目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

第33話「クリーム色の紙吹雪」

昔、ある死刑囚の本を読んだことがある。あれはエッセイと銘打っていたけれど、同じ境遇に立たされることのない私にとってはドキュメント、ある種の生体日誌であるように思いながら、毎日ページを捲っていた。

 執行の時は今日かもしれないし明日かもしれない、いや、数年後の晴れた水曜日かもしれない。

 死刑を宣告されてからの十数年、水を含んだ真綿で首を絞められていくある囚人の半生を描いたそれは、不謹慎と言われながらも傑作と私は評したい。

 夜も更け、閉め切った部屋は隅に置いた間接照明でぼぉっと、私と、本と、真っ白なキャンバスを映し出していた。

 締め切りまで後数日。だというのに、一日一日過ぎて行く毎に私は筆よりも本に触れる時間の方が多くなっていく。

 物語はついに終章へ、部屋の外から聞こえるのは段々と近づいてくる足音。毎朝のように聞いているソレが徐々に遠ざかる日は外れ。自分の部屋の前で音が消えた時こそ、その足音を聞く最後の日――当たりの日なのだ。

 今日もまた固い地面を踏みつける乾いた音が聞こえ出す。近づく音は心臓の鼓動とよく似ていて、徐々に大きく、徐々に早く、そしていずれ――


「あら、あやちゃん。まだ起きてたの?」

「ばあば」


 扉が開かれる。


「部屋の電気まで暗くして……ちゃんと灯りさつけんとばぁばみたいに目悪くするよ」

「ごめんね。でも、もうちょっとなの、ばぁば。今日だけは、見なかったことにして」

「……明日からはちゃんと明るくして読みなね」

「うん、ありがとうばぁば。それじゃあ、おやすみ」


 そしていずれ――なんだったかしら。

 お風呂上りにまとめていた髪は徐々に解け、長い髪がクリーム色の1ページをそっと撫でる。そうそう、丁度そこ辺り、続きを読みましょう。

 足音は再び遠ざかる。今日もまた、外れの日だったらしい。死刑囚の彼は絶望した。また一日、忍び寄る見えない死の恐怖に震える一日が始まるのだから。

 ここ数十ページに渡っての記述はずっと、そしてついに執行される時の文章は彼の手に描かれることなく”エッセイ”は終わりを迎える。


「駄作ね、駄作。傑作なんて誰が言ったの?」


 あの死刑囚が既に亡くなっているということは知っていた。テレビや新聞で報道されていたから、結果だけは知っていた。あの苦しみから解放された時、彼はどんな顔をしていたのだろう。どんな気持ちだったのだろう。

 確証はないが、推察することは出来た。それは彼がいつも嘆いていたある一節にヒントが隠されている。

 ――こんなこと、悩める頭が無ければ良かったのに。

 瞬間、暗い部屋の中で光りが差したような気がして、思わず筆を取り走らせる。悩めるくらいに頭を働かせることのできない時間というのはあるじゃない。あなたにも、ばぁばにも、そして、私にも。

 腕を振るわせる度、伸びる影はせわしなく動く。ベッドに投げ出した本は燃える情熱にくべ、駄作に付け加える最高の蛇足を一筆、また一筆と走らせる。

 この本が傑作になるためには圧倒的に、言葉が足りていない。だからこそ付け足すの。私の描く最高の蛇足、最高の挿絵を付け足すの。

 真っ白だったキャンバスは3時間で黒く染め上げられた。牢獄の外から漏れ出す月の光りは朧ながらも死刑囚を照らし、彼の顔は生まれたての赤ん坊のように、あるいはもう起きることのない死人のように、安らかな顔で眠りについていた。

 私もまたゆっくりと瞳を閉じる。重くなってきた瞼は帳を下ろすように、鈍くなってきた思考は今日の私を終え、明日の私に向けて眠りに着く。

 就寝の時こそが彼にとって最高の、至福の瞬間であったのかもしれない。そう私は結論づける。

 殺風景な牢獄に、簡素な文庫本に私の描いた挿絵<だそく>は彼のもとへと届くだろうか。わざと開けていたカーテンの隙間、漏れる月の光に照らされたソレを私は、彼に捧ぐ。

 柚木原彩乃 『今日という日の断頭台』




 そんなことがあったというのに、だと言うのに、私は目の前の絵画に、目の前の彼女に負けた。負けたのだ。


「もう一度だけ言います、教えてください。あなたのソレは一体、なんですか?」


 当の彼女は困惑していて、付き添いの”知らない人”は彼女の袖をこっそりと引っ張る。見ているぞ。と言わんばかりに睨みつけるとそれをやめ、伺うように、警戒するように私を見つめていた。


「えっと、この絵にはどういう意味があって、どういう思いで描いたの? って言うことだよね?」

「そんな理解でいいです。あなたの絵が語るもの、意味するものはどの頁を捲っても出てきませんでしたから」


 日本では毎年、7万冊程の本が出版されているらしい。何年も何十年も何百年も出版されてきたその本という媒体にはあらゆる情報、心境、情景が記録されているはず。

 それであれば当然、新しく生まれた絵画といっても、それが表現したい世界や想いなんてものは全て文字として表現されているはず。

 どれだけ新しいものと言おうが、その根幹は既にどこかに文字として記録されているはず。

 それなのに、彼女の絵だけはわからない。どこにもない。


「単純に美しいなぁ。描きたいなぁ。って思ったものをただ描いただけだよ。意味とか想いとか、そういうのを乗せて描くのはわたしにとってまだ早いよ」

「あくまでもあなたの頭の中にしかない風景ということ? それだって、それを美しいと感じた理由だって、何か忘れられない想いが合って描いたものではないの?」

「そう言われてもわかんないよ。そんなに深く考えながら描けないって」

「柚木原さん、でしたっけ。この子の言っていることは本当よ。今までろくに絵なんて描いてなかったのだから……ん、朝風君どうしたの? あぁ、そう。私達はもう少しここに居るから」


 困り顔の彼女は許しを請うように私を見ながら距離をとる。

 強く握っていた指は彼女の言葉で力が抜け、落としてしまった本をひとつひとつ拾い上げる。


「時間を取らせてしまったわね。ごめんなさい。もういいよ」

「わたしも手伝うよ」


 見上げると眩しいこの部屋の中で、私の隣にはもうひとつの影が出来る。かけたカバーについた埃を丁寧に払いながら私に手渡す彼女は、笑っていた。


「……眩しい」

「やっぱそうだよね。こういうとこって初めて来たけど、絵じゃなくて明かりで疲れちゃいそう」


 そういう意味ではないけど。

 丁度彼女の茶髪と同じ色をした、最後の一冊が手渡されると私はこの絵を後にする。

 それにしても本当に……


「”つまらない”絵に負けたわね、私も」

「待って」


 私を掴む冷たい指先に思わず肩が震え、鞄を落とす。その指先よりも冷たく、鋭い声色で振り返ることはしなかった。先に進もうとも、滑らかで冷たいソレは強く私を掴んで離さない。


「そっか、わたしの絵”つまんない”んだ。柚木原さんって”おもしろい”こと言うね。もうちょっと”おはなし”してこうよ」


 私が今日という一日の作者であったら、強引に物語を終わらせていただろう。けれど今日の作者は彼女――海原咲だったみたいで、この物語はもう少しだけ、続いていきそうだ。




「ゔっ……」


 男子トイレの個室で俺は、言葉にもならない声が出る。便座に置いた両手で身体を支え、喉から湧き上がる不快感の逆流が流れ終えるまで跪く。

 灼けるような熱さの逆流に喉が痛くなる。吹き出る嫌な汗はびっしょり背中を濡らすけれど、対照的に俺自身は、笑っていた。


「なるほどな、そういうことかよ」


 この痛みこそが推論の正しさを証明する。天野の家で見たアレを見た時、天野が描いたアレを見た時、そして今日。やっぱり全部、そういうことじゃねぇか。

 思考を遮るようにまた、逆流する不快感が俺を支配する。絞られた雑巾のように、何もかもが絞り出されているみたいだ。

 落ち着くまで数分間、俺はトイレにしがみつきながらゆっくりと深呼吸を3回、4回、5回。この会場に人の入りが少なくて本当に良かった。

 息を整え個室を出、少し汚れてしまったシャツに水を着け、酸味の張り付く口内を洗うように水を含む。


「よぅ、随分な姿じゃねぇか。朝風」


 空いた左手にスポーツドリンクが手渡され、洗面台の横に誰かが並ぶ。――誰か、なんて他人行儀も甚だしいが、その口調で声を掛けるやつを俺は確かに、知っていた。


「お前は……」

「まずはありがとう。だよなぁ?」

「ありがとう、――柏木」

「待てよ」


 それだけ言って出ようとするが、俺に手渡すスポーツドリンクを掴む彼の手は離れない。


「お前からの礼、折角だから受け取ってやるよ。そうだなぁ……こんなザマのお前について、とかどうだ」

「……展示場前に休憩室、あるだろ。そこ行くぞ」

「決まりだな」


 人に話すことおろか、ましてやこいつに話すなんてもってのほかだと思っていたが、丁度良い。俺ですら良くわかっていないことなんだ。こいつを利用して状況の整理でもしてしまおう。

 もしかしたら。なんてこともあるかもしれないからな。


この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?