「どうして天野の前で『あんなこと』、お前は言ったんだ? 柏木」
陽は暮れ、最終を過ぎたバス停から伸びた影を踏む人がもう居なくなった頃、乱暴に吐き捨てるように、隣に居なくても聞こえるくらいの声で俺は、柏木との『お話』を始める。うるさい蝉の声に負けないように。いや、それだけではなかったのかもしれない。
「あんなことねぇ。俺のご忠告もとい親切心をあんなこと。なんて言うのか」
「それなら、ありがた迷惑か」
「まだわかってねぇみてぇだから言うがな。あいつから手を退け。そう言ってるンだよ」
苛立ち混じりに頭を掻く柏木は、ぎろりと俺を睨みつける。察するまで散々言ってきたのに。言っても聞かない奴を見ているような、蔑むような瞳だ。
だからと言って、睨まれただけでアイツの本心にたどり着けるような想像力は持ち合わせていない。あぁダメだ。こいつと話してると段々頭が痛くなってくる。俺も俺で、暑さに参ってしまっていたのだろうか。
「どうしてその必要がある? 俺はアイツに傷つけられた覚えなんてものはそもそも無い。昔話なんてものにも興味はない。アイツが忘れていたとしても隠していたとしても、掘り返す必要なんて無いだろ。――『察しろ』よ」
「ンだと?」
柏木の手はボタンを開けたワイシャツにいくつも皺を作る。それでいい、それでいいんだ、柏木。察しろだのそういう回りくどいことはもう、やめにしよう。
何も言わない俺を睨むだけ睨むと、柏木は再び手を離しベンチに腰かける。
背中に張り付くワイシャツはびっちりと濡れていて、冷汗を吸い込んだソレは冷たく張り付いたまま、俺の背中に隠れているようだった。なにはともあれ、拳が飛んでこなかったことは幸いだろう。
「『俺』はそんな覚えはない。『俺』は興味ない。俺は俺は俺は。自分本位な朝風には難しい話だったみてぇだな。これはアイツ……未花のためでもあるんだよ」
「なにが天野のためだ! 結果アイツはどうなったか、わかってて言ってるのか!?」
「そんな犬みたいに吠えんなよ。ところでお前、ペットとかそういうの飼ったことあるか?」
「また遠回しにクドクド話す気かよ。もういいだろ」
そうでないと今度は俺から、手が出てしまいそうだから。どうも俺と柏木は波長が合わない。だから話も噛み合わないし、無駄に長い『対話』が必要なんだろう。見てきたものやアイツといた時間の違いなんてものではなく、もっと根本的なもので、俺と柏木は違うのだろう。
「物語は順々に話してかねぇと理解できないだろ。特にお前みたいなのはな。んで、どっちなんだよ」
「そう言うのが居たことはねぇよ」
だろうな。言いながら柏木は俺から目を離す。星も見えないのに空に向けられた視線は一体、なにを見ようとしているのだろうか。雲ひとつ無い夕焼けの空はただただ、赤く染まっているだけだった。
「昔、家には犬が居たんだよ。犬種がどうとか気にしてなかったが多分、ラブラドール・レトリバーつったかな。人懐っこいやつでさ。生まれたときからずっと一緒に遊んで、一緒に成長して、大好きだったヤツが居たんだよ」
「居た、ね」
正直、そんな柏木の姿を想像することはできなかった。今のアイツにはそういう愛情の心も行動もなにもかも、感じることは出来ない。むしろ、避けているように刺々しい言葉で乱暴に刺してくるだけだ。
「中学に上がる前くらいだったな。あの時は寒かった。死んだんだよ、コロッとな。バカな俺は死ぬまで一緒なんて本気で思ってたからな、ヒトより寿命が短いなんてことも知らなかった。こんな俺でも死ぬほど泣いたんだぜ? 想像出来ねぇだろ」
「あぁ、出来るわけがないな」
皮肉のこもった笑みを浮かべながら、さぁどうでしょう? といった風に柏木は雑に手を向ける。
こんな俺でもなんて言葉では言っているが、本当に言いたいことはそこじゃないだろう。
あの歪んだ笑顔がそれを物語っているのだから。
『それだけ一緒に居た』ヤツが居ないお前には、わからないだろう?と。
「要は、一緒に居れば居るほど、離れた時の傷はでけぇってことだ。1日2日知り合ったヤツと別れたって別に悲しくもなんとも無いだろうがな、もっと長い間一緒に居たヤツが急に、お前のもとから離れて行ったら、どう思う?」
「……そういうことか」
段々と、柏木の言いたいことがわかってきたような気がする。なるほど、こいつの言葉を借りれば、天野は柏木で、俺はペットの犬みたいだってことか。
そして、俺もいずれアイツから離れる時が来る、そうしたら天野は……ということだろう。
「中学ん時に離れてった後輩は1年とか2年の付き合いだろうな。絵も描けなくなるくらい傷ついてたんだぜ? あいつは。もちろん、離れていったことだけじゃないにしても。だ」
親しいか親しくないかはこの際、関係ない。どんな奴でも一緒に居る時間が長ければ長い程、やっかいにも情というものが生まれてしまう。それは俺に対しても、なんだろう。そして多分、柏木に対しても。
その思考は限りなく正解に近いことを、皮肉にも柏木の落ち着いた声色から想像することができてしまった。感情の起伏が激しいアイツの根幹にある本物の柏木達哉は、今ここに居るのだろう。
それならそれで気になることもある。柏木もまた、天野に対して『情』というものを抱いてしまっているのだろうか。
「それでどうだ、今はお前と居るみたいだが……2回目の別れに直面したら未花は今度こそ、本当にもう何もできなくなるぞ」
夕陽のせいか彼のせいか、伸びた影は一層その濃さを増し、彼の中で溜まっていたモノが漏れ出すように蠢いている。ゆらゆらと揺れるソレはまさに、生きているようだった。
「傷は浅ければ浅いほど良い。お前のためにも、アイツのためにも。俺はそう言ってるんだ」
だから朝風 悠。もう一度だけ言うぞ。
皮肉な笑みもなく、愉しそうに見つめる瞳も無く、向き直った柏木は告げる。
「このタイミングでアイツから、未花から手を退け」
二度目となったその言葉を今度こそ、受け止める。掴まれていた胸倉の圧迫感も無く、俺を脅すものはもう、何もない。
だからこそ俺は、俺の答えを突き付ける。
「断る」
大きく吐かれた溜息が、風に乗る。
「俺がもっと早くお前に会えてればな。最初からアイツの周りに人なんて居なけりゃ、離れてくやつなんて居なくなる。お前のせいでアイツが壊れるかもしれねぇってこと、わかってんのか?」
落ちる夕焼けよりも熱い瞳が、俺を掴んで離さない。けれど俺の答えが変わることは無い。俺もまた、柏木を正面から見つめ返す。
柏木の言うことはたしかに、間違っては無いのかもしれない。最初から天野の傍に誰も居なければ、これ以上彼女が傷つくことは無くなるだろう。ただそれは彼女を傷つけないだけで、天野はこれからも死ぬまで過去に捕らわれ続けることになる。
「それでも俺は、願っちまったんだ。もっとずっと、あいつと一緒に居たい。って」
「あぁ?」
訝し気に俺を見る柏木の反論はない。意図したわけではないが前の俺みたいに、察せずに苛立ちを覚えているような表情だ。
柏木、お前は本当にそれでいいのか? 『鳥かご』に閉じ込めて大切に鍵をかけて、傷つかない『だけ』の天野を見て、お前は本当にそれでいいのか?
「そういえばお前らと会ったのはあの神社だったか。てっきり『次』は大賞を獲れますように。なんてことだと思ったが」
「俺がそんなこと、俺以外に委ねると思うのか?」
「ハハッ、違いねぇ。確かにそうか、あんな我の強い絵描いててそれは無いな」
一瞬、緊張がほぐれたように笑う柏木だが、その瞳の先はひとつも笑えていないように、黒く鈍く俺を捉えているようで、乾いた笑いは湿った潮風に呆気なく攫われていく。射殺すような目つきだ。
「じゃあ聞くがお前、本気なんだな。未花を壊すのはお前じゃないって、本当に誓えるのか」
「当たり前だ。壊す気なんて無いし、壊そうとするヤツなんて払いのけるよ。お前みたいなヤツをな」
「んだよ、俺もそっち側かよ。でも、確かにな。それならそれでいいわ」
言いながらベンチを立つ柏木は、憑き物がとれたように大きく伸びをする。彼から伸びていたあの影は、完全に落ちた陽の前では夜の街に紛れ、その姿は消えていた。
サンダルのペタペタという音と、砂利の擦れる音が誰も居ないバス停に響く。
「あぁそうだ、朝風」
「んだよ」
風に流されるアロハシャツが俺を撫でると、追い越し先に行く柏木は、ゆっくりと振り返る。
「その決意、簡単に捨てるんじゃねぇぞ」
「あぁ、そのつもりだ」
それだけ言って彼は今度こそ俺の前から姿を消した。完全に俺ひとりとなったことを確認してから、堪えていた笑いを吐き出す。
――柏木もまた、天野に対して『情』というものを抱いてしまっているのだろうか。
ついさっき浮かんだその疑問に対して、直接聞いていたらあいつは否定しかしないだろう。絶対に。けれど、彼の最後の言葉を聞いて、その答えがわかったような気がする。
人のこと言えたわけじゃあないが、お前もお前で不器用すぎるだろ。
時期が違えば俺は柏木のようになり、柏木はまた、俺みたいになっていたのかもしれないな。アイツに似たのか、俺も俺で皮肉な笑いが顔を歪めているのを感じる。
「さて、と」
用の無くなったバス停を後にして、俺もゆっくりと歩き出す。
俺も柏木も歩くスピードなんて全く違うけれど、向かっている場所は少なくとも、同じだったんだ。
そして天野も、その一歩はあまりにも小さいけれど、たしかに踏み出そうとしてくれている。
また始めるんだ、ここから。
また踏み出すのは明日からでいい。今日はもう、ゆっくり休もう。
「……帰りますか」