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第30話「朱に交われば……」

  『真っ白』な紙は今日みたいな雲ひとつない、『真っ青』な空とよく似ていた。新調し、先をよく尖らせた鉛筆でその上に黒鉛の黒を乗せる。線を引き、塗りつぶす音はふたつ。サッ、サッ、と心地よいリズムを刻む時もあれば、不規則にゆっくりと聞こえる場合もある。調子はどうだ? 上手く描けそうか? 隣の天野には言葉で聞かなくとも、その音が教えてくれるみたいだった。


「暑くないか?」

「えぇ、日避けになってくれているだけで十分」


 事情は違えど、また倒れたりでもしたら辛いだろうからな。いつもの落ち着いた、淡々とした言葉で返す彼女の姿に心の内でひとり胸を撫でおろす。

 腰を下ろした東屋は本当に簡素なもので、とりあえず陽が当たらないという最低要件と、小さく座れる椅子が用意されているだけのものだった。快適に過ごすだけであればカフェなどに入っても良かったかもしれない。けれど、一望できる海、遠く見える灯台、行き交う船船を一望できるここはなかなかのものだ。


「そういやさ、この話って天野にしてたっけ?」

「それは、どんな?」


 筆を走らせる音は止まらない。お互いにスケッチブックに目を落としながら、寂しくなった口をこうして慰める。


「進路希望調査、ようやく出したんだよ」

「えぇ。朝風君のことだから、忘れてまだ出してないかと思ってた」

「逃げてただけで忘れてたわけじゃないからな。担任も家までとりに行くとか言い出すし」

「それで? 決められたの?」

「あぁ、決めたよ」


 本当に行きたかったところに、しっかりと、自分の意思で。


「それならお互い頑張りましょう。同じ桜が見られるといいわね」

「……まだ、どこ行くって話までしてないんだが」

「別に、私に話すってことはそういうことなんでしょう?」


 なにもかも、お見通しなわけか。チラリと顔を向けると、天野の顔は相変わらずの涼しい顔。手を止めることはなく、知っていることをただ淡々と話すだけで、さして驚きも何もないようだ。

 筆が乗っているのか少しばかり、口元は緩んでいるようだけど。


「だいたいこんな感じ、かしら」

「もうできたのか?」

「一旦は、ね。朝風君は?」

「だいたいと言えばだいたいだな。俺もこれで終わりかな」


 そう言いながら天野は俺にスケッチブックを、俺もまた天野にスケッチブックを渡し、それぞれの一枚に目を落とす。

 同じ題材、同じ景色を見て描いたはずのソレは、俺の描いた一枚とは何もかもが違うものだった。


「男の子、って感じのする一枚ね」


 彼女もまたそう、感じていたのだろう。俺の絵を彼女は『男の子の絵』と評した。逆に俺は彼女の絵を、なんと評すれば良いのだろう。


「港の看板を前面に停泊する船、気ままに旅を楽しむ船は、船なのに『生きている』感じがするわ。人なんて描かれてないのに、営みが上手く表現できてると思う。それと……」

「大丈夫。続けてくれ」


 口元を押さえた彼女に軽く頷いて促してみる。彼女は立ち直りはしたもののやはりどこかで、人の絵について話すことに対しての抵抗……恐れか、そういったものがあるのだろう。

 ここ。押さえていた手を外し、線も引いてなければ色も置いていない一か所に指を置きながら、彼女はふたたび、ゆっくりと口を開く。


「今日は海も荒れてないから波も低いし、穏やかに揺れる波が時折陽に当たって光る、この部分。船の影を見えている以上に暗くすることで間接的に表現できているのが、ほんとうに素敵」

「ありがとな。色を置かずとも表現できることはある。今日の収穫としては上々だった」


 天野は一度、天野が持っていない視点を俺は持っている。と言っていたことがある。俺からしたらその逆だってあるんだぞと、今の感想と渡されたスケッチブックから、改めてそう思わせられたような気がした。


「さて……どうしようかな」

「私の絵……良くなかったかしら?」


 伺うように声を落とす彼女。ここも要改善だろうか。


「そうじゃねぇよ。さっき言ってくれたよな。俺の絵を『男の子』って感じ。って。逆に、お前の絵を一言で言うならなんだろなって思っただけだ」

「まとめるのは最後でもいいんじゃない?」

「そうだな」


 無理やりまとめても俺はどうせ、良い絵とかそんなことしか言えないだろうし。


「最初に思ったことだけど、俺とお前でこれだけ描いた絵に違うが生まれるなんて思ってもなかった。同じ道を歩いて、同じ景色を見たって言うのに」

「あなた言ってたじゃない。見たままのものを描くなら、写真でいいって」

「そうだったかもしれないな。俺は今の一枚に人は1人も描かなかった。港に来たんだから船だろ。なんて思ってたからな。逆にお前は、人を前面に押し出して描いてるんだ」


 港に来たんだから、そこでしか見られないものを描いた方が良いだろう。そんな気持ちだったが、その固定観念も取っ払う必要があるかもしれない。

 天野の一枚に描かれているのは人。人だった。

 先で釣り糸を垂らす老人、浮かんだ船で楽しそうに話す男女。子供向けに作られた小さな砂場で、サンダルと麦藁帽子を被りながら遊ぶ子供たち。


「夏なのになんだか、暖かいんだ。暑苦しさなんてひとつもなくて、ほんとうに心地良いくらいの、暖かさがそこにあるんだ」

「きっと、あの子が教えてくれたのかもしれないわね」

「あぁ、そうだな」

「それと、あなたもかも」

「俺も?」


 えぇ、間違いなく。言いながら彼女はスケッチブックを撫でる。

 この一枚はおそらく、今の彼女だからこそ描ける絵だったんだろう。これまで天野が描いてきた絵を見たことはないが、間違いない。

 あの子だけでなく俺からも教えてもらった。そう言ってはいたが、そこだけは違うような気はする。俺は別に天野に対してなにも教えたことはない。あいつ自身が変わったんだ。それでも俺の名前を出すのであれば、言葉を濁さず言うと彼女は、勝手に俺に救われただけなんだから。

 そんな話をしてから改めて絵を見直すと、目の奥にひとつ、何かが突き刺さるような痛みが走る。思わず顔を歪め右目を押さえてみるも、奥から走る痛みに表面からの接触は痛み和らげることすらできない。


「あ、朝風君? どうしたの?」

「あー、ちょっとクラッと来ただけだ。多分昨日、ちょっと寝付けなかっただけだから」


 そうは言ってみるものの、これは熱中症や寝不足でカタが着く話でも無さそうだ。

 似たような痛みを一度、感じたことがある。まだ梅雨のじめじめした空気に包まれている頃、天野の家で見たある老人の、特別な一枚の絵。

 それと同じ痛みは思い出したかのように俺の中で声を上げる。でも大丈夫だ。少し休むだけでこの痛みもじき、また眠りについてくれるだろう。自分にもそう言い聞かせてみる。


「いくら東屋と言っても、本当に日避けくらいのものでしかないものね……近くにカフェがあるから一旦、そこで休みましょう」

「悪いな」

「悪いなんて言わないで。ほら。ゆっくりでいいよ」


 俺の分のスケッチブックも持ち、片手で日傘をさした彼女は俺に手を差し伸べる。右目から外した手を支えに立ち上がり、彼女の手を取った。


「大丈夫だよ。大丈夫」

「まさに『あまのおねえちゃん』だな」

「今日限りのね」


 日傘の下、彼女の隣で思考を巡らせる。

 その痛みは数こそ少ないけれど、どちらも他人の絵を見た時にそれはやって来る。それも誰が描いたものとかは関係が無い。いわゆる名画と言われるもの、いや、もっと簡単に言えば特別な一枚を目にしたときに、それはやって来る。

 だとすると、俺にとってアイツの絵というのは……

 なかなか引かない痛みの中、それ以上考えるのはやめにして、今だけは『あまのおねえちゃん』の熱に引かれて、委ねることにした。

 今年の夏は、暖かい。




 わたしが彼を好きになったのは丁度、鮮やかなピンクを付けた桜がその色を無くした頃。ゴールデンウィークが終わった頃だったような気がする。


「部活もう決めたー?」

「うーん、中学の頃からやってたし、吹部吹奏楽部かなぁ」

「やっぱり? やってみたことないけど、見学行ってみようかなぁ」

「南中の坂本、サッカー部入ったらしいぜ」

「マジ? あいつずっと野球部だっただろ」


 休み明けの教室、まだ新しい制服に着られているわたし達の間では『部活動何入るか問題』がトレンドとなっていた。

 渦中の中にいるはずのわたしにとってそれは、正直どうでも良いことくらいにしか思ってなかったから、早く終わってくれないかな、この話。くらいにしか思っていなかったような気がする。

 中学の頃、仲の良いあの子はバスケ部を続けると言っていた。中学から数えて6年も同じことばっかりやり続けるなんて、わたしにとっては苦痛にしか思えなかった。結局やることなんてかわらないじゃん。

 文ちゃん。っていったっけ。あの子は楽そうな部活を探して入るーとか言ってたかな。特にしたいことも無いけど、輪から外れているみたいで嫌らしい。和を大切にするあの子らしい選択かもしれない。

 机に座っているだけでも悪目立ちするだけだからとりあえず鞄を持って廊下の外にでも出てみることにした。

 教室の中でも外でも話題が変わることはなく、新入部員募集! 初心者歓迎! お手製の段ボール看板で呼び込む先輩たちの姿が増えただけで、そう代わり映えするものでは無い。


「なんでも部なんてものは、流石にないよねぇ」


 結んだリボンを解いてみてもこの空間は相変わらず窮屈なままで、掛けられる声に愛想を込めた笑みを振りまきながら階段を下る。

 けれど、このまま帰るという選択肢はなかった。いや、帰れない。という言葉が近かったかもしれない。


「なーんで入らないといけないんだろな。部活って」


 学びだけでなく、心身を共に鍛えるため。だったっけ。

 数年前に生徒会の誰かが提言して、先生達が乗っかって作られた『スローガン』のおかげで、なるべく部活動には参加しましょうという空気がこの学校を包んでいるらしい。その空気、淀んでない?

 いっそ、生徒会に入るという選択肢もありかもしれない。改革と謳って塗り替えるのはなんだか少し、『楽しそう』だ。

 階段を下った先は教室や廊下にあったような活気はなく、よく言えば落ち着いた空間が広がっている。

 静寂に包まれる空間の中、一部屋だけぼぉっと明りの灯る部屋にわたしは不思議と、灯りに向かう羽虫のように脚を進めることにした。

 その部屋は古びた彫刻や傷のついた長机、絵具に入ったシンナーの匂いが少しわたしの鼻を刺す。ご丁寧なお出迎えではあるけれど、静まり返ったこの部屋――美術室の居心地は心地良いものだった。

 美術部なんて……この学校にあったっけ? 部屋の前にはお手製の看板も無ければ、呼び込みの『先輩方』の姿も無い。もしかして、何かを描いているあの男の人だけが、唯一の美術部員なんだろうか。


「こんにちは」

「えっ、あぁ、こんにちは」

「美術部ってここで――って、君たしか同じクラスの……」

「クラスメイトAで良いよ」


 いや、良くないでしょ。

 整容検査で絶対に引っかかりそうなくらいに伸びた髪、どことなく疲れてそうな彼はクラスメイトの……Aくんでいいか。とりあえず。先輩とふたりきりというのは中々どころでは無いくらいにハードルは高いけど、ただのクラスメイトであれば簡単に飛び越えられるだろう。


「てか、この学校美術部ないっすよ。えーっと……」

「海原咲。咲でいいよ」

「海原さん」

「咲でいいって。それとわたし、先輩でもないから敬語じゃなくていいよ」

「ん、」


 敬語じゃなくていいとは言ったけど、『ん』は無いんじゃない……? まともにわたしの目も見てくれないし、そんなに目の前の絵が大事なの?


「ねぇ、ちょっと見ててもいい?」

「面白いもんでも無いと思うけど、気が済むまでどうぞ。あとこれ椅子」

「あ、ありがと」


 机の下から引き出してくれた椅子に座り、彼が一心に向かうキャンバスにわたしも目を向けてみる。白のワイシャツに黒い髪、モノクロな彼から描かれるそれはピンク、青、緑、茶、色鮮やかな広い空の下が描かれていた。手入れもしていなさそうな、ボサボサな髪をしている彼からこんな繊細な絵が生まれるとは思ってもいなかったから、思わず手を二度三度叩いてしまう。

 ごめんごめん、驚かすつもりはなかったからさ、そんなに睨まないでよ。


「綺麗な桜だね!」

「入学する前くらいにさ、家の前で咲いてたの思い出したんだ。まぁこれ、梅の花なんだけど」


 言いながら彼は筆を置き、乾ききっていないキャンバスに触れないようにして指を指す。


「ここ、桜は花の先っぽが割れてるけど、梅の花はもっと丸っぽいんだ。これだとわかりにくいか……」


 うんうん唸りながらキャンバスを凝視する彼に合わせてわたしもその花をよく観察してみると、頬に彼の指が触れる。


「あぁ、悪い」

「あははっ、別に気にしないって。それにしてもきみって絵、上手なんだね」

「これでもまだまだだよ。いや、全然だ……全然」


 低い声がそう、繰り返す。全然。素人目にしか見れないけれど、これだけ上手に描けている絵に対して彼の言う『全然』は、謙遜でないことを声色が教えてくれる。

 今のわたしには到底描けないであろうそれですら満足していない彼の姿にわたしは、入学して初めて心を動かされたような気がする。

 この人はどこまで行けば満足するんだろう。

 わたしはどれくらいがんばったら彼に追いついて、追い越すことができるんだろう。

 追い越せたらわたしも彼も、どうなるんだろう。

 ――おもしろそう


「えっ?」


 わたしの中で、何かスイッチの入った音がした。彼も聞いて眉を動かしながら、わたしを見る。

 思わず出てしまった声を手で塞ごうとしても既に時は遅かった。わたしは一体、どこからどこまで声に出していたのだろう。気にしないで。とは言えない。もしも取り返しのつかないことを言ってしまっていたら、それは彼を傷つける言葉にしかならないから。


「それなら一枚、描いてみるか?」

「え、えぇ? 今から?」


 わたしのうんを聞く前に彼はもう動き出していて、描きかけの一枚を奥に飾り、新しいキャンバスを立てかけ席を譲る。

 見繕ってくれた新しい筆を受け取っては見たものの、わたしは戸惑うだけで一滴も色を落とすことはできずに彼を見る。


「絵って……何を描けばいいの?」

「いきなり本質を突くような疑問だな……好きなもの――って言っても難しいか。咲、海原咲……海辺に咲く花。とか」

「安直すぎない? それわたしの名前から取ったでしょ」

「あ、いや、いい名前だな。って思って」

「……そう」


 なんか調子狂うなぁ。急にそんなこと言って来るなんて思ってもなかったし。言いながらもとりあえず、彼が提案してくれた海辺に咲く花というものを描いてみよう。

 海と言えばまずは青でしょ。絵具を水で軽く薄め、安直にも色を乗せながらわたしの中にある海を塗り、空を塗り、波辺を描き、花を添えた。

 海ってこんな色だったっけ?

 花って言っても、あの花ってどんな形だったっけ、どんな色だっけ。

 迷いながら描いたソレは彼の絵とは比べ物にならない程に歪で、率直に言ってしまえば不格好そのものな一枚。

 まじまじと見る彼の視線に耐え切れなくて、わたしはソレから目を逸らす。


「ははっ、全然ダメダメだったなぁ。キャンバスと時間、無駄になっちゃったねぇ」


 そう言って見せても彼はわたしの絵から目を背けることはなく、ただただ見つめているだけ。むしろより興味深く前からも横からも視点を変えて評価しているようだった。

 ……なんだか、わたしを見られているみたいでちょっと、恥ずかしいかもしれない。


「俺は別に、これが悪いものだとは思わんな」

「えぇ? だってさ、さっき描いてた梅の花の方が全然上手だったじゃん」

「線を真っ直ぐ引けたら上手。色鮮やかに描けたら上手。そんな誰でも言えることに耳なんて傾けなくていい。少なくとも俺はこの絵を『いい絵』だと思う」


 ホントに? なんてまた自分を茶化すように笑って見せようとはできなかった。ぼさっとした彼の重たい髪の毛の先に光る瞳はあまりにも鋭くて、真っ直ぐだったから。

 日当たりの悪い美術室の中で、彼の瞳は鈍く光っているみたい。


「結構迷って描いたんじゃないか? 海に咲いてる花ってなんだ? それってどんな形してるんだ? 色は? そもそも海ってどんな青だっけ? とか」

「もうおっしゃる通り。ぜんっぜんわからなくてさ」

「それでも、適当に描いたりはしなかったんだな」

「わ、わかる?」


 これを見て出た『真剣に描いた』という言葉は、わたしの背中をくすぐっているようだった。代わりに頬を少し引っかきながら、偽ることはせずに頷くことにする。


「えと、咲――の迷いが表現されてる気がしたんだ。あぁ、もちろんいい意味で、だ。海を描いているようで、海を描いていないみたいな」

「それって結局、こういうものを描いてください。って言われたのに別のものができちゃいましたーってやつだよね。それでいいの?」

「これがテストだったら0点だろうな」

「赤点ギリギリでもないんだ」


 思った以上に厳しいこと言うんだね、この人は……わたしをどうしたいのかよくわからないよ。言ってることも掴みづらいというか、曖昧で、ふわふわしてて、雲みたい。


「自分の中で見つけられてないからこそ曖昧な線になる。ぼやけた色になる。……それでも描き切った。途中で投げ出すことはしなかった。だからつまり――」


 海原咲という題材が、この絵なんだと思う。


「わたし、自身?」


 改めて自分の描いた絵を見つめてみる。

 真っ直ぐに引けなかった線。波ってこういう形だったっけ? そんな迷いから引いたものだったかもしれない。

 薄く、塗り方にもムラのある不格好な花。こんな色の花、どこかで見たような…… 心の引き出しを開けて置いた色なのかもしれない。

 海を描いているようでそんなもの描いてなくて、花を塗っているようで別のものを塗っていたようで、わたしはわたしの中にある原風景を知らぬうちに描いていた、らしい。

 どこかでこんな言葉を聞いたことがある。


「――心の海」


 ぽつりと呟くとそれはわたしの中で鮮やかに広がる。


「いいタイトルだな。目に見えないものを描くのは難しいことだ。それこそ、一生を賭けても描けなかった人間だってたくさん居る。この絵を描けるのはうな――咲しかいないんだよ。だからもう一度だけ言わせてくれ」


 ――『良い絵』だな。

 瞬間、胸が跳ねる。

 大抵のことはなんでも上手くこなすことのできたわたしの初めての失敗。

 その先でこれだけ真剣に向き合ってくれた初めての同級生。

 わたしの知らないわたしを見つけてくれた、初めての人。

 たくさんの『はじめて』をくれたきみ。

 どうしよう。今の彼に上手く目を合わせることができない。さっきまであれだけ簡単にできていたというのに。今はとてもじゃないけど、簡単にこなすことはできなかった。


「それじゃ俺、今日はもう帰るから」


 そんなわたしを置いて筆を片付け、色を落としたパレットを立てかける彼。

 部屋を出る直前の彼を止めたのはわたしのひとこと。


「ね、ねぇ! 名前、名前。まだ聞いてない」

「クラスメイトAじゃだめか。そりゃそうか」


 当たり前のことを言いながら彼は振り返り、伸びた髪の隙間からわたしを見つめ、彼は告げる。


「悠。朝風 悠」




 朝風くんとの馴れ初めなんて話す機会なんて一度もなかったから、ぐちゃぐちゃになった脳内を隣を歩く文に放り投げてみたけれど、これで良いのだろうか。


「へぇ~、咲と朝風君ってそんな出会い方だったんだ。へぇ、へぇ~」

「なんでそんな楽しそうにしてるのよ」

「だって楽しいもん。実際」


 笑顔。とはまた違った笑みを浮かべる彼女は下る陽に照らされて良く光る。影一つないこの笑みは、それはそれで少し怖いけど。

 それ以上に話してしまったという事実の方が、怖かった。


「こ、これ! 誰にも言っちゃだめだからね! 秘密だよ、秘密!」


 文が朝風君を狙ってるなんて話は聞いたことがないから大丈夫だとは思うけど、こういうお話が好きな彼女が口を滑らせてしまわないかは本当に心配になる。……フリじゃないからね?


「大丈夫大丈夫。ウチに任せてって」


 ホント、大丈夫かなぁ。

 親指を立てる彼女を今日くらいは信じてみても良いかもしれない。多分。


「それで、もう満足した?」

「そうだねぇ、思った以上にまんぞくーって感じだけど、丁度近いみたいだし恋人の丘。行ってみない? ほら咲もさ、予行練習だと思って」

「こんな学校近くには絶対行かないと思うけどね」

「遠かったら行ってたんだ」

「揚げ足取らないの」


 言いながら、なんだかんだでわたしもこの島を楽しみながらしばらく脚を進めてみることにした。

 その丘は本当に近くにあったみたいで、ものの5分もかからずにその姿を現した。広がる海を一望できるスポットにはドラマの結婚式で良く見たような鐘がひとつ吊るされていて、丁度その前に立っているのはわたしたちと同世代くらいの人。実は同級生だったりして。


「さ、ウチも満足したし、帰ろっか」

「まだ着いたばかりじゃん。もうちょっと見て行ってからでも――」

「ウ、ウチアイス食べたくなっちゃったなぁ! さ、咲、あっちにカフェあるらしいしさ、ちょっと休んでいこうよ!」

「……どしたの急に」


 折角行きたいって言ったからついてきたのにもう帰ろう? わたしの手を引っ張る彼女はどこか急いでいるみたいで、いや、焦っているみたい。それに、さっきからどこかチラチラ見てる感じだし。

 思い切って手を振り払い、彼女の視線の先に目を向ける。それは鐘の前にいるカップル? に向けられていて。そこに居たのは髪の短い知らない女性と、こんな夏でも長く髪を伸ばす男の人が居た。

 その隙間から時折見せる瞳をわたしはなぜか、知っているような気がした。


「あさかぜ……くん?」


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