絵筆を1本、新調した。
のりで固められた穂先は鋭いけれども、その先に触れたとて私の指が傷つくことは一切無い。突く度に刺さる刺激が今の私にとってはどうしてか、心地よいという感覚を与えてくれる。
「あっ」
滑る指先が遊ぶ時間は終わりと言わんばかりに、その筆を私の手から離す。たしかに、夏期講習もないせっかくの休日をこんなことだけで終わらせてしまうのはもったいないだろう。
と言っても私の部屋で時間を潰せるものなんて、よく探せばようやく指で数えられるくらい。
彼との約束の時間まではまだ時間があるから、ふと目についた日記帳を開き、一日が始まって半分も経っていないというのに、筆を走らせる。
窓際から吹く海風が首筋を撫で、応援してくれているようだった。
今書いているこの日記が多分、私が書く最後の日記かもしれない。
「……この書き出しだと私、死んでしまうみたいじゃない。ある意味では確かに、この間までの私は死んだけど」
お父さんにでも見られてしまったらきっと心配するだろう。心配、してくれるだろう。そうすればもっと家に居てくれる……なんて望みは流石に、幼すぎるわね。
昔から変わらず続けてきた日記は私にとって思い出の宝箱でもあり、同時に呪いの首飾りのようでもあって、筆に触れることが無くなってからも書き続けていたのは多分、『発散』のためだったのかもしれない。
昔のページをパラパラと捲ってみる。筆圧は高いわけでもないけれど、時折見える筆跡の凹みは、痛々しくも当時の私を映しているようだった。
絵から離れようと思っても、それは一日二日ですぐに離れられるようなものでもなく、描きたいアイデアであったり、込めてみたい想いは否応なく浮かび続けるもの。
日記というものは日々の記録をつけるものとしてあるはずなのに、いつしか私は描けずに燻る気持ちだけをそこに吐き出すものとして『記録』し続けていた。
だから辞めるの。
「描けるようになったんだもの。私」
日記を閉じ、机の奥底にしまい込む。そして代わりに、大きめの鞄に詰め込んだのは新しいスケッチブック。
今日からはこの子が私の『相棒』。朝風君から誘ってくれた『お出かけ』の中で私は、何を最初の一枚として描くのだろう。
期待と胸の高鳴りも一緒に詰め込みながら、少し早くも待ち合わせ場所に足を進めることにした。
今日の私を見たら朝風君。びっくりするかしら?
「咲ー、今日暇だったりする?」
「んー? 暇だよー。受験生だけど」
「それ、ウチもなんだけど」
「知ってます―、同じクラスじゃん」
お目当ての夏の新作を手にしながら、少し寒いくらいにクーラーの効いたカフェで暇を潰していると、そんな電話がかかって来た。
賑わいこそないけれどそこそこ人のいるここではなんだか少し恥ずかしくて、要件があるなら手短に済ませてほしいけど……こういう時にかかってくる電話って長いんだよなぁ。
ストローでとってつけたような夏感を味わいながら、あの子の話に耳を傾ける。
「ウチらさ、今年夏っぽいことなんにもしてなくない?」
「夏期講習も一応、夏っぽくない?」
「ぽくないぽくない! もっとこう、楽しいことだよ!」
「それなら確かに、してないねぇ」
わたしは今味わってるけど。
それからもあの子はあれをしてないこれもしてないなんもしてない、してない尽くしのお話をわたしにしてくれる。あ、ソファー席空いた。あっち行こ。
「ごそごそ聞こえるけど……もしかしてお出かけ中?」
「あぁごめんごめん。夏の新作、気になっちゃって」
「そっか。んでさ、どこ行く?」
「ど、どこ?」
「咲聞いてなかったっしょ」
「う、うぅん! 聞いてたよ! そうだねぇ、どこ行こっかぁ」
首を縦に振りながら否定してみせる。ここにあの子が居なくて本当に良かった……
それであの子はなんて言ってたっけ? どこ行く? わたしどこかに連れてかれるの?
時計の針は13を少し過ぎたくらいを指していて、許せる範囲のタイミングではあるから、今日はそのお誘いに乗って上げても良いかもしれない。
「夏と言ったら?」
「うーん、避暑地?」
「咲ってちょっと変わってるよね……避暑地避暑地……海! 海行こ!」
「海!? そんな準備できないよ!?」
水着だって買ってないし身体だって絞ってないし、流石にこの時間から海は行きたくないなぁ。距離的には全然行けてしまうのが良くないことへの拍車を掛けているような気がする。
「それならさ、間とって江の島行かない? 江の島! 海だってあるし、囲まれてるからきっと涼しいよ! 咲の行きたい避暑地そのもの!」
行きたいとは言ってないんだけどな。
ズゾッ、底が見えるくらいに減った夏の新作はストロー越しで音を立てながら終わりを迎える。ここも肌寒くなってきたし、逆に丁度良いかもしれない。
「うん、いいよ。行こ」
「ホント! どれくらいで近くまで来れそう?」
「20分もあれば着くんじゃないかな? でもわたし、あんまりあそこ何あるか知らないよ?」
「ウチもあんまり知らないけどさ、きっと楽しいって!逆に知らない方がさ、そういうのあるじゃん」
うん、あるかもしれないね。多分。
「あ、恋人の丘!」
「こいびとの……おか?」
「デートスポットらしいよ。そこに鐘があるんだけど、一緒に鳴らすと永遠の愛を約束できるんだって!」
「それ……わたしとやっていいの? 藤沢くんとじゃなくて?」
たまに遊ぶくらいのクラスメイトと一緒に行くようなところではないでしょ……電話を片手に店を出て、駅の方向にゆっくりと足を進める。耳からは日差しよりも暑い惚気話ばかりが流れてくるので、そっと通話音量を下げることにした。
「まぁそこ以外もなんか楽しいとこでもあるでしょ。それに、咲だってそこは朝風君と行きたいでしょ?」
「どっ、どうしてそこで朝風君が出てくるの!」
「あはは、まぁいいや。それじゃウチも出るね~」
聞き返す間もくれずに彼女は電話を切る。ねぇ、最後の言葉は本当に必要だったの?
駅へと向かう間にふと思い返したのは彼と、朝風君と一緒に食べたチョコミントと……名前を忘れてしまったアイス。
味はもう忘れてしまった。けれど、その時のわたしと同じようにまた、少しづつわたしが溶けだしているのがわかる。
違うのは隣に彼が居ないこと。
「あーあ、」
どこかでばったり会ったりとか、無いかなぁ。
「まもなく終点、片瀬江ノ島です。お降りの際は忘れ物なさいませんよう、ご注意ください。小田急を――」
やたら豪勢な見た目をしている駅の改札を抜け、携帯を開くと丁度彼女からの連絡が1件、表示されていた。
――今家を出たから、少し早く着くかも。
数日前に歩いたばかりの道を行きながら適当な返事を返しつつ、心の中でお前もかと小さく呟く。
天野との約束の時間まではまだかなりの余裕がある。わざわざ数本早い電車で来てしまったのは俺もまた、あの日以来会っていなかった彼女が心配だったからなのかもしれない。
「にしてもまた江の島、か」
約束の場所は江の島大橋を渡る手前の砂浜。どうせ集まるのであれば渡り切ったところでも良い気はしているが、何か理由でもあるんだろう。
気持ち早足で向かったためか、砂浜に天野の姿は無い。少し待てばいいだけだろうがどうして、男一人で水着も何も持たず立ち尽くす人の姿なんてほかに居るわけがなく、ほんの少しだけこの砂浜が窮屈に見えてしまう。潮干狩り用に熊手のひとつでも持ってくれば良かっただろうか。
そんなことを考えながら天野を探していると、立ち尽くしている女性がひとり、俺と同じようにすることがない物好きが居た。
深くかぶった長帽子、短く切り揃えられたショートボブ。白いワンピースを来た彼女はまさに、海が似合う女性そのもののよう。
その雰囲気は様となっているようで、立ち尽くしているというよりは黄昏ている、と言った方が良いかもしれない。
俺と同じなんて評価は改める必要がありそうだ。
天野が来るまでその絵になる光景をスケッチブックに一枚、と鞄を漁っていると、携帯が小さく震える。
――着いたけど、もう居る?
――ついさっき、俺も着いたこと。
ううむ、タイミングが悪い。
「んで、どこだ……?」
名残惜しくも漁ったカバンを整えてあたりを見渡すが、広い海岸でこれだけの人の居る場所からひとり見つけ出せと言うのはなかなかに難しい。小さい頃、そんな感じの本で遊んだ記憶がある。ウォーリーだったか、あの人みたいに奇抜な格好でもしてくれていたら見つけやすいが……
そんな遊びはとっくに卒業しているから、取り出した携帯から天野に電話をかけると、3コール目で聞きなれた彼女の声が聞こえるようになった。
「見つけられた?」
「見つけてもらう前提かよ」
「私、もうあなたを見つけてるから。近くに居るの」
「は? なら声でも掛けてくれ」
「そうしてしまったらおもしろくないじゃない」
そんな言葉の後に彼女の笑い声が聞こえる。
携帯電話の先ではなく、先刻まで黄昏ていたあの女性の方から。帽子をとった彼女がゆっくりと振り返り、小さく手を振った。
「あ、天野?」
「……びっくりした?」
喉に詰まった言葉はうまく吐き出すことができない。え、こいつ……ああいや、この女性が天野? まじまじと彼女を見ると後ろ姿こそ違えど、そのいたずらな笑み、深い赤を纏った瞳。まさにあの天野未花そのものだった。
「感想とかも何もないわけ?」
「あ、あぁいや、天野お前、髪切ったんだな」
「えぇ、ばっさりね」
両手でハサミを作り、それは空を切る。あれだけ長かった彼女の髪は今、肩にもかからない程に短い。日差しに照らされた細い首筋は、輝いているようだった。
「感想はまた、後ほど」
「追って連絡いたしますみたいなのはやめて。まぁ、いいわ。行きましょ」
横に並んだ彼女について俺も足を進める。未だに俺の中で彼女は『自称』天野未花ではある、が。
「朝風君、そっちじゃないわ」
島を繋ぐ一歩の橋に向かうと、彼女は砂浜を指しながら俺を止める。まさか本当に潮干狩りでもするつもりなんだろうか。
「ん、江の島だろ?今日行くのって」
「えぇ。でもね、今日は違う行き方をしてみたくって。ほら、ここからさ」
ショーの司会者みたいに彼女は大手を広げて紹介して見せたのは依然変わらない砂浜であったが、この間とは違い明らかに潮の引いたソレはあの島の先まで続いているみたいで、もうひとつの橋のように広がっていた。
「トンボロって言ってね、潮が引いたタイミングで日によっては砂浜から行けてしまうの。橋なんていらないこの道が、私はちょっと好き」
「靴、汚れそうだけど大丈夫か?」
「うん、むしろね、今はそれがいいの」
いくら潮が引いた言っても、そこは泥の道と呼んでも相違無い程には悪い道で、彼女がここを好きという気持ちはよくわからない。踏み込む度に粘り気のある音が足元から聞こえては、靴底に張り付いてくるような感覚だ。
「正直、俺はあっちまで行ければなんでもいいんだけど」
「私も。でもね、教えてくれているみたいなの。この道が」
「この……ただの道が?」
「えぇ、道はひとつじゃない。ってね」
「……そうか」
そうしてまた彼女は笑う。そこには春からこの間まで一緒に居た天野とは違う彼女が居るみたいで、新しい天野と俺はゆっくり道を進む。
「たしかに、いい道かもしれないな」
泥濘を渡りまた、あの島へやって来た。