信じられんが、そもそも信じられんことばかりだからな。疑ったって仕方ねぇか」

「別に、与太話だと思ってくれても構わん。ただ――」

「実際こうなってんだ、嘘だとしても今日だけは騙されてやるよ。んでなんだ、その頭痛ってのが起こる時は絶対、絵を見ている時なんだってか」


彼の問いに小さく首を振る。

始まりは『蛍日』を見たあの日。立ち眩み程度の頭痛が瞳を通して軽く俺を小突く。

2回目は天野とスケッチに行ったあの日。彼女の絵を見てから走った頭痛は少し休めば収まる程度のもの。

そして3回目。展示場の最奥に飾られている『内なる庭園』。その細部に触れた途端に強烈な頭痛が俺を襲って、視覚から入り込む濁流のような何かに呑まれ、そこに居られないほどの痛みと吐き気に襲われた。


「いや違ぇな……」


柏木は自身の考察を否定する。組み替えた足は小刻みに震え、軽くテーブルを揺らす。

振り子のようにそれは徐々に勢いを増していき、彼が自問自答を繰り返せば繰り返すほど、テーブルも強く揺れた。


「絵を見ることが原因。ってのは3割正解7割不正解、ってとこじゃねぇのか。だってお前、自分の絵見たってそうはならねぇんだろ?」

「たしかに、そうだな」


一口に絵を見たからと言ってそうなるのであれば、おそらく俺はこの画展に参加出来ていなかっただろう。そんなことだけでは済まされず、今後絵を描くことすら俺は出来なくなってしまう。

少なくとも、筆を折る必要がないという点については安心できたのかもしれない。

であれば、他人の絵を見た時、ということだろうか。


「それだけじゃねぇな、普通の絵を見たってお前は問題ないだろうよ。それだったらお前、街もろくに歩けなくなるだろ」


言わずとも、即座に彼は否定する。見透かされているような気分だ。このまま俺の知らない俺まで見透かしてほしいものだが、それは頼りすぎかもしれないな。

テーブルの揺れでスポーツドリンクは乾いた音をたてながら落ちる。空になったそれは気楽な音と共に床へ横たわるが、同時に震える柏木の足は唐突に止まる。


「そういうことか」

「なにか、わかったのか?」


ペットボトルを拾う俺は柏木の顔を見ることは出来ない。それは核心を得て笑っているのか、振り出しに戻る苛立ちの表情なのか。


「理由はわからん。ただ、お前が決まってそうなるのは普通の絵じゃなくて――」

「やめて、やめてよ!」


彼の言葉を遮るように、静まり返った会場からは声が響き渡る。柏木の顔よりも、見知った声が俺を誘う。舌打ちをしながらも柏木もまた、会場に目を向ける。

答えは俺が会場に行くまでもなく、こちらからやって来て、駆け抜ける。

彼女は会場から玄関を抜け駆け抜ける。その跡には小粒の小さな水滴がいくつかと、良からぬ不安の種がいくつか。


「……一旦打ち止めだ。クソッ、めんどくせぇことに巻き込まれてなきゃいいが。あぁ、朝風はここに居ろ」


制する柏木の手を振り払い、立ち上がる。


「いや、俺にも行く理由ってのがあるみたいだからな」

「……気分悪くなったら、すぐ言えよ」

「俺も子守りされる側になるとはな」


減らず口を叩きながら会場に足を向ける。

涙で芽が出る前に、不安の種は摘み取っておく必要があるだろう。

会場を駆け抜けた彼女、一瞬でしかなかったが見えたその顔の理由は、知っておかなければいけない。場合によっては――

今は考えるのをやめよう。杞憂に終わるわけがないだろうが、まずは知ることからだ。


「一体何があったって言うんだよ……海原」





観覧中の私語はお控えください。

そう書かれた張り紙を会場に入る前に見たような気がする。

今は少し効きすぎたクーラーの音と、気が散らない程度に小さいクラシカルな音楽だけが耳に入るけれど、目の前の彼女――柚木原さんの耳には痛そうだ。

それだけ静かな空間だからこそ、あの子が呟いた言葉はわたしの耳にはっきりと入ってきたのである。


「ねぇ、”つまんない”って、どういうこと?」


わたしはあくまでも笑顔で彼女に問いかける。どうして目を合わせてくれないんだろう。わたしは床にいるわけでも無いし、そこまで小さくもない。

ついでに言うと、袖を掴みながら身を守るくらいに威圧感を与える程大きくも恐ろしくも無いというのに。


「海原さん? 急に怒ったりして、どうしたの?」

「なんのこと? 天野さん、わたし怒ってなんかないよ? 」


彼女には少し前に、似たようなことを言われたような気がする。あの時は本心で気にしていないことを伝えたけど、今のは嘘。

わたしのこともわたしの絵のことも、柚木原さんに理解してくれなんてことは思わない。でも、それでも、わたしのことを”つまらない”と評するのは許せない。


「柚木原さん、別にわたし怒ってなんかいないんだよ? ただ、どうしてそんな感想になるのかなぁって。不思議に思っただけなの」

「本当に、怒ってない?」

「怒ってないよ」


ちゃんと教えてくれたらね。

上目遣いでわたしを見る彼女はようやく、掴んだ袖を離して口を開いてくれた。まだ少し、わたしを怖がっているみたいだけど。


「はじめからそう思ったわけではないの。初めて見た時、このモチーフにした意味は? その配色の理由は? 結局、何を伝えたいの? それがわからなくて探し続けていたの。深く理解しなければ答えは現れないのか。それとも、私の知性が問われているのか。とか。宗教画の一種かと思ったわ」

「たしかに、私もそう考えることはあったわ」

「そうですよね」

「えぇ。わかるわ」


ふぅん。そういう見方もあるんだ。それくらいの意味でしかない相槌にも柚木原さんは肩を震わせる。いけないいけない。

天野さんと柚木原さんは波長が合うみたいで、互いの言葉に頷きながら理解を示しているみたい。どうしてこういう人達はそうやって勝手に深読みしたがるんだろう。


「だからあなたに聞いたの。ソレは一体なに? って……でも、聞いた限りだとあなたはそこに何も残してはいなかった。どれだけ掘っても土しか出てこない宝探しなんて、楽しくないでしょう。その絵には、何も――無いんでしょう? 伝えたい言葉も、あなたの想いも」

「たしかに、それは”おもしろくない”かもしれないね」


あの子が勝手に期待して、勝手に裏切られた結果が”おもしろくない”になったということは良くわかった。でもそれって、あまりにも自分勝手じゃない?

それにどうやら、あの子は本を読んでいるというのに、結果にしか目を向けられない子なのかもしれない。

結果徒労に終わってしまった努力の慰めがソレなんでしょ? 何かあるかもしれない。そう信じて探し回っていた時間は”面白くなかった”のかな?


「ねぇ、あなたは一体なんなの?」

「なんなのって、どういうこと?」


力のこもった声で彼女は言う。それは怒りが込められていながらも、投げやりな口調で私に問いかけているようだった。


「ソレに込められた言葉も想いも何もなくて、ろくに絵も描いてこなかったあなたは少し筆を走らせただけで私の、私の想いを超えていく。確かに色使いや筆さばき、バランスは素晴らしいと思うわ。でもそれ以外……それ以外何もないじゃない!」


押さえきれなくなった彼女の言葉は静まった会場で跳ね返り、残響となって幾重にも重なりながら、やがて沈黙する。

ずれた眼鏡を直さずに彼女はわたしを見る。いや、睨む。


「出来過ぎてるのよ、あなたは。才能があって、努力もしないで、当然のように誰かを超えていく。そこに険しい道のりも無ければ苦悩も困難も挫折もなにもなにもなにもない。ねぇ、あなたって――」


――本当に同じ人間なの?

怒り、という感情が湧くことはなく、それは光りのように速く、ナイフのように鋭く、わたしの心を突き刺した。

悲しい? 辛い? そんな感情が生まれてくることもない。戸惑いながらわたしはつま先から見れるところまで全身、わたしを見つめ直す。


「やめて、やめてよ!」


彼女から手を離し、今度はわたしが彼女を見つめられず、視線は床に堕ちる。

そんな目で見ないでよ。お願いだから。


「って、海原さん!」


静止の声を振り払って、気付けばわたしは走り出していた。


「わたしはどこもおかしくないんだから、そんな目でわたしを――」


行先はどこだっていい。人のいない、綺麗な景色が見られるところがいいな。

悲鳴を上げる胸、重くなる足取り、込み上げる震え、影のようにソレらはわたしを追いかける。

会場を出、街に出ると駆け抜けるわたしに知らない人達が奇異な視線を向ける。カメラを向ける。スマホを向ける。

やめてよ。

――“おもしろそう”にわたしを、見ないでよ。




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