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第29話「一寸先で、更に咲き」

 ゴツゴツとした岩肌はおそらく、寄せては返す波が長い年月を経て侵食していったこの島の傷跡なんだろう。けれどそれは人の傷跡とは違って、痛々しいと感じることをわたしはしなかった。むき出しの岩肌に何も感じないのは多分、心がないからなんだろう。わたしじゃなくて、この島には。

 その周りを囲うように敷かれた橋をわたしは一歩、また一歩と。あの子と一緒に歩く。


「橋っていいよねぇ」

「橋、好きなの?」

「そうじゃなくて。その、進路が決まってて……」

「それで言うとこの橋の先、真っ暗なんだけど」

「ぐぬぬ……」


 どことなくナーバスなあの子は頭を抱えながらも、わたしと一緒に暗闇に向かって進む。『江の島岩屋』と掛けられた銀のプレートは、ここからが入口ということを教えてくれる。大岩の中にぽっかりと空いた、いや、空けられた洞窟は昼間だというのに暗く、蒸し暑かった外と比べるとひんやりとしていて心地良い。


「一応ここさ、パワースポット? らしいしさ。ほら、ご利益いっぱいもらった<文(あや)>ならきっと、将来の道だって見えてくるはずだって! なんかこう、感じない?」

「そう言われるとちょっと……なんかキたかも」


 来るんだ。

 言われてみれば、曲がっていた彼女の腰は立てた棒みたいに伸びたような気がする。……これは暗くて良く見えないせいか。

 そして彼女の肌も心なしか白く、ぼんやりと輝いているような気がする。……これも照明のせいか。


「さっきまですっごく暑かったのにさ、今全然暑くない! これが、江の島ぱぅわー……!」

「江の島ぱぅわー」


 両手を上げ、いわゆる『江の島ぱぅわー』を全身で受け止める彼女のマネをするように小さく、本当に小さく両手を広げてみる。心なしか体の内側から暑さが舞い戻ってきたような気がして、わたしはゆっくりと両手を下げた。こんなところ誰かに見られたら間違いなく噂になるよ……


「ウチ、決めた」

「決めたって、何を?」

「進路。やっぱり藤沢君と一緒の大学行く。今のウチには難しいかもしれないけど、それでもやっぱり、一緒がいい」


 両手を上げたまま、ハリのある声が狭い洞窟の中で幾重にも反射する。薄暗いここであの子が今、どんな顔をしているかはわからない。わかるのは、いつものようにお茶らけている彼女の声色とは違うこと、ただそれひとつだけだった。


「うん、きっと行けるよ。文ならきっと、大丈夫」

「さ、咲ぃ~」


 コロコロ感情の変わる彼女は上げた両手をわたしの背中に回し、強く強く抱き締める。クラスではお調子者と思われている彼女は、誰にもそんな真面目な悩みを話すことは出来なかったんだろう。お調子者の延長線上でこうしているのかもしれない、とは思えなかった。


「あ、文、苦しい」

「あ、ごめん」


 ぱっ。と手を離すあの子の手持無沙汰な手を握りながら、再び洞窟の奥へと進む。少し冷えたここでは、繋いで生まれた熱すらも心地良いと思えるような気がしたから。


「はぁ~、すっきりしたぁ」

「そんなに?」

「うん、もやもやした気持ちが飛んでくみたいで、すっごくいいよ? 咲もやってみたら?」

「本当かなぁ」

「ウチ、ウソ、ツカナイ」


 そこでカタコトになるあたり、またいつものお調子者な彼女が帰って来たみたい。笑いながらわたしもひとつ、声に出してみようと思う。


「あっ、朝風くんともうちょっと、一緒に居れますように。できればずっと、もっとこう、末永く」


 いつも思っていることなのに、いざ声に出そうとしてみると、なかなかに難しい。秘めていた想いは口に出した途端に反響して、私の耳から返って来る。


「言えたじゃん! そうだよねぇ、やっぱりそうだよねぇ。ウチ嬉しいよ」

「急にお父さんみたいなこと言うじゃん」

「だってさだってさ、ずっと好きだったのにいつまでもただのクラスメイトですーってしてたじゃん。その咲がここまで言えるようになったんだよ!」

「ず、ずっと好きなんて言ってないじゃん!」

「あれだけちょっかい掛けてたら好きって言ってるみたいなもんじゃん」

「え、あ、そうなの?」


 たしかにずっと前からだったけど……それならほかの子にもバレてたってことなの? それとも、文だけが知ってるの? それともこれが――


「これが、江の島ぱぅわー……?」

「咲? 大丈夫? でさでさ、結局いつからなの? てかどうして朝風君なの?」


 心配するように顔を覗く彼女はそのまま、わたしにいきさつやらなにやらを聞いてくる。本当に心配、してくれてるんだよね?

 それもこれも全部、話したら楽になるんだろうか。

 話したら先に、進めるのだろうか。


「好きだったのはね、1年生の頃からなんだけど――」

「うんうん、うんうん!」


 秘めたわたしは語る。語ることで先に進めることを願いながら、今は真っ暗なこの洞窟を抜けた先にあるであろう、光を目指して。




 天野がトンボロと呼んでいた潮の引いた浜辺を抜け、この間歩いた方向とは反対の道をしばらく進み続けると、いびつな形の海辺にたどり着いた。

 地面は陽光を反射する眩しい砂ではなく、その熱を一心に受け止めるコンクリートのネズミ色が強く主張していて、見慣れているが見慣れていないその光景に足を止める。

 江の島ヨットハーバー。すぐ横の駐車場に書かれていたその文字から察するに、おそらく港なんだろう。


「この間は山みたいなものだったし、今日は海がいいかなと思ったの。小さいけれど一応、港らしいわよ」


 海は通学するときの電車で見ているからさほど特別感は無いが、これだけの船が軒を連ねて停泊している光景は、まさに圧巻の一言。

 すれ違う人も見える景色も、この間来た時に比べると大分様変わりしているようだ。長い釣り竿とクーラーボックスを積み込んだあの人は沖にでも出るのだろうか。海の向こうではいくつかのヨットが既に出ているようで、飛沫を上げながら自由気ままに海の散歩を楽しんでいる姿もある。

「山と来たら、次は海か。それでも、港に来たのは生まれて初めてかもしれん」

 山が良い?海が良い?テレビで良く聞くセリフを思い出したが、まさか数日の間に両方楽しむことになるとは正直、思ってもいなかった。

 そもそも、ここ数年はどちらにも行かないことばかりだったけど。

 暑さは人を怠惰にしてしまうのだから、仕方が無いだろう。


「朝風君が誘ってくれたスケッチなんだもの。どうせならふたりとも見たことのない、はじめての場所が良いかな。って」


 はじめて。そう言いながら彼女も船脚を揃え航行する自由な海を、白い長帽子の下から覗いていく。


「誘ってくれた。って……」


 事実は事実だが、改めて言われると蚊に刺されたようなむず痒さが走るから、港から延びる桟橋を一歩先に渡ることにした。


「ほら朝風君。こういうの、ドラマでしか見たことはなかったけど、本当にあるのね」


 今日の天野はどこか上機嫌で、橋を渡るだけでも楽しそうに俺を呼ぶ。やはりこの天野は俺の知っている天野ではないのかもしれない。そもそもこいつ、ドラマとか見るのか。

 『SHONAN HARBOR』と描かれた木製の看板は、どちらかと言えば海外ドラマでよく見るようなテイストだった。白と赤で塗られていて、Rの文字が掠れているところを見るに、年季が入っているように見える。

 湘南、そうか湘南か。


「たしかに、刑事ドラマとかでよく見るかもな。夕陽と一緒に追いつめられるやつ」

「どちらかというと恋愛ドラマじゃない? 夜にここまでドライブするの」

「え、お前恋愛ドラマ見るの?」

「て、テレビを点けてたらやってたのよ。たまたま……たまたま」

「たまたま」

「えぇ、たまたま」


 別にそこを強調しなくても良いだろう。

 たまたまならどうしてそんな顔をするんだ。如何にも『悪い?』なんて顔。


「別に、誰も言わねぇよ」

「だからっ――……あら?」

「あれ? ママじゃ……ない」


 風に遊ばれる天野のワンピースは唐突にくしゃっと掴まれ、彼女は思わず脚を止める。

 掴んだ本人――知らない小さな女の子も天野もそして俺も、時が止まったように身体を一瞬止めるが、天野はすぐに腰をかがめ、ゆっくりとその女の子の頭を撫でる。


「どうしたの?」

「ママだと思ったんだけどね、違う人だった」

「そっか」

「ごめんなさい」


 麦わらの帽子を被ったその少女は丁寧にその帽子をとり、丁寧に頭を下げる。どうしてだろう、悪いことなんてひとつもしていないのに、心がキュッと締まるような罪悪感が一滴。それでも天野は彼女の顔を上げ、柔らかい笑顔で彼女を包み込む。


「ううん。お姉ちゃんね、ぜんぜん怒ってないよ? ちゃんとごめんなさいできて偉いね」

「うん! ママにね、ごめんなさいするの教えてもらったの。それでね、それで……おねえちゃん、誰?」

「お姉ちゃんはね、『あまのみか』っていうの。それでこっちは……あさかぜおにいさん」

「えっ」

「こんにちは」

「こ、こんにちは」


 俺の紹介、要るか? 要らないだろ。

 急に振られた『あさかぜおにいさん』こと俺はぎこちない礼と小さな笑顔をひとつづつ。あ、目逸らされた。流石に小さな子にとって男子高校生は確かに、怖いよなぁ。


「おねえちゃん達、不思議だね」

「不思議? どうして?」

「お父さんとお母さんはね、頭の名前が一緒なのに、おねえちゃんとおにいちゃんはどうして違うの?」

「えっ」


 今度はぎこちなく天野が首を俺に向ける。俺を見るな俺を。

 仕方なく俺も腰をかがめ、怖がられないよう距離をとってから口を開くことにした。


「おにいちゃんとおねえちゃんはね、パパとママじゃなくて『おともだち』なんだ。きみも『おともだち』居るよね」

「うん! ねんちゅうさんになってね、たくさんふえたの!」

「その子は君と苗字……頭の名前はみんな違うでしょ? それと同じなんだ」

「そっか、ふたりは『おともだち』なんだね! でもね、いとうくんはいっぱい居るよ?」

「それは……例外だな」

「急に素に戻るの辞めて」

「あ、ママだ!」


 名前も知らなかったあの子の呼ぶ声を聞いて、彼女は風のように走り去っていった。全力で走るものだから、転ばないか心配にさせてくるあたり、まさに嵐のような女の子だった。


「お前、ああいうの上手いんだな」


 息をついてから立ち上がる彼女はまた、『あまのおねえちゃん』からいつもの凛とした天野未花に戻っていた。


「私、後輩と接する機会が多かったから」

「お前の中の後輩、広義過ぎないか?」

「年下ということには変わりないじゃない。それにしても、さっきは助かったわ」

「助かった? あぁ、あれは事実をただ伝えただけだ」


 もう少しだけあのままにしておきたかったけど、そうしたら俺自身に身の危険が及ぶことだってあったかもしれないからな。


「事実、うん。たしかに事実。ね」

「どうした?」


 完璧に答えられた気がしたが、どうにも天野にとっては気に入らない答えだったかのかもしれない。答え合わせをしたくても、その顔は長帽子のせいで、よく見えなかった。


「充分散策もしたし、そろそろ一枚くらい描きましょ」

「なら、行く途中にあった東屋まで戻るか。『あまのおねぇちゃん』」

「次その呼び方したら帰るから」

「本当に申し訳ございませんでした」


 少し茶化しただけなんだから怒るなよ。目だけで射殺そうとするのはやめてくれ。

 ふん、と鼻を鳴らした彼女は鞄から折り畳みの日傘を取り出して広げる。が、それを俺に手渡そうとするだけでなかなか歩き出そうとはしない。


「それなら代わりに、着くまでこれさしてて」

「え、お前帽子あるじゃ――」

「さしてて」

「勿論ですやらせてください」


 まぁ、これで機嫌が直ってくれるのであれば安いものだ。

 流石にふたりで入ることは出来ないから、彼女に日が当たらないように傘をさす。

 いつか見たドラマのシーンでこういうのあったなぁ。なんて考えながら、足並みをそろえてゆっくりと来た道に戻る。

 なんだっけなぁ、あのドラマ。

 俺が好き好んでみるようなジャンルではないことだけは、確かだった。

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